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約三時間、もう少しだけ詳しく書くなら二時間と五十分少々はあまりにも長かった。
そもそも伍郎のこれまでの人生において、オペラなるものが占める割合は限りなくゼロに等しかったし、実際、今回こうして(ある種無理矢理ではあるが)鑑賞するような機会がなかったとしたら、おそらくオペラとは一生無縁で終わっただろう。
正直な感想を言うなら、最初こそ「あれ、どこかで聞いた気がする」「いいメロディラインだなぁ」などと思ったもの、伍郎はすぐに飽きてしまった。
結局のところ、なんの予備知識もなく、歌詞が外国語で、普段見慣れていないものを、しかも長時間黙って見るのは、最大限好意的に表現しても"ただの苦行"でしかない。
伍郎はその苦行に耐えるしかなかった。
しかし、ただただ苦行にどっぷりと浸かっていたのかというと、それはそうでもなく、いつもであれば見逃してしまうような大ホールの建築物としての造形を嫌というほどじっくり鑑賞することができたし(建築に関しての造形などこれっぽっちもない)、普段であれば全く気にすることもないであろう演者の衣装もじっくり見ることができた(とはいえ、この席からは人はミニチュアサイズにしか見えなかったが)。このようなオペラが昔は流行って、当時の人々はこれに熱狂したんだろうなぁなどと過去の世界に思いを馳せることもできた。
しかし、このような表現は、例えばオペラ好きな人からすれば、あまりにもひどい侮辱だと思うかもしれない。こんなに面白い、素晴らしいものの良さがわからないのはかわいそうだと思うのかもしれない。
しかし考えてみてほしい。朝の朝礼で校長先生の話を目を輝かせて聞いた人が何人いるだろう?国会中継を最初から最後まで見る人は何人いるだろう?欲しくもない通販のカタログを取り寄せる人は何人いるだろう?食べたくもない店の行列にわざわざ並ぶ人がどのくらいいるのだろう?
誰かにとっては価値があるとしても、それに対して価値を見出せない人も当然いるのであって、それは良い悪いという価値観で判断することはできない。これを言い換えるなら、すなわち「自由」ということなのだ。
伍郎にとってのオペラは、例えそれが超一流の演者によるものだったとしても「興味がない」ものでしかない。つまりそれは伍郎の「自由」なのだ。
しかし、自由には高い代償がついた。伍郎の場合は「長い時間」、正確に表現するなら、
ビビに会えない長い時間
という代償だ。同じ空間にいるにもかかわらず、伍郎はビビに会えなかった。伍郎は何度もビビの座っているであろう席を見た。おそらくはビビであろうその人物がこちらを振り返っているのを何度も見た。お互いに会いたいのに会えない。
休憩時間に会えるチャンスがあるかと思ったが、ロビーが激混みとなり思うように動けない。そうそうに伍郎は諦めて自席に戻った。ここは二階席で、ビビのいる席まで直接移動ができない。もどかしいがどうしようもない。
近いのに遠い。
表現としてはドラマチックだが、実際には残酷でしかない。
それでも、伍郎はこっそり携帯電話の時間を見ながら
「あと少し」
「もう少し」
と自分を励ました。そうするしかなかった。
長い時間は考える時間でもある。しかし、考える時間というのは、えてして悪い妄想が膨らみやすい時間でもある。
伍郎はついつい今回のこの状況を考えてしまった。最初こそ冷静に冷静に、と思いつつも、次第に感情の色が濃くなっていく。それはある意味どうしようもないものだが、それゆえに悩ましい。
本来のプランであれば、今のこの時間はデートを楽しんでいる時間であるはずだった。
どこに行ったのか、あるいは行っているのかはわからないが、楽しい時間であったことだけは間違いない。
そしてビビと別れた後は、どこか(おそらくは自分の部屋で)で一晩ゆっくりし、月曜はまた九州まで丸々車での移動に充てる。これが本来のプランだったのだ。
しかし今のこの状況では、そしてこのままの流れでは、よくて二〜三時間しかデートの時間がない。気持ち的にゆっくりできない。何をしにわざわざ一時的に札幌に帰ってきたのかわからない。
またもやないないづくしではないか!
今日はないないづくしが多すぎる!
まさかこんなことになろうとは!
こんなことなら、改めて月曜にちゃんとデートし直そうか?
