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道央自動車道は比較的空いていたが、事故車両が道を塞いでいるため、伍郎は豊浦インターチェンジで高速道路を降りなかればならなかった。原因はわからない。ひょっとしたら長万部から本格的に降り出した雨のせいで車がスリップしたのかもしれない。
伍郎自身はまだ昨日の「あわや自損事故」の体験があったことから、今日は無理をせず"それなりの安全運転"を心がけていたこともあり、むしろそれでよかったのだと改めて思った。
……にしても、五郎にとってこの交通事故が誤算だったのは否めない。高速道路を降りた伍郎は早速選択を迫られた。豊浦からこのまま国道三十七号線を進むか、もしくは国道二百三十号を通って洞爺湖を横切りながら中山峠に進むか。
間違いなく二百三十号の方が札幌には近い。伍郎は経験上そのことを知っていた。しかし、それでも伍郎は悩んだ。理由はこの雨。運転に自信がないわけではない。しかし、雨の中の山越えはリスクがあった。確かにたっぷりと睡眠を取ったので、とりあえずは頭も体もスッキリしてはいるが、完全に疲れが取れたかどうかはわからない。それに昨日のこともある。さらにこのルートには中山峠がある。札幌に着くころにはかなり疲れているかもしれない。一方国道三十七号は雨が降っていたとしてもそれほどリスキーな道ではなく、それなりに走っていればそれなりの時間に札幌に着くのは確実。もちろんこのコースだって疲れることは疲れるだろうが、峠越えほどの疲れはないはずだ。
あれこれ、とはいえ時間にすれば少しだけ悩んで伍郎は決めた。やはりここは最短ルートがいい。どのくらい雨が降っているのはかわからないが、どちらのルートであれ雨は降っていると仮定すると、安全運転で多少のタイムロスがあったとしても二百三十号線の方が近い。
やはり時間は貴重なのだ。できる限り早く札幌に着きたいではないか。
しかし伍郎の判断は早くも裏目に出る。
三豊トンネルを抜けて洞爺湖がすぐ目の前にあるT字路が渋滞しているのだ。しかも左折側でそれは起きているらしい。
「ひょっとしてまた事故?」
とにかく車が進まない。前方には多くの車があって、T字路の先は見えない。一方反対車線は軽快に車が走り抜けていた。
うーむ、困った。
しかし、この道に迂回路はない。なので待つしかないのだ。前方T字路には信号もあり、それがより一層渋滞に拍車をかけているのだが、もちろん伍郎にはどうにもできない。ラジオもこのことを何も伝えてくれないから、状況そのものもわからない。ないないづくしなのだ。そんななで時間だけは確実に過ぎていった。
十時八分。
十時十三分。
十時二十分。
百メートルもない距離を亀のようにジリジリ進み、ようやく信号まで到達。左側はまだよくわからないが、伍郎は信号が青になると迷わず右側に進んだ。洞爺湖をぐるりと一周するルートを選んだのだ。バックミラーをチラリと見ると、パトカーが見えた。やはり事故なのだ。しかもこの様子では派手な事故であることは間違いない。
伍郎は待つよりも動くタイプで、こういう場面での二択では、常に自分で動ける方を選ぶ癖がある。洞爺湖一周ルートは距離こそあるが、何よりも自分で動ける。責任は自分で負う、と書くといかにも男らしいと言えるが、言い換えるならせっかちとも言えた。
そしてこのせっかちさがまたもや裏目に出てしまう。
迂回路も混んでいたのだ。そして伍郎の予想していた以上に進まない。観光客なのか地元民なのかはわからないが、運転は明らかに「景色を楽しんでます」という感じで、追い越そうにも追い越せない絶妙なタイミングで対向車線に車が現れる。前方の車のブレーキランプも何度も光る。
こうなるとイライラが蓄積されるのであって、伍郎も徐々に余裕がなくなっていく。
昔の伍郎ならこんなことが続いたら、思わず「このクソ野郎!」「雨降ってんだぞ!こんな時に景色もクソもあるか!」「とっとと走りやがれ!」などと大声で車内で怒鳴ったかもしれない。
しかし、今の伍郎は三七歳。それなりに経験も積んできた。頭が沸騰しそうになった場合の対処法もちゃんとあるのだと自分では思っている。
伍郎はいきなり車の窓を開けた。
もちろん途端に大粒の雨が車内に入ってくる。夏であっても、雨はそれなりに冷たい。特に洞爺湖の湖畔を進むこの状況では当然冷たい。
