10

「すみません」

 伍郎は丁寧に頭を下げられた。その女性は金髪を―伍郎はその髪型をなんと言えばいいのかわからなかったが―ぐるぐると後ろに巻いて纏めている。とても小さい頭だが、形が良くスッキリしていた。イヤリングが小気味よく揺れる様が目に心地よい。

 顔を上げると赤い口紅が嫌でも目立ったが、その容貌はむしろ口紅などしない方がいいのではないかと思えた。正真正銘の金髪碧眼。かなり控えめに表現しても、美人以外の何者でもなかった。首筋から肩までざっくり空いたドレス姿は絶妙な曲線が優雅で、胸の膨らみが可憐で愛らしい。いささか陳腐ではあるが、まさに"ハリウッド女優"そのものだ。 世の中は広いんだな。

と、伍郎はこんな時にそんなことを思った。これはひょっとしたらビビよりも美人なのかもしれない。いや、ただ単にビビは見慣れた分だけ評価が下がるだけかもしれない。いずれにしても、目の前にいる女性は日常ではなかなかお目にかかることのできない美人であることは確かだ。いささか辛口になるとしたら、いわゆる日本人好みの風貌からは離れているかもしれないが、さりとていかにも欧米風のキツいきつね顔でもなく、絶妙に両者が融合しているといった感じか。

 ビビが猫系ならこの女性は犬系だな。

 ――などと一人問答を頭で繰り返しながらも、伍郎は思わず相手を見入ってしまう。相手と目と目が合っても特に怯まないのはビビのおかげなのだが、伍郎自身はそれには気づかない。

「いきなりビビちゃんを誘ってしまったのものですから、床侶さんにもご迷惑をおかけしてしまって」

 しかし、この白人女性も妙に日本語がうまい。ビビといいこの美人女性といい、僕が会う白人女性は皆日本語がうまいのはなぜだろう?しかもなぜかいつも耳に心地いい発音なのだ。目の前の女性はビビよりも早口でちょっとだけ高音なのだが、それでも美人補正なのか、かなりすんなりと耳に入ってくる。

 ナナコの視線をものともせず、伍郎はそんなことを考えていた。本来であれば、ここで相手はしどろもどろになるはずなのだ。少なくともナナコはそういう場面を何度も体験している。ちょっと当てが外れた気分のナナコ。しかしそんなことはおくびにも出さない。代わりに改めて頭を下げた。

「本当にすみませんでした」

「いいええ」

 伍郎も頭を下げる。

「気にしないでください」

「本当にすみません。私はナナコ・スロニムスキーと言います。もうすぐ始まるコンサートの楽団を指揮をしているジョゼフ・スロニムスキーの娘で、ビビちゃんと同じ大学に通っているのです」

「そうなんですか」

 なんだかすごい話になってるぞ。本当なのか?と伍郎は思わず身構えてしまう。

「今回の演奏会でビビちゃんには父に花束を贈呈するプレゼンテーターになってほしくて、急ではありますが、お願いさせて頂いたのです」

「そうなんですね。……ところで、ビビ……阿木野さんは今どこに?」

「はい、今メイクアップを済ませて、ドレスに着替えてるんですけど、ちょっとサイズが合わなくて」

「サイズ?……ですか?」

 おかしいな。ビビのウエストはかなり細いはずだ。まだ直接見たことも触ったこともないけど。

「胸の部分が合わなくて」

「胸、ですか?」

「はい。ドレスよりも大きくて本人が苦しいと」

「ああ」

 伍郎は納得した。

「本当はもう着替えも済んで、写真も撮って、床侶さんにも会えてたはずなんです。そもそも、ビビちゃんが床侶さんと一緒に記念写真を撮れるならということで私のわがままを聞いてくれたんですよ」

