6

 どこをどう走ったのかよくわからない。コンビニで車を降りて、それから無我夢中で走り、気がついたら、ビビはどこかの路地の四角に出ていた。目の前の信号は赤で、だからビビは立ち止まるしかなかったのだ。

 バッグの中の携帯電話がブーブー震えているが、薫子からの電話なのがわかると無視。今は電話に出ている場合ではないのだ。計算も打算も何もない。あるのは先生に会いたいという、その想いだけなのだ。

 信号で立ち止まり、息を整えながらビビが思ったのは、タクシーのことだった。

 そもそもここがどこなのか、ビビには全くわからない。札幌に来てからまだ数ヶ月。人口およそ二百万の大都市を数ヶ月程度で把握できるわけもなく、ビビには自分の住んでいるアパートと大学の近隣以外の土地勘などまるでなかった。待ち合わせ場所の某商業施設にしても、自分のアパート近くのバスの停留所を知っているのみで、それ以外はまだよくわからないのだ。幸いだったのは地下鉄の存在で、これがなければビビは街に行くことすら到底できなかっただろう。

 このように今のビビはちょっとした絶望的な状況に置かれていたはが、それでも希望はあった。

 タクシーの運転手に聞けばここがどこかすぐにわかる。いや、別にここがどこなのかわからなくてもいい。某商業施設まで送ってもらえばいいのだ。お金はあるのだ。

 ビビはタクシーを待とうか悩んだ。時間は十一時を大幅に過ぎている。ここはそれなりに大きな通りで、だから待っていればタクシーは必ず通るだろう。しかし、いつ通るのかはわからない。

 目の前の信号が青になったので、ビビはとりあえず渡ることにした。気づけば早足で、とにかく気ばかりが早る。けれど、具体的な策など何もない。言ってみれば成り行きまかせ。

 けれども、たとえそうであってもビビは動かないわけにはいかなかった。

 ふと正面奥、ずっと向こうの路地をタクシーが横切るのをビビは見た。思わず走り出す。あそこまで行けば他にもタクシーが走っているのではないかと思ったら、体が勝手に動いていた。こんなにも懸命に走るのはいつ以来だろう?

 しかし苦しさのあまり途中で走れなくなり、荒い呼吸を整えるようにかがむと、それでもなんとか歩き続けた。ようやく目当ての場所に着いたが、タクシーの姿はない。乗用車やトラックがポツリポツリと走ってるのみだ。

 ビビは思わず泣きそうになった。どうにもならない気分。絶望と言えば大袈裟だが、それに近い気持ちだった。

「どうしたの?」 

 背中から声。

 振り返ると、子連れの母親が立っている。幾分くたびれたような髪を後ろで無造作に縛り、シワの多い服を着て、大きな買い物袋を手にし、反対側の手は小さな女の子の手を握っている。