しかし、伍郎は会社員で、期限がある仕事を抱えており、数人であっても部下を持つ上司でもある。感情の赴くままに月曜にビビとデートを楽しんだとしても、それだけ確実に負担は増えるのだ。その負担は自分のみならず、部下にも重くのしかかる。文字通り全く休みなしで働いている部下もいるのだ。今回の一時帰郷すら物凄い負担だったのだ。
ビビとの時間はものすごく大事で、だから手放す気などさらさらない。しかし、同時に社会生活も大事なのであって、仕事をしなければそもそも生活ができない。いや、実は慎ましく生活ができる分だけの資金は(ビビと付き合う前から)貯めてはいたが、仕事を辞める踏ん切りがつかない。
伍郎はいつしか目の前のオペラではなく、これからの自分の人生設計を見つめていた。
まんじりともせずに前方を見つめているが、見ているものは現実の世界ではなく、自分のこれからの(空想混じりの)人生だ。
どうなっていくのだろう?このままビビと結婚するのだろうか?それは全然構わないが、ビビはどう思っているのだろう?
自分より二十も歳が離れている女性。この後、さまざまな経験をしていくだろう女性が、今の価値観を維持できるのだろうか?なぜ僕を好きになってくれたのかはわからないが、これからのビビの人生で、さらに好きな人に出会うかもしれない。その時、激しく後悔したりしないだろうか?
僕はバツ一でもう中年に差し掛かろうとしている。見た目はお世辞にも良いとは言えないし、実際モテた試しもない。
なぜ僕なんだろう?
嬉しいけれど、まだ完全なる実感がないのだ。
そしてその実感のなさが、伍郎をふらふらさせた。
確かにビビはえっちなおじさんを騙して金を搾り取る、なというような悪党ではないし(デートの際、ビビは必ず自らもお金を出す)、人の陰口悪口や僻み嫉みを聞いたこともない。女性特有の駆け引きをするような気配もなく、給料や貯金の額を聞いてきたことも一度もない。
多くの女性は、計算している、演技している、損得勘定をしている。
伍郎の女性観はある意味ものすごく拗れているのかもしれないが、その拗らせぶりからすれば、ビビはまさに異質、異様な存在だった。あり得ない女性だった。
一緒に写真を撮りたい、……か。
そこには確かに打算なんて一つもない。きっと本当にそう思ったんだろうな。こんなおっさんと一緒に写真を撮りたかったんだろうな。そう思うと、自分がスニーカーを履いていることが申し訳なく思えた。ちゃんと革靴を履けばよかった。どうせこんなに待つのなら、部屋に戻っても同じだったのではないか。些細な手間暇を惜しんで、今こうして後悔しているのはなんとも馬鹿げていることではないか。ネクタイもベルトもちゃんと買い直してもよかったのだ。
幕間の休憩時間に伍郎はトイレに行った。鏡に映る自分を何年かぶりにチェックするためだ。こうやってじっくりと自分の顔を見るのは何年ぶりだろう。寝癖は……ない。髭は今朝ホテルで剃ったから大丈夫。目脂とか鼻毛とかもない。ネクタイはちょっと曲がってるので直す。スーツは……鏡に映る分には可もなく不可もなく、か。
土台は直せないから仕方がないとして、せめて清潔感はほしい。なんならここで顔を洗いたいぐらいだが、もちろんそんなことはできない。ハンカチすら持ってないから、仮に洗ったとしても拭けないのだ。
周りの人たちを見ると、皆正装でピシッとしている。きっと自分とは住んでいる世界が違うんだろうな。けどそれも仕方のないことだ。
そもそもオペラを楽しもうなんて、そんな人たちはいかにも上流階級という感じがするではないか。
伍郎は金持ちに対する嫉妬など感じたことはない。世界が違うのだから比べようがないと思っていた。それはいわゆる上流階級に属する人たちに対しても同様で、例えば英語を話すアメリカ人に対して嫉妬するのか?フランス語を話すフランス人を妬むのか?という質問と同じことだった。
彼らと自分は違うのだ。違うものをなぜ無理矢理比較するのだ?
彼らは彼ら、僕は僕。
違うのは当然なのだ。
スーツの襟を掴んでシャキッとすると、伍郎はトイレを出て自分の席に戻った。見ると、席に小さな紙が置いてある。それは明らかにビビの字で、
ごめんね
終わったら絶対会いたい
と書かれていた。
伍郎は慌ててビビの座っているであろう席を見る。すると、伍郎が気づく前からずっとこちらを見ていたのだろう。伍郎が気づいた途端に飛び跳ねるように大きく手を振っている。
伍郎も大きく手を振った。声こそ出さなかったものの、気分は
「おーい!おーい!ビビ!ビビィ!」
やはりあれはビビだったのだ。
不思議なもので、伍郎の気分はいきなりパッと明るくなった。
それまでの余計なウジウジ感が一気に吹き飛び、狭い室内が一気に解放されたような感じがした。
気になってたんだね!僕もずっと気にしっぱなしだったよ!
