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ビビを乗せた電車、正確には千歳線は一路札幌に向かっていた。伍郎との電話ですっかり落ち着いたビビはもう焦らない。改札口で駅員にしっかりと確認し、納得して電車に乗り込んだ。今度こそは大丈夫なのだ。
ところでこういう場合、白人であるビビの容姿はいい方に作用することが多い。たとえビビ自身が恥ずかしいと思うような質問であっても「ああ、外国の方なら仕方ない」と思ってくれるからだ。今回もまさにそのパターンだった。
「わからないですよね。日本の路線はものすごく複雑ですから」
とても優しい駅員さんで、身振り手振りを交えながら丁寧に説明してくれた。お礼にビビはにっこり微笑む。
「どうもありがとうございます」
南千歳から苗穂まではおよそ四十五分。なので苗穂に着くのはおよそ午後一時五十分。
車内は割と混雑していたが、ビビは座席に座って、窓から景色を見ることができた。しかも今は心に余裕もある。
もう……本当に今日は散々だわ。
けど、これでもう大丈夫。ちゃんと確認もしたし、先生だって帰ってきてる。会えないわけじゃないのだ。
それなりの空間を確保し、心地よい振動に揺られながら、なんとなくぼんやりと景色を眺める。改めて思うのは、ビビにとって、それは函館とは全く違う世界なのだということだった。
ビビが慣れ親しんだ函館は、その気になればいつでも海が見える。事実、ビビはよく浜辺に足を運んだ。それだけではない。そもそも車からも自転車からも、山からもビルからも、そして友達の家からも海がよく見えた。ビビにとってはそれが当たり前で、いつもの日常だったのだ。
しかしここから海は見えない。どこに行っても海の見えない景色はビビにとって「いつもとは違う不思議な景色」でしかなかった。
ビビは間違いなく北海道民、つまり道民だ。それでも函館以外の世界についてははまるで知らなかった。そもそも北海道を隅から隅まで隈なく知ってる道民はどれくらいいるのだろう?
と言うのも、北海道はかなり巨大な島で、東京から大阪までが収まるような広大な面積を有している。あまりに大きいので県ではなく道として管理しなければならない程だ。
実は北海道にも県はあった。函館県、札幌県、そして根室県だ。しかしこれはすぐに廃止されてしまう。理由は北海道の巨大さそのものだった。幕末にこの地を探検した松浦武四郎の意見によって"誕生"した北海道は、当初は存在そのものが希薄で、しかもいわゆる"日本の中枢"からは遠く離れていたため、北の方にある何か、ぐらいのものでしかなかった。エゾ、あるいはエミシ(どちらも漢字では蝦夷と書く)と呼ばれたのはあくまでも時の朝廷から北方に遠く離れたもの全部に対してであり、その中にぼんやりと北海道のイメージがあったに過ぎない。存在そのものは知られていたが、それはあくまでもぼんやりしたものでしかなかった。
それでも時代を重ねるにつれ、今の松前町に松前藩を設けたりなどして、そこを拠点として地元民との交流を重ねたりもしたが、それはあくまでも一部であり、その頃であっても島としてのイメージはまだなかった。しっかりとした島としてのイメージが出来上がるのは幕末まで待たねばならず、その後、開拓民が屯田兵として開拓を推し進めることでぼんやりとした島がはっきりと形作られていくのだが、その過程で立ち塞がったのは、やはりその大きさだった。
その大きさゆえに開拓は、特に前期開拓では多大な苦労があった。そのため当初は前述の県を置いたりもしたのだが、バラバラに管理していては効率が悪い。そこで北海道全体を管理するための行政組織である「北海道庁」が設置され、北海道全体を一つの行政区域とすることになり、結果として現在に至るもこれが機能することとなった。つまり、現在でも北海道だけが道なのは、その大きさゆえなのだ。
このようにあまりにも大きすぎる島なので、当然場所によって見える景色は大きく変化した。同じ北海道なのに、一括りにはできないレベルで全てが違うのだ。四季折々、さまざまに変化する巨大な島の彼方此方の大自然の風景は道民を大いに楽しませた。事実、北海道旅行のおよそ八割は道民で占められている。道民であっても知らない場所が多いことの証拠でもあった。
と同時に、北海道には道外からの観光客もどっと押し寄せた。雄大な自然、豊かな産物は古今東西、いつの世であっても人々を惹きつけるものだ。それは海外に住む人であっても同様で、北海道にはさまざまな国から多くの観光客が訪れる。アジア系、ヨーロッパ系、さまざまな国から多くの人がやってくるのだ。