ひゃあー。
けれど気持ちいい。
イライラ感が一気に吹き飛んだ。雨脚は強く、すぐに右手がびしょびしょになるが、それでいいのだ。窓を閉めると、服で手を拭いた。
普段の伍郎は滅多に車の窓を開けないのだが、だからこそこういう場面では効果的だった。頭を冷やすというやつだ。この場合は手ではあるが、効果は同じだった。
焦りや怒りは禁物なのだ。だいたいの場合、それは良くない結果を招く。
伍郎はラジオをやめて、大好きなプログレのCDをかけた。
これも気分転換。
とにかく気分を変えなければならない。
わかるフレーズを軽くシャウトしたり両手でリズムをとっているうちに、前方の車も徐々に少なくなり、気づいた時には道を独り占め。気分転換は大成功だ。そうなると表情に余裕も出てくる。
よし、もう遠慮はいらない。伍郎はアクセルを踏みつけた。
法定速度など全く頭になく、自分のレベルでのギリギリの安全速度で県道を走り、さっさと国道二百三十号線に合流。国道だが道は空いていて、ここでも伍郎はギリギリの速さで車を走らせた。道の駅、行ったことのない遊園地、喜茂別町内、北海道の大自然を横目に一気に通り抜け、中山峠まで一直線。
こうなると強い雨も気にならなかった。どうせジタバタしたところで降るものは降るのだ。気になどしてはいられない。
雨の中山峠もあっさり通り過ぎて少し小降りの定山渓を抜けると、特になんの感情も湧かないままに札幌市南区の中心部に到着した。時間は十一時五十五分すぎ。何をどうしたらそんな時間で来れるのか、伍郎にもよくわからないが、それでも札幌まで帰ってきたのだ。
通知音が鳴って、見るとビビからのメール。
いいタイミングでメールが来た!さすがはビビ!そう思いメールを開くと――
ごめんなさい。あと一時間くらいで着きますから
そうか、ビビは遅れるのかぁ。
ふー。
伍郎は肩の力が抜けた。もうあまり急ぐ必要はない。ここからがクライマックスとばかりに車の流れに逆らおうとしていた伍郎だったが、あっさりとイージーモードに切り替わる。あーあー車の流れに身を任せー……なんかそんな歌があったような気がするなぁ。
小雨の札幌はそれでも日曜だからなのか、それなりの交通量で、幹線道路はそれなりに混雑している。目的地の某商業施設まではどうしても市内中心部を通らなければならないので、混雑は避けられないが、もう急ぐ必要はないのだ。肝心のビビが遅れてくるなら焦る必要は全くないのだ。
結局、目的地に着いたのは十二時半近くとなった。
着いたー。
なんだかんだで着いたのだ。九州からここまでやってきたのだ。ノンストップとはいかなかったものの、それでもここまでやってきたぞー!
妙な感覚がじわじわ体を包み込む。
屋内駐車場に車を進めながら、伍郎は高揚感に包まれていた。
俺もまだまだやるなぁー。まだ三七歳だもんな。全然枯れてないではないか。
いや、むしろここまでやれる人間が何人いるんだろう?
いずれにしてもやり遂げたからこそ味わえるものなのだ。伍郎は思う存分その感覚に浸った。
正確に言うなら十二時を三十分ばかり過ぎているのでその分だけマイナスなのだが、たかが三十分程度の遅れじゃないか。ビビだって多めに見てくれるさ……けどちょっと惜しかったなぁ。昨日ホテルで寝落ちさえしなければなぁ。
屋内駐車場はやはり日曜なのでそれなりに混んでいて、伍郎は車を止めるのに手こずった。それでも腹は立たない。そんなこともあるさと、何度か車でうろうろしていると、ようやく空いている場所を見つけ、サッと駐車する。
よし!これでとりあえずはひと段落。あー疲れた。エンジンを止めたはいいが、どっと溢れる疲れに身を任せてはいけない。目を瞑ろうものなら、また寝過ぎてしまうかもしれないのだ。
とりあえずは車から出よう!トイレに行こう!
もう少しでビビも来ることだし。
エレベーターではなく階段を使って二階まで行きフードコートにあるトイレに入る。出てきたところで携帯がブルブル振動して着メロが鳴った。
「今どこにいるのかな?」
すると意外なビビの声。
「しぇんせー」
どうやら泣いているらしい。
「どうした?何かあったの?まさか事故かい?大丈夫かい?」
「違、うんれす、違うん…す」
え、え、どうした?何があった?いずれにしてもビビは興奮状態だ。なんとかしなければならない!