もうすぐだからね!もうすぐだ!
やがて最終幕が始まり、伍郎は初めて舞台に集中したが、それでもわからないものはわからない。けれど、今は心の余裕がある。心に余裕があることで演者が皆日本人だとようやく気づく。
不思議なもので、なんとなくではあるが、いよいよフィナーレ、大団円なんだろうと思える雰囲気すら感じた。フィガロの結婚というタイトルなのだから、最後はおそらく結婚式なのだろう。お祝いなのだろう。
それはいいことだ。なんであれハッピーエンドはいいことなのだ。
やがて物語が盛大に盛り上がったところで演奏が終わり、舞台には演者が勢揃いし、そして拍手が巻き起こった。いよいよ終わり。長い長い時間がようやく終わったのだ。
ゆったりした振る舞いで拍手に応える演者たち。その中に指揮者も加わると、拍手はさらに激しさを増していく。そして――
「あ、ビビ!」
伍郎は思わず声を出してしまったが、拍手の嵐なので誰にも届かない。
ビビと、おそらくはナナコ、そして伍郎はこの時まで全く気づかなかったが、小さな子供たち数名が大きな花束を持って舞台袖に近づいていったのだ。程なくして舞台の端から登壇すると、おもむろに花束を差し出す。指揮者や演者がそれを受け取ると、拍手はさらに激しさを増し、ビビとナナコ、そして子供たちも加わってのアピールで会場は割れんばかりの拍手に包まれた。
伍郎も思わず拍手をしたが、目はもちろんビビに釘付けだ。
ビビは首から肩までざっくり露出した柔らかいピンクのドレスを身に纏っているのが遠目からだがわかる。胸元がキラキラと輝いていることから、おそらくはネックレスか何かをしているのだろう。髪も後ろでまとめられており、伍郎の席から見ると、ナナコとビビは割とよく似ている感じがした。身長の違いと胸の膨らみを除けば、遠目からはそっくりに見えるのだ。
なるほど、ビビが誘われるのも無理はない。
舞台に負けないほどに映える容姿だものな。
いや、それともドレスの効果なのか?女性を美しく見せるための衣装だから、良い方に補正がかかって見えるのかもしれない。
けど、だとしても、伍郎はビビを誇りに思った。舞台に負けない美貌だと思った。あれこれあった一日だったけど、嫌なことはすっかり忘れ、終わってみれば自分の彼女が素敵であることを再確認したのだから。
さて、長い拍手も終わり、演者も指揮者も降段しそしてお開き。人々は三々五々に帰って行った。伍郎は人の波が引けるをあえて自席で待ち、そしてようやく落ち着いたと思ったところで席を立つ。
予感はあった。
きっとそうなのだ。
そしてやはりそうだった。
席を立ち、振り返ったところに、ビビはいた。
目に涙をたっぷりと溜めている。けれどもとても愛らしい。
「先生!」
そう言うとビビは勢いよく伍郎に抱きついた。
伍郎は危うく倒れそうになったが、そこは踏ん張った。一応男だから。些細な、けど大事なプライドだから。
「ごめんなさい」
ビビはお構いなしに伍郎の胸元に顔を擦り付ける。
「本当に、本当にごめんなさい、私……私……」
伍郎はただただ優しく受け止めた。それしかないではないか。色々な人に見られてはいるが、それももはや気にはならない。それよりも、ビビの腕の力がこんなに強いとは思わなかったな。案外しっかりと体に巻き付いてくるのだ。お返しとばかりに伍郎もそれなりの力で抱きしめ返した。ここで何か気のきいたセリフが欲しいとは思ったが、正直、何も思い浮かばない。そもそも伍郎は流石にもうフラフラなのだ。
「ちょっと会うのが遅くなったけど、とりあえず僕は腹が減ったよ」
「……そういえば私もお腹すいた」
「実は金曜の夜からピーナッツとガムしか口にしてないよ」
「えー」
ビビは顔を上げる。それを見た伍郎は驚いた。
「あ、ビビ、化粧化粧!」
「え、え、何?」
「ちょっとビビちゃんさー」
隣で見ていたナナコが呆れたように声を出す。
「彼氏のスーツがすごいことになってるよー」
伍郎の着ていたスーツの胸元にしっかりと化粧の跡が白く滲んでいた。そもそも舞台映えする化粧品なのだ。基本はライトに負けないようにごってり塗りつけるのであって、なので当然のことながらすぐにあちこちに付いてしまう。
「それにさー、お胸もはみ出しそうだよ」
よく見るまでもなく、ピンクのドレスの胸元はかなり危うくなっていた。
「それじゃあ写真撮れないよー」
慌てて胸元を隠すビビ。
ナナコは笑った。伍郎も笑う。そしてビビも笑った。