ビビが乗っているこの電車にも明らかに外国人であろう人が乗り込んでいるのをビビは見た。けれど、それは身近なことなのだ。もっとも、ビビ自身が外国からの観光客だと思われていてもおかしくはないだろう。見た目だけならビビは確実に日本人とは違う。そしてその容貌ゆえにビビはよく外国人から話しかけられた。もちろんビビには外国の言葉などわからない。だからしどろもどろになるしかない。
「ちょっといいですか?」
それは明らかに外国人、しかもビビと同じ白人女性、いや、ビビと"同年代の、しかも金髪"の白人女性だった。その白人女性がいきなり声をかけてきたのだ。
「あなたはひょっとして〇大の学生じゃない?」
意表をつく質問。しかもものすごく流暢な日本語だ。
「大丈夫。私、日本語わかるし」
自分の思いを見透かされたかのような言葉にビビはたじろいだ。
「え、あ、はい。そうですけど……」
それを聞いた白人女性はにっこり微笑むと、
「ここいいかしら?」
と言いつつも同意なしにビビの隣の席にサッと座ってしまった。居心地を直しながら髪を軽くかき上げる。金髪碧眼。どう控えめに言っても美人としか言いようがない。
「実はね、あなたをよく見かけたのよ。私も同じ大学の学生だから」
「そうなんですか?」
ビビにはわからない。
「ええ。だってほら、目立つでしょ?私もそうなんだけど、私たちってある意味目立つじゃない?というか、黙っていても目立つわよね」
言いたいことはわかる。金髪は目立つ。白人も目立つ。しかもいわゆる"本物"なのだ。なら尚更に目立つ。
「あまり意識したことはないんだけど、けど、あなたを見てたら、ああ、私って結構目立ってるのかも、なんて思ってね」
そう言うとその白人女性はにっこりする。様になる笑顔は「そういう仕草をすると綺麗に見えるということを私、分かってます」とでも言いたいかのようだ。ビビが男性だったらたちまち見惚れてしまうだろう。
「私はナナコ・スロニムスキー。なんか舌を噛みそうな感じの名前よね。あなたは?」
「……阿木野ビビです」
前作をお読みになった読者なら疑問に思うかもしれない。当時一五歳のビビは自身を「阿木野ビビアン」と紹介していたからだ。しかし、今は違う。阿木野ビビアンは大学に入る前に正式に日本に帰化していた。ヴィヴィアン・カンパネッラは日本に帰化した際に正式に阿木野となったのだ。阿木野は母親の姓であり、ビビは正式に母方の戸籍に入ったこととなる。ちなみにいうと、ビビの母親と結婚したビビの父親、義理の父親も入婿となって阿木野を名乗っている。
そしてもう一点、ビビアンはなぜビビアンではなくビビになったのか?
それは誰あろう伍郎のせい、いや、おかげというべきだろうか。正確に言うなら、伍郎の話す"ビビ"の響きがビビには素敵に思えたことが決め手となった。確かに友達からもビビアンではなくビビとは呼ばれてはいたが、伍郎からビビと呼ばれることがことの他ビビにはしっくりしたのだ。言い方を変えるなら「すごく心地よかった」とも言える。
伍郎や周りからビビと呼ばれ、さらに言うなら文字としても書きやすい。ビビアンよりは日本人っぽい(とビビは思う)。こうしてビビアンは自分の意志で正式に阿木野ビビとなったのだった。
「ビビね。いい名前ね」
「あなたのナナコってどう書くの?」
ビビが自分から質問した。
「全部カタカナよ。ナナ子でもなな子でもないナナコ」
「そうなんだ」
「あなたはどこから来たの?」
「私はアメリカ生まれなの。けどうんと幼い時から日本に住んでるし、もう日本人になったから、何人って聞かれたら日本人よ」
「へぇ。あたしは一応アメリカ人。けど、国籍はまだ変えてないはず。だって手続きした覚えがないもの。はっきり言えるのは、私もずっと日本だから英語なんて全然話せない」
「私も!全然話せない!」
「見た目は二人ともこうなのにね」
二人はお互いに笑った。
「本当困るわよ。ずっと日本に、というか、生まれて間もなく日本に来て、それ以来ずっと日本だから、自分がアメリカ人と言われても全くわからない。困った話よ」
「そうね。たまに英語で話しかけられない?」
「あるある!困る!」
「私も!あ、とか、う、とか、もう言葉が出てこなくて。話しかけないで!って思う」
「私も!ねぇ、私たちってお互い似てるわね。友達になれそうじゃない?」
「そうね」
「じゃあさ、電話番号交換してもいいかしら?」
二人はお互いに携帯電話と睨めっこしながら電話番号とメールアドレスを交換した。よく見るとナナコはピンクのマニキュアをしていて、それがビビには綺麗に見えた。