「何かあったの?日本語わかる?」

 と母親。小さな女の子は不思議そうな顔でビビを見ている。

「いえ、あの……」

 母親の姿がぼやける。なのでビビは眼鏡をずらして手で目を擦るが、逆に涙がボロボロとこぼれ落ちた。

「どうしたの?なんかあったの?」

「いえ、いえ……」 

「どうしたの?もう大丈夫だから。心配ないから」

「はい、はい……」

 母親は片手の買い物袋を地面に置くと、ビビが落ち着くまで背中を撫でた。そしてビビが落ち着くと、

「警察呼ぼうか?」と優しく聞いた。

「いえ、そうじゃないんです。ただ待ち合わせの場所に間に合わなくて……」

「え、それで泣いてたのかい?」

 母親はちょっと呆れたような顔をした。しかし、すぐに気を取り直して尋ねた。

「なるほどね。で、どこに行くつもりなの?」

 ビビが某商業施設の名前を告げると、母親は驚いた。

「そこってここからだとめっちゃ遠いじゃん!あんた、なんでこんなところにいるんだい?……って言っても、外人さんだから場所なんてわからないか……」

「ここはどこなんですか?」

 母親は答えたが、土地勘のないビビにはまるでわからない。

「ここからだと歩くのは無理だよ。タクシー拾うしかないね。あとは電車か」

「さっきこの辺でタクシー見つけたんですが、見失っちゃって」

「この辺りはなかなかタクシー来ないもんね。けど、この先をちょっと行くと電車の駅があるからまずはそこに行ったらどうだい?」

「駅ですか?」

「うん。それでまずは苗穂駅まで行けばいいよ。そしたらそこからはバスで行けるはずだからさ」

 母親は心なしか体を伸ばしてキョロキョロと視線を動かすと、ややあっておもむろにとある方向を指差す。

「ほら、あれ見てごらん。あれは高架橋だよ。あそこの近くに駅があるんだけどわかる?」

「高架橋……」

「橋のことだよ」

「ああ……」

「苗穂駅だよ、な・え・ぼ、苗穂駅ね。函館本線だったかな。それに乗って苗穂駅まで行って、あとはバスに乗ればいいから。えーっとあれはなんていうバスなのかな?ちょっとそこは私もわからないから、それは駅の人に聞けばいいわよ」

「ママー、まだー?」

「この女の人が困ってるからね、待っててね。もうすぐだからね」

「すみません」

「いいのよ。ところで急ぐの?」

 ビビはハッとして携帯電話を見る。十一時半を過ぎていた。もう間に合わない。

「遅れそうかい?」

「いえ、なんとかなりそうです」

 ビビは嘘をついた。目の前の親切な人にこれ以上の迷惑をかけたくなかったのだ。それに小さな女の子のこともある。きっとこれから帰って昼食なのだろう。お腹も空いているのだろう。

「ありがとうございます。教えてくれた駅まで行ってみます」

「それならいいんだけど」

「ご迷惑おかけしました」

「いいのよ……それにしてもあんた……」

「なんですか?」

「日本語上手ねー」

 子連れの母親と別れたビビはとりあえず教えてもらった駅に行くことにした。この通りを真っ直ぐ行けばいいとのことなので、その通りに進む。泣いたことで張り詰めていたものが多少は吹っ切れたのかもしれない。なるようになるさ、という気持ちだった。

 待ち合わせ時間には遅れるけど、先生と会えないわけじゃない。駅に着いたら、某商業施設までどの程度で行けるのかの目安もわかるだろう。そうしたら先生に連絡すればいいのだ。先生は待っててくれる。だからなんの心配もない。

 気持ちが和らぐと、少し余裕も出てきた。

 早く先生に会って、カレーライスが食べたいな。お昼はそこで食べようって最初に決めてるし、あのカレー屋は本当に美味しいから、すっごく楽しみ!

 しかしそんな気分も、雨がサーっと降ってきたことでぶち壊しとなった。この日のために買った洋服が濡れたからだ。

「もー、なんなの!」

 結局またも走ることとなり、近くにあったコンビニに駆け込んだ。中には入らず雨宿り。携帯がブルブル震えたが、薫子からだとわかると、またも無視した。いずれは話すけど、今は話したくない。

 雨は少しすると止んだ。しかし空は分厚い雲が動いていて、またいつ雨が降ってきてもおかしくはない。コンビニで傘を買うのがベストだが、ビビは時間を惜しんだ。

 とにかく駅まで行こう!

 スニーカーを履いてきたのは正解だったが、スカートなのは失敗だったななどと思いながら駅に向かう。程なくして駅らしいものが見えてきたのでほっと一安心。そして着いた途端にまた雨が降ってきた。結果としてはこれでよかったのだとビビは思った。

 長めの階段を登って上に上がると切符売り場や改札口が見えた。電光掲示板を探すと、十一時五十五分という文字。携帯を見ると……十一時五十三分!