「けどさー、床侶さんも流石にまた家に戻って着替えてくるってわけにはいかないだろうし、ビビちゃんも顔がすごいことになってるよ」
「そうか。写真かぁ。ビビは僕との写真を撮りたかったんだもんね」と伍郎。
「そうなの。けど……どうしよう?」
「大丈夫!」突然の声。スタイリストの篠山さんだった。
「もう舞台も終わったし、予備の衣装に気を回す心配も無くなったからさ。二人とも好きな衣装選んでもらって、それで写真撮ればいいじゃない」
「あら、気が利くわね」とナナコ。意地悪そうな言いっぷりだが、もちろん気心が知れているからこそだ。
「当たり前よ。私はプロなんだから。それよりナナちゃん!今回のこの件は高くつきますからね!いくら指揮者の娘だからって言って、ちょっとやりたい放題すぎるわよ」
「いいじゃない。今日は父の誕生日なんだし」
「まあ、そういうことにしておこうか」
ヌッと姿を現した大男は厳つさと柔和さを併せ持ったような存在感があった。引き締まっているであろう体躯にタキシードがよく似合っている。
「パパ!」
ナナコが思わず抱きつく。もちろん彼女は慣れているので、化粧した顔をどこかにくっつけるような真似はしない。それは一見してよそよそしさを感じさせたが、正しい作法なのだ。
なるほど彼がジョゼフ・スロニムスキーなのだと伍郎は納得した(正確にはジョゼフ、あるいはジョセフなんとかスキーだと確認した)。
「何か、また娘がお騒がせしたようで」ジョゼフはやはり日本語が流暢だ。おまけに声がいい。
「そうですよ。なんせいきなり友達を連れてきて、プレゼンテーター見つけたからドレス選んで!とか、もう大変だったんですから」 篠山さんはジョゼフに対してもナナコ同様に気後れする様子が全くない。
「すまん。まあナナコはナナコなりにあれこれ考えたんだろうということにしてくれないか。もちろん追加で払うものは払うから」
「わかってますよ。まあけど、ナナちゃんは流石に見る目があるというか、審美眼があるというか、ちゃんと舞台映えのする可愛らしい女性を連れてきたから、まあよかったんじゃないですか?」
「でしょ?」とナナコ。
「同じ大学で、人目見た時から友達になれそうな気がしたのよ。そしたら今日偶然電車で一緒になっちゃって。ね、これって運命じゃない?」
「運命ってまた大袈裟な」と篠山さん。
「いや、運命なのよ。だってすぐに友達になったし、ねービビちゃん」
「ええ。なんか不思議な感じだけど……」
ビビにはよーくわかる。そう。運命なのだ。なぜなら自分もそうなのだから。
「けど腐れ縁にならなきゃいいけどね」
「大丈夫。だって私たちって二人とも美人でしょ?だからそう簡単には腐らないわよ」
その後、ビビと伍郎はそれぞれ服を着替え(というか取っ替え引っ替え着替えさせられ)、そして化粧までさせられ(伍郎まであれこれゴテゴテ塗ったくられて)市販のカメラとは違う大仰なカメラで写真を撮った。大勢で。二人きりで。何枚も何枚も。この後に及んでは、伍郎も流石に恥ずかしいだの苦手だのと言うわけにもいかず、ただただ流れに身を任せるしかなかった。ビビは密かにスカウトされたらしい。しかし当然断った。華やかな世界には興味がないのだ。そもそも伍郎とのツーショット写真が欲しかっただけなのだ。ナナコは「勿体無い」と言ったが、ビビは「いいの」とにべもない。ナナコの前ではビビは気取らない。気取る必要がないのだ。
その後なぜかナナコの希望で、伍郎と電話番号とメルアドの交換をして、おまけにということで何かの封筒まで受け取った。
「お金ではないけど、ビビちゃんと二人で受け取ってください」
「どうもありがとう。けれど、終わってみれば、なんだか悪い気がします。あれこれしてくださって、本当にありがとう」
「気にしないでください。私ね、ビビちゃんも好きだけど、あなたもとてもいい人だと思う。変な意味ではなく、これからも仲良くしてくださいね」
「こちらこそ」
「写真はビビちゃん宛に送ります。床侶さんはビビちゃんから写真を受け取ってくださいね」
「ありがとう」
コンサート会場を出ると、日はとっくに暮れ、そして星が見えていた。
雲が去ったのだ。
「晴れてる……」
「本当ですね」
二人はお互いを見つめ合った。
そして笑い合った。
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