「これ?ビビちゃんもしてみる?」
ナナコはすでにビビ呼ばわりだ。
「いやいい。だって先生が……」
「え、なに?大学の先生がダメって言ったの?」
「あ、いやそうじゃないけど」
うっかり先生の話をしてしまった。なぜかナナコにはなんでも話せる感じがするのだ。
「そんな先生なんて無視しちゃえばいいのよ。だってもう私たち大学生でしょ?それに先生じゃなくて教授とか講師とかだし。まだ高校生気分なの?」
「いやそうじゃないけど」
「というかビビちゃんさ、私たちもう友達よね。友達になったお礼に、ちょっと私に付き合ってくれないかしら?」
「付き合う……?」
「何も難しいことじゃないわ。ねえ、ジョゼフ・スロニムスキーって知ってる?」
「……」
ビビは全く知らない。
「私の父なの」
「へー」
「ちょっとあんた本当になんにも知らないの?」
「ごめん」
「そうなんだぁ……」
ナナコはそう言うと、自分の旅行用ケースを物色し始めた。そして
「これこれ。これ見て」
それはチラシで、よくみるとコンサートと書いてある。
「コンサート!」
「そうよ。よく見て。Kureba十周年記念って書いてるでしょ?記念コンサートなの。しかも演目はヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの"フィガロの結婚"。素敵よね。私も大好き!」
ナナコは思わず鼻歌になる。ビビもどこかで聞いたことがある曲だ。
「華やかで艶やかで素敵よね。ねえ、指揮者が誰だか見てみて」
「指揮者……って、ええっと、ああ、ってええー。これって……ジョゼフ・スロニムスキーって書いてある!」
「そう。私の父よ」
ナナコは誇らしげだ。
「ちなみに母はピアニスト。このコンサートには参加してないけど、もう札幌の家には帰ってるはずよ。さっき連絡来たもの」
どうやらナナコの家は音楽一家らしい。
「父は札幌が大好きになって、それであえて家族で移り住んだの。そんな父だからこそ声がかかったのね。十周年記念だから何か演ってくれませんか?全部任せますからって。すごいでしょ?」
「すごいね!じゃあさ、ナナコさんもこのコンサートに出るの?」
「ナナちゃんでいいわよ。それがさー」
ため息。心底残念そうにすると
「私には才能がなかったのね。弾けない鳴らせない歌えない。どれも全くダメなの。聴くのは全然好きなんだけどね」
「そうなんだ」
「実は昨日も東京のクラシックコンサートに行ってきたんだ。私の好きなバッハで母も出てたのよ。バッハわかる?」
「……ごめん」
「いいのよ。みんなそんな感じだから。けど今度CD貸してあげるから聞いてみて。きっと好きになるから」
ビビにとって、クラシック音楽は未知の世界。何が何やらで、素人が聴いたところで何にもわからない、たとえ聴いても途中で眠くなるようなものなんだろうなという漠然とした思いしかない。ましてやそんなものに対して目を輝かせて熱く語る人などこれまで一人もいなかった。だからこそ新鮮。だからこそ興味が湧いた。
「わかった!ちょっと聴いてみるね!」
「ほんと!嬉しいわ。じゃあせっかくだし……」
ナナコはそう言うと、旅行用ケースからCDを取り出した。全部英語!多分英語!何が書いてあるのかさっぱりわからないが、クラシックのCDであることは容易にわかった。
「父のCDよ。すごいでしょ?これ貸してあげるわ。母のは今はないけど、バッハのピアノ作品集とか出してるからそれは今度ね」
「ありがとう」
ナナコは積極的だ。本当にクラシックが大好きなのだ。いや、それとも両親のことが大好きなのか。この後しばらくナナコのCD談義が続き、そして何枚かのCDがビビに渡された。
「でね、さっきの話なんだけど、ビビちゃんに付き合って欲しいんだ」
「何に付き合うの?」
「もちろんコンサートよ。チラシの日付見てみて」
「……きょう、って今日?」
「そう。今日の午後四時半開演なの。私ね、父に花束をプレゼントしたいんだ。花束贈呈ってやつなんだけど」
「……で?」
「けどサプライズが欲しいのよ」
「……はぁ」
「それをビビちゃんにやって欲しいの」
「はいぃ?」
「ね、お願い!ビビちゃんは美人だからうってつけなのよ!お願い!綺麗なドレスなんて着たことないでしょ?ドレス着て花束贈呈して欲しいの!父を驚かせたいのよ!だって今日は父の誕生日だから!だからお願い!」
「はいぃ?」
流石に驚くしかない。コンサートでドレスで花束だぁ?しかも今日友達になったばかりなのに。そんなの無理に決まってる。だいたい、私にだって大事な大事なデートがあるのだ!