 そうだったのか。しかし……

「なるほどそうだったんですね。しかし、ご覧の通り、僕はこんな格好で、ドレスとは全くもって釣り合いそうにもないです」

「そうそう、そうでした。実は床侶さんにもお願いがあるんでした」

「お願いですか?」

「ちょっとこちらへ来てもらえませんか?」

 ナナコはそう言って伍郎を室内に案内した。先ほどの職員とすれ違い、雑多なものが散乱している中を通り抜けていくと、一人の女性が立っている。日本人で年配の女性だ。

「初めまして」

 肥満体型ではあるが愛らしい笑顔が全てを中和している。

「篠山さん、さっき話していた床侶さんなの。床侶さん、こちらは篠山さん。スタイリストさんなの」

 初めまして、とお互いが型通りの挨拶を済ませると、ナナコは早速、

「ねえ、合いそうな服はあるかしら?」

「うーん。ない」篠山さんの返事はぶっきらぼうだが愛嬌がある分だけ角がない。

「マジで?」

「ないものはないわよ」

「じゃあどうすんの?」

「そうねぇ。右腕に模様でも書く?」

「そういう問題じゃないでしょ?」

「そもそもいきなりなんだもの。それに今回はオペラだから、タキシードなんてないわよ」

「けど、楽団の人たちはみんなタキシードでしょ?」

「あれは自前なの。予備なんてあるわけないじゃない」

 どうやら僕に合うタキシードがないという話になってるようだぞ、と、まるで他人事のように聞き流しつつも、伍郎はナナコの先ほどの話っぷりとは全く違う口調に興味津々だった。やっぱり今風の女性なんだな。そんなものだよな。しかし、ビビはそんな感じは微塵も感じさせないけど、とするとビビは特殊なのか?それとも、僕の知らないところではやっぱりあんな感じの口調なのかな?

 しばらくやりあっていたナナコと篠山さんだったが、ナナコはため息をついたかと思うと、意を結したように伍郎の方に向き直る。そして言った。

「床侶さん、誠に失礼な質問なのですが、スーツをお持ちですか?」

「……スーツですか?」

「はい。できれば紺色のスーツがあればいいのですが。ネクタイは何色でもいいんですけど」

「はあ、持ってますが……」

「本当ですか?家は札幌ですか?」

「もちろん札幌ですよ」

「これから家に帰ってそのスーツを着て来てくださることはできませんか?」

「はいぃ?」

「失礼は承知で言ってるのです。私、どうしてもビビちゃんの希望を叶えてあげたくて。それには床侶さんのスーツが必要なのです」

「ビビの、希望……ですか?」

「はい。私のわがままに付き合ってくれたビビちゃんのたった一つの希望は"ドレスを着た自分と床侶さん(ビビちゃんはあなたのことを先生って言ってましたが)とのツーショット写真を撮りたい"というものでした。だから、叶えてあげたいのです」

 ビビの希望。

 これを言われたら、伍郎としては嫌とは絶対に言えない。はいわかりましたと答えるしかないではないか。しかし、それはそれでいいとして、ここから家に帰り、スーツに着替えて戻ってくるとして……

「本当にすみません。けど、大事なことなんです。ドレスってなかなか着れるものではないし、ドレス姿を好きな人に見せたいというのは、私も女なのでわかります。叶えてくださいませんか?」

 いやわかるよ、わかる。しかし……

「私がちゃんとこの部屋で待ってますから、着替えたら真っ直ぐにこの部屋に来てください。そのように伝えておきますから」

「いや、それはいいとして、ちょっとだけでもビビに会えませんか?」

「ごめんなさい。今別室でドレスを合わせてるのです。流石に彼氏であってもご遠慮していただきたいのです」

「はぁ」

「本当にすみません。ある程度時間がかかるのは仕方ありません。私、必ずここで待ってますから。だから床侶さんにお願いしたいのです」

「はぁ。わかりました」

 かくして伍郎はコンサート会場を後にした。急がねばならない。ここから豊平区の自分の家まで行って戻ってくるまでどのくらいかかるだろう。太った体に鞭打って走るが、勢いは続かずスピードもでない。1ブロック進まないうちにもうヘトヘトだ。しかも、やはり今回も赤信号にことごとくブロックされ放題。

しかしそれでもやらねばならないのだ。

 ようやく駐車場に着き、車を発信させる。交通量の少ない道を選ぼうとしてことごとくドツボにハマりながらも、なんとか中央区を抜けると、流石に流れは穏やかになってきた。そしてそんな頃合いを身計ったかのように、伍郎は助手席に転がっていたガムの箱を拾って中から一粒取り出すと口に放り込む。

 一体この数日間、どれだけガムを噛んだことだろう。眠気防止、イライラ防止、空腹の埋め合わせ。散々噛みまくった挙句にまたもこうして噛んでいる。もう一生分は噛みまくったな、などと思うと思わず笑みがこぼれる。

 いまだにビビと会えないままに、文字通りの右往左往。全くもってなんという日だろう。占いなんかを見たら、今日は厄日になっているに違いないな。ここまで見事な厄日なんて、これまた一生のうちでもそうそうあることではないだろう。もがけばもがくほど会えない。伍郎はそんな気がしていた。

 もう成り行きに任せるしかない。

 そう思うより他にないではないか。これを試練と呼ぶのにはいささか抵抗はあるけど、愛する二人には試練が付き物なのだ、などというある種のロマンチックな空想に浸りたくなるほどに無茶苦茶な日であることは確かなのだ。