 ビビは慌てた。これに乗らなくちゃ!!確かさっきの人は函館本線って言ってた!ええっと、なえぼなえぼっと。切符売り場で苗穂までの切符を買い、急いで改札口をぬけると、階段を駆け下り、電車に飛び乗る。駆け込み乗車だが、そんなことには構ってられない。

「ふー」

 よかった。乗れた。

 見ると、二人掛けの座席に一人で座っているパターンが多く、日曜にもかかわらず、それなりに混んでいる。誰も座っていない席を探している間に電車は動き始めた。どうせそんなに時間はかからない。昇降口にいようかとも思ったが、偶然空いている席を見つけると、ビビは窓側に寄りつつ座った。

「はぁー」

 あとは苗穂駅まで座っていればいい。けど、ちょっと……いや、かなり遅れるわ。時間がなかったから調べることができなかったけど、苗穂から某商業施設まではどの程度かかるんだろう?けど、某商業施設には確かに苗穂の文字が入っているから、苗穂駅からそう遠くはないはず。少なくとも一時間以内には行けるだろう。ビビはそう考えると携帯を取り出す。


 先生ごめんなさい。ちょっと遅れるかもしれません。


 電話をしなかったのは、万が一、伍郎が運転中だったら危ないと考えたからだ。

 伍郎からの返事は早かった。

 

 何かあったのかな?


 いえ、何もないです。事情は後で話します。向かってます。


 込み入った事情をメールで送るとなると、無駄に長くなってしまう。電話だとしても同様だ。


 そうか。僕はもうすぐ着くから、気長に待ってるよ。気にしないで気をつけてくるんだよ


 ごめんなさい。あと一時間くらいで着きますから


 携帯をパタリと閉じると、ビビは車窓からの景色を眺めた。このまま座っていれば電車は苗穂駅まで運んでくれる。だからこうして景色でも見ながら待っていればいいのよ。服だってちょっと濡れちゃったけど、そのうち乾くはずだし。

 車窓から見える高層建築物や企業の看板。当たり前だが、札幌は函館とは違う。やはりここは大都市、そして大都会なのだとビビは感心した。そもそもこの路線の景色を見るのはこれが初めてだったのだ。

 景色は軽快に流れ、やがて少しスピードが落ちると車内アナウンス。

 まもなく、新札幌……

「へー」

 ビビは思わず声が出た。きっと大きな街だから人も(大学に合格した私のように)たくさん集まってくるし、それでどんどん拡張しているのね。だから"新"なんだわ。

 電車は滑るように新札幌に到着。札幌ではなく新札幌なので、当然降りることはしない。

駅は"新"にしてはスケール感がなく少しくたびれているような気もするけど、そんなものなのだろうとビビは深くは考えなかった。そもそも目的地は新札幌駅ではなく苗穂駅なのだから、細かなことなどどうでもいいのだ。けれど、ビビはこの後すぐに後悔することになる。

 電車は新札幌を出発した。時々雨の降る曇り空の下を軽快に進む電車。しかし、心なしかどんどん都会感がなくなる気がする。

 でも、あのお母さんが教えてくれた電車にちゃんと乗ってるのだから問題ないはず。

 ビビはそう思いながらとりあえず窓の外を眺めていたのだが、妙な違和感はどんどん膨らんでいく。

 車窓から見える風景が明らかに田舎なのだ。何かがおかしい。そう思いつつも、確認のしようがない。北広島なんてこんな地名の駅が札幌にあるのね……けどなんか、何かが違うような……。不安はあれどビビにはわからない。むしろ訳のわからない不安はどんどんどんどん大きくなっていくばかり。ビビの顔もどんどんこわばっていく。

 そして不安は確信に変わった。

 次は千歳ー

 流石にビビも千歳空港は知っている。千歳空港が札幌にはないことも知っている。

 火が出そうなくらい顔が熱った。恥ずかしくてたまらない。そんな思いでビビは頭が真っ白になった。ようやくこの時点で、電車の進行方向が逆に、すなわち札幌とは反対の方向に進んでいることに気づいたのだ。急いで電車に乗った自分が悪いのだ。どこに行くのかちゃんと確認せずに、時間だけを気にしてしまった結果、大失敗してしまったのだ。けれど、電光掲示板には函館本線って書いてあった気もする。けど、急いでたから見間違えてしまったのかどうなのか、どうしてこうなってしまったのか……