「大丈夫、もう大丈夫。落ち着いてごらん。泣かないでもいいから。どっか痛いかい?辛いかい?」
「そうじ、やないんです。私が悪いんです。私ばかだから間違っちゃって」
「いいかいビビ、自分のことを馬鹿なんて言っちゃいけないよ。誰だって間違うし、失敗もするんだからね。間違わない奴も失敗しない奴もこの世の中にただの一人だっていない。だから気にしない。それよりも大事なのは、その後だよ。一体全体どうしたんだい?」
どうやら苗穂駅に行こうとして反対方面の電車に乗ってしまい、今は南千歳駅にいるらしい。
伍郎は安堵した。
「なんだ。そういうことか。怪我とかじゃなくてよかったよ。それならなんの問題もない。間違ったら乗り直せばいいだけだよ。それよりももう泣かないで。ビビは美人なんだから顔を台無しにしてはいけないよ」
怪我したとか病気だとかそんなのではないし、事件に巻き込まれたとかでもない。このあとちゃんとビビと会えるならなんの問題もない。
そんな伍郎の様子は携帯電話越しにも伝わったらしく、ビビもまた安堵したようだ。声がいつものビビに戻る。
「ありがとう。この後ろうしたらいいですか?」
「僕が迎えに行ってもいいけどね。ちなみに今は某商業施設のいつものカレー屋のあるフードコートにいるよ」
「じゃあ、私また電、車に乗って引き返します。今度はもう間違わないように駅の人にちゃんと確認しますから」
「大丈夫かい?」
「こんなところで待つより、早く先生に会いたいし、先生はずっと運転しっぱなしだから休んでて欲しいの」
いつもの優しいビビだ。もう安心だ。
「わかった。じゃあ少し休ませてもらってもいいかな?」
「休んでいてください。だって私のためにうんと遠くから来てくれたんだから。私も泣いてられないわ。……けど、やっぱり苗穂駅には迎えに来てほしい。近くになったら電話しますから」
「わかった。じゃあ甘えるよ。それよりビビも気をつけてね。焦らないでいいからね。僕は間違いなく札幌にいるんだから」
「はい、ありがとう先生!」
「連絡待ってるよ」
「うん」
携帯電話を畳んで尻ポケットにしまうと、「さてと」と声を出してから辺りを見回した。 ビビが来るまで食事は抜きだな。となると……何時間まともに食事をしていないかは忘れたが、流石に腹が減った。しかし一人で食べるのは良くない。やはりビビと一緒に食べたい。
結局伍郎はここでの食事を断念した。目の前にはいつものあのカレー屋もあるが、伍郎はあえて目を向けず、代わりに違う店でジュースを買う。これならいいだろう。
伍郎は炭酸飲料を好む。シュワシュワした喉越しがたまらないからだ。
フードコートの隅っこに空いてる席を見つけ、そこに一人座りながら、伍郎は買ってきた炭酸飲料をストローで一気に飲み干した。ゲップが出るが気にしない。それで一息ついた気分になった。
それにしてもよく走ったなぁ。
いい経験になった。
目の前の親子連れに目を向けながら、伍郎は一人満足げに微笑んだ。それに気づいた幼い子供がニコニコ顔で手を振る。伍郎はその子供に軽く合図をすると席を立った。おっさんのニヤニヤ顔が誤解を生むかもしれない。とりあえずここを離れよう。
ちょっと館内でもぶらぶらしながら適当に時間を潰して、そしたら苗穂駅まで行こう。ビビも来るだろうし。でも問題はその後にどこに行くかだよなぁ……。
昼間のフードコートは当然のことながら混んでいて、いい匂いも漂ってきている。
やはり何か食べたい。
腹の虫こそ鳴らないが、我慢するのはなかなかに辛いのだ。
ビビと初めてあった時から伍郎は薄々気づいていたのだが、ビビは、物凄い大食漢で伍郎と同じ程度に食べる。いや、伍郎に全く引けを取らないどころか、普通の女性の三倍は食べるのだ。なのでおしゃれなレストランやら気取ったカフェよりも、学生街にありがちな大盛が売りの大衆食堂などの方がビビにはうってつけだった。雰囲気より中身、質より量、ファミレスで二人前三人前頼むことをとても喜ぶタイプなのだ。
そんなビビとの食事はいつも楽しかったし満足感も高かった。ちまちま食べ、少量でお腹いっぱいでは、見てるこちらも食べにくい。気取らないから牛丼屋でも問題ないし、なんならスーパーで買って車中で食べても全く怒らない。
これで食事が楽しくないはずがないではないか。
ビビの食に対する趣向は、伍郎の「それなりでいいからとにかくお腹いっぱい」という趣向に限りなく合致しているのであって、だからこそ不満など微塵もなかった。
どうせ食べるならビビと一緒に。だからこそ待つのだ。ここはさらなるもうひと踏ん張りなのだ。
そう思いつつ、伍郎はフードコートを離れる。
そうだ、本屋に寄ろう。いい本があったら買ってもいいし、いい時間潰しにもなる。いや、なんならこの施設をあちこち見学して回ってもいい。いいものがあったらそれを買ってビビにプレゼントしてもいいな。そうやって三十分程度も時間を潰せば大丈夫だろう。
もう焦る必要はないのだ。
しかし、伍郎のこの余裕はまたもや裏目に出てしまう。
結論から言うと、ビビは苗穂駅には来なかった。そして伍郎はこの後も予期せぬダイエットを強いられることとなったのだ。
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