 そう。これは試練なのだ。だから乗り越えるしかないのだ。

 豊平区の閑散とした住宅街の一角にある小さなアパートに着いた伍郎は、すぐに自分の部屋に直行した。仕事ではスーツは着ない伍郎だが、スーツは何着か持っていた。

 そもそも紺のスーツなどというものははいわゆる鉄板アイテムであり、社会人なら誰もが持っているものではないだろうか。そしてそれは伍郎も例外ではなく、タンスの奥でハンガーにぶら下がっていた紺のスーツをすぐに見つけ出すと、早速着替え始めた。幸い、胴回りは大丈夫で、ズボンはすんなり履けた。これは一安心。離婚後に買ったのは正解だったと妙な納得をしつつ、

「あれ、Yシャツは……」

 クリーニングに出したまま仕舞われていたYシャツを引っ張り出して肌の上に直に着る。こちらも無理なくすんなり着ることができた。 しかしネクタイがない。あれ、どこにしまったのかなぁ。おかしいなぁ。あちこち探してもどうしても見つけることができない。結局ネクタイは諦めたが、ズボンのベルトも見つからなかった。

「もうなんだよー」

 肝心な時にこういうことが起きるのは偶然なのか必然なのか。

 しかし、今はそんなことに思いを巡らせている場合ではない。早くコンサート会場に引き返さなければならないのだ。しかし、ベルトがないのはどうしよう。胴回りは大丈夫とはいうものの、むしろ余裕があって、すぐにずり下がるのだ。

「仕方がない」

 伍郎は決断した。百均で買う!それしかない。ついでにネクタイもそこで買おう!

 いつもなら歩いて行くスーパーの二階にある百均に、今回は車で向かう。しかし、駐車場は混んでいて、車を止めることができない。この時間は混むんだな、などと悠長なことは言ってられず、伍郎は違う百均に向かう。そしてなんとかベルトとネクタイを手に入れ、トイレで身につけた。よし。問題ない。大丈夫だ。

 が。

 急いでコンサート会場に向かう伍郎は、あることに気づいた。

「……」

 携帯電話がない。

 

「わーーーー」

 

「もうなんなんだよ!もうなんなんだよ!わーーーもうなんなんだよ!」

 

 部屋だ。着替えたんだから当然部屋だ。携帯電話は部屋にあるのだ。間違いない。けど、また戻るのか。一体全体なんなんだ。自分のミスなのはわかってる。けどなんなんだよ。理不尽じゃないのか。

「わーもうどうにかしてくれー」

 車の中でハンドルを叩きながら叫んだ。叫んだところで何が変わるでもない。けど叫ばずにはいられなかった。

「どうすりゃいいんだよ」

 もちろんもう一度部屋に行くしかない。

「なんだっていうんだよ」

 自分のミスだというしかない。

「ひどいよ」

 確かにひどい。しかし、それでもやはり行くしかない。携帯電話に何か連絡があるかもしれないのだ。なんであろうと携帯電話を無視することはできないのだ。

 部屋のタンスの下に携帯電話はポツンと落ちていた。見ると着信はないしメールもない。伍郎はため息をつくと、スーツのズボンの内ポケットに携帯電話をしまい込んだ。

 そしてまた車に乗り込むと、ガムを噛む。先ほどのガムはいつの間には飲み込んでしまっていた。

 不思議なことに、ここまでくると、もう感情が揺れない。混雑する道路にも文句を言わず、赤信号にもイラつかず、伍郎はただただ車を走らせた。コンサート会場近くの駐車場はやはりどこも満車で、結局は数時間前と同じ駐車場に車を停めるしかなかったが、もはやなんとも思わない。そんなものなのだ。

 実はスーツなのにスニーカーであることのチグハグさにはとっくに気づいていたが、もう気になどしなかった。黒のスニーカーなのだ。遠目から見たら革靴に見えるだろう。なんの問題もない。

 さっさと歩き、そしてコンサート会場に着くと、脇目も振らずに先ほどの部屋の前までやってきた。と、そこには先ほど対応してくれた職員がポツンと立っている。伍郎はにこやかに軽く会釈をした。

「もう始まってるんですよね。それでもうナナコさんもビビも席についてスタンバっているんですよね」

「すみません」

「ですよね。会場はどこも静まり返ってますからね」

「席まで案内するように言われてまして」

「ああ、そうですね」

「お二方とは離れてるのですが……」

 確かに離れていた。席は最上級クラスなのだろう。しかし最上級クラスの席と、二人の距離はあまりにも離れていた。一階と二階の端なのだ。おそらくはあそこにいるのだろうと思える場所に、華やかな衣装を身に纏った女性が二人いるが、双眼鏡でもないと確認できない距離なのだ。

「ごゆっくりどうぞ」

 職員は慣れた小声でそう言うと去って行く。

伍郎は椅子に身を沈めながら、遠くに見える二人をずっと見つめていた。

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