「ごめん無理。だって私、これからデートだから」
ビビはキッパリと宣言した。これ以上先生と会えないなんて絶対無理。嫌われてもいい。もうぶっちゃけてもいい。無理なものは無理。違う日ならよかったけど今日は無理。
「そうなんだ。ごめんね。無理言って」
ナナコはあっさりと折れた。
「彼氏とデートなら仕方ないわね」
「そうなの。今日じゃなかったならいつでもよかったんだけどね」
「そうなんだぁ。ね、彼氏ってどんな人?」
「すごく素敵な人よ。私の先生なの」
なぜかナナコにはすんなり話してしまう。ビビはそんな自分自身を不思議に思いながらも、素直に自分の思いを口にした。
「実はもうとっくに会ってるはずなんだけど、なんか運が悪くて朝からずっと会えずじまいで、今ようやくこうして電車で向かってるんだ。先生を待たせてしまって本当に辛くて」
「そっかぁ。彼氏を先生って呼んでるんだね。それは大変だったね」
「うん」
「早く会いたいよね」
「会いたいよ」
「ね、ところでさ、彼氏と会ったらどこ行くの?」
「それはまだ決めてないけど……」
「そっか」
「そう。デート自体が急に決まったから」
「そっか。それならさ、私、ちょっとした提案があるんだけど」
「提案?」
「そう。これ見て」
ナナコはまたもさっきのチラシを引っ張り出した。
「これ」ある部分を指差す。
「……えすえすななせんえん、七千円!」ビビは思わず素っ頓狂な声を出してしまう。それを見たナナコはまたもあの"魅力的な"笑顔になった。
「そう。スペシャルシートなんだけどね。ここだけの話、何席か空いてるんだ。というか、私がチケット買ったんだけど」
「へぇ」
「どう?彼氏が嫌でなければ誘ってみてもいいんじゃないかしら?」
「えぇー」
「どう?」
「どうって、そんなお金なんかないわ!」
「やーねー。もちろんただに決まってるじゃない。招待したいの。どう?」
「どうって……」
「ついでにさ、あなたのドレスアップした姿を彼氏に見せてあげたらさ、すごく喜ぶんじゃないかな、なんて思うんだけど」
「……」
それはそうかも。ビビはふとそう思った。ドレスなんて今までの人生で一度たりとも着たことがない。自分の部屋で鏡を見ながら行う一人ファッションショーだってオールヌードが限界だ。いやむしろこれからの人生、ドレスを着るチャンスなど一度もないかもしれない。なら、これは確かにチャンスかもしれない。いやむしろチャンスだわ!ドレス姿を先生に見てもらえるなんて……すごく嬉しいことじゃない!
「なんなら彼氏だってタキシードになってもらって一緒の写真なんか撮ってあげるわよ」
ビビは危うく歓喜の悲鳴をあげそうになってしまった。
「そ、そんなことまでしてくれるの?」
「だってここだけの話……」
ナナコはまたも効果的な笑顔になると声をひそめて、
「私、有名人の娘だもの」
全く嫌味に聞こえない。
「なんてね。本当は私も一人でドレスなんて嫌なんだ。実はね、これ、母が私に提案して急遽決まったことなんだけど、けど私ってこう見えても恥ずかしがり屋じゃない?一人じゃどうなの?って思ってて。だからあなたと友達になれてよかったわ。一緒に花束なら恥ずかしくないでしょ?しかもさ、」
「しかも……」
「私たちって、絵になるでしょ?」
ビビにはないものをナナコは持っている。しかも自己アピールに嫌味がない。
「今日は素敵なデートになるといいわね」
ナナコのダメ押しでビビは陥落した。ナナコはまるで「当然!」と言わんが如くの笑顔だ。しかもその笑顔には下心がない。私たち、きっと素敵よ!同意を求めるナナコはとても魅力的な笑顔を絶やさない。
ビビは苦笑した。あんなに思い詰めていたのが嘘のようだ。仕方ないわ。ビビは携帯電話をバッグから取り出すと、伍郎に電話した。
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