 もう何が何だかわからない。

 どうしよう……

 それ以外の単語が浮かんでこない。さらには、ビビが呆然としているうちに、電車が走り出してしまった。

「え、あ、ちょちょっと待って!ちょっと待って!」

 すぐに座席から立ち上がるが、出発の勢いでふらっと体が揺れ、思わずまたも座り込んでしまう。

「え、なに……」

 またも呆然とするビビ。

「なんで……」

 何かがプチンと切れた気がした。

「……」

 涙が文字通りブワッと溢れた。そしてとめどもなくぼたぼたと流れ落ちる。ビビはそれを拭うこともなく、ただただ流れ落ちるのに任せた。

 もうどうにもできない。何もわからないし、もう帰りたい。

 帰りたい。

 声こそ出さなかったが、ビビはひたすらに泣いた。服が涙で台無しになるのも構わず、濡れるに任せた。もういいのだ。それより帰りたい。先生に会いたい。

 携帯電話を取り出す。けど、今は移動しているのだから電波が繋がらないかもしれない。ビビは待った。そして次の駅、すなわち南千歳駅で電車から降りると、プラットホームに一人立って、電話をかけた。

「今どこにいるのかな?」紛れもない先生の声だ。優しい先生の声だ。ビビはまたもブワッと涙が出た。

「しぇんせー」

 涙でうまく声にならない。

「どうした?何かあったの?まさか事故かい?大丈夫かい?」

「違、うんれす、違うん…す」

「大丈夫、もう大丈夫。落ち着いてごらん。泣かないでもいいから。どっか痛いかい?辛いかい?」

「そうじ、やないんです。私が悪いんです。私ばかだから間違っちゃって」

「いいかいビビ、自分のことを馬鹿なんて言っちゃいけないよ。誰だって間違うし、失敗もするんだからね。間違わない奴も失敗しない奴もこの世の中には一人だっていない。だから気にしない。それよりも大事なのは、その後だよ。一体全体どうしたんだい?」

 ビビは苗穂駅に行こうとして反対方面の電車に乗ってしまい、今は南千歳駅にいることを話した。

「なんだ。そういうことか。怪我とかじゃなくてよかったよ。それならなんの問題もない。間違ったら乗り直せばいいだけだよ。それよりもう泣かないで。ビビは美人なんだから顔を台無しにしてはいけないよ」

「ありがとう」またも涙が溢れるビビ。

「この後ろうしたらいいですか?」

「僕が迎えに行ってもいいけどね。ちなみに今は某商業施設のいつものカレー屋のあるフードコートにいるよ」

「じゃあ、私また電、車に乗って引き返します。今度はもう間違わないように駅の人にちゃんと確認しますから」

「大丈夫かい?」

「こんなところで待つより、早く先生に会いたいし、先生はずっと運転しっぱなしだから休んでて欲しいの」

「わかった。じゃあ少し休ませてもらってもいいかな?」

「休んでいてください。だって私のためにうんと遠くから来てくれたんだから。私も泣いてられないわ。……けど、やっぱり苗穂駅には迎えに来てほしい。近くになったら電話しますから」

「わかった。じゃあ甘えるよ。それよりビビも気をつけてね。焦らないでいいからね。僕は間違いなく札幌にいるんだから」

「はい、ありがとう先生!」

「連絡待ってるよ」

「うん」

 ビビは泣きながらも笑顔だ。肩の荷が降りたかのように、張り詰めていたものがスッとなくなった気がした。

 そうよね。先生はちゃんと札幌にいるんだし。焦っても仕方ないのよね。

 いきなり最初からペースを乱されて、その挙句にこんなところまで来てしまったけど、けど大丈夫なのよね。

 構内の時計を見ると十二時半をとっくにすぎている。いや、その前に携帯電話で時間はわかっていた。今から戻るとなると当然同じ分だけ、いや、それ以上の時間はかかる。けど、会えない訳じゃない。戻る分のお金だってあるし。

 泣いてなんかいられない。

 戻らないと。

 ビビは当たりを見回した。誰もいない。改札口まで行かないと駅員さんはいないのか。涙は乾いたが、顔を両手で擦る。「よし!」と気合を入れると、ビビは改札口に向かった。

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