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 夜通しぶっ通しで高速道路を突っ走り、九州から本州を走り抜け、津軽海峡フェリーで北海道に入ると、伍郎はようやく峠を越えた気がした。

 というのも、伍郎は己の体力に疑問を感じていたのだ。果たして今のこの疲れ切った体で本当にこんな長距離をノンストップぶっ通しで走り抜けることができるのだろうか、と。

 実際には数ヶ月前に一度、今回とは真逆の行程で九州まで行っていたので、やってやれないことはないと思ってはいたのだが、前回と今回とでは状況も体力もまるで違う。余裕を持って二日間で走るのと、ノンストップで走り抜けるのでは全く違うし、今回は文字通り直前まで仕事をしていたのだ。伍郎の仕事は座りっぱなしで完結できる仕事だが、それでも体力は使う。いや、使うというよりはなくなっていく。衰えていく。意識して体を動かさないと、すぐに筋力が低下してしまう。

 ビビを喜ばせたい一心から思いつきで送ったメールのために、伍郎は仕事を前倒しでこなさなければならなかったし、何が何でもノンストップで走り抜けなければならなかった。

 会社を出た伍郎は近くのスーパーで眠気覚ましのためにガムをしこたま買い、タクシーの運転手がピーナッツを食べているという話を見聞きしていたので、これまたしこたま買った。噛みながら食べながら、伍郎はただひたすらに車を走らせた。大好きなプログレ曲をかけながら、知ってる部分を怪しげな英語で歌い、知らない部分は鼻歌で、とにかく意識を保つんだ!と自分に言い聞かせ続けながら走り続けた。どこそこまであと何キロという看板を励みにただひたすらに北上し続けた。

 幸いなことに、天候は悪くなかった。台風は結局九州には上陸せず、台湾の方へ大きく蛇行。本州に入ると夜空には星が瞬いていた。長距離ドライブにはもってこいの天気だが、伍郎にはもちろん星空をロマンチックに鑑賞する余裕などない。

 ただひたすらに車を走らせ、途中で給油した以外はどこにも立ち寄らず、自分の故郷である青森県に入ると、今度は高速道路を降りて近道を駆使。大間まで一気に突っ走ると、海に浮かぶ津軽海峡フェリーの上でイルカの群れに遭遇したことでようやく一息つくことができたような気がした。

 峠を越えた!と思ったのだ。

 しかしフェリーが函館に着き、いざ運転再開というところで、いきなり伍郎の生命電池は切れてしまった。疲れが文字通り身体中にドッと溢れ出し、それが生命のエキスを押し出すことで、行き場を失ったエキスが身体中の穴という穴から全部漏れ出してすっからかんになり、結果、疲れだけが体に溢れてしまう――という、なんとも面倒なイメージが頭に湧いてしまったのだ。

「札幌まではまだこんなにも距離があるのか……」

そう思ってしまったのが原因だった。途端にハイな気分が綺麗さっぱり吹き飛び、面倒なイメージが浮かび上がってしまったのだ。

 もうだめだ。限界だ。アクセルペダルが妙に重い。運転席に座っているのも辛い。

 しかし、伍郎はそれでもなるべく距離を稼ぎたかった。今距離を縮めておけば、それだけ早くビビに会えるではないか!そのためにこうして頑張ってるのだから。それにここからまた高速を使えばおそらくは今夜九時までには余裕で着く。そうだ、あともう一踏んはりなのら、……あ

 ……

 ガクン!

 !

 ハッとして目を覚ますと車がぐにゃぐにゃと蛇行しており、目の前にガードレール。伍郎は瞬間、ハンドルを切り返した。まずいまずいまずいまずい!

 なんとか体制を立て直し、バックミラーを見る。後続車は遥か彼方まで見当たらない。

「ふう」

 一旦車を止めた。

 ものすごい鼓動をどうにか静める為に、意識的に深呼吸をした。何度も深呼吸をしているうちになんとか鼓動はおさまったが、脂汗でハンドルを握る手がぬるぬるする。

 午後六時過ぎ。

 さすがにもう無理。だめだ。

 なんだよ、まだまだ若いんじゃないのか?

 けど、無理なものは無理だ。

 ビビごめん!

 伍郎はあれやこれやと心の中でつぶやくと、ハンドルから手を離してティッシュで拭いた。ついでにハンドルも拭くが、ぬるぬる感が思うようには取れない。

 嫌な感触だがどうしようもない。

 伍郎はあえてその感触を無視すると、ゆっくりと函館市街に引き返すことにした。

 休まなければならない、事故が起きてからでは遅いのだと自分に言い聞かせる。これはビビのためでもあるし自分のためでもあるのだ。

 来た道を戻るのは辛いし、敗北感すらあったが、止むを得ないのだ。

 山道を抜け、開けた景色が徐々に広がっていく。少し走るともう函館だ。所々晴れ間の覗く函館は、ビビと出会った街。伍郎にとっては強い思い入れがある街でもある。特に函館山の見えるホテルには強烈な愛着があった。

 そのホテルは函館に来るたびにチェックインしているのだが、案の条、今回も予約なしで部屋を取ることができた。伍郎にとっては「ビビに出会う直前にチェックインした」ホテルであり、「駐車場で待ち伏せ」されたり、別れた後で「強烈な悲しさを体験」したりという強い記憶と固く結びついているホテルでもある。おまけに「いつ行っても必ず入れる」ホテルでもあった。ビビと出会って以降、伍郎は函館に来ると必ずここに泊まる、まさにご贔屓のホテルなのだ。

 あまりの贔屓ぶりゆえか、実は泊まる部屋も決まっていて、フロント係とも顔パスになってしまっていた伍郎は、今回もあっさりといつもの部屋に通された。中に入ると、やはりいつもの部屋だ。すぐにカーテンを開いて窓からの景色を見ると、函館山もこれまたいつもと同じにまだそこにある。街もいつもと変わらぬ風景だ。

 この窓から函館山を見るたびに、伍郎はなんとも言えない気持ちになる。山頂でのビビとの出会いを思い出すからだ。

 しばらく函館山を見てから視線を下ろすと、そこにはコンビニが見えた。ビビと別れて、もう会えないと嘆いていた時、入浴剤だけ買ってすぐに帰った思い出のコンビニ。しかし、このホテルを贔屓にして以来、何度も足を運び、今となってはこちらも贔屓のコンビニになってしまっている。店長さんともツーカーだ。

 伍郎はカーテンを開けっぱなしにした。そしてそのままベッドに横になる。横になると函館の景色は見えないが、それでいいのだ。風呂に入る前にちょっと一休み。少し目を瞑ろう……

 ふと気づくと、まだ空は明るく、どのくらい経ったかなぁ、とぼんやり思う。初夏なので日は長い。この部屋には壁掛けの時計がないことを思い出して、伍郎は仕方なくテレビをつけた。

 普段の伍郎はテレビをほとんど見ない。なのでどの時間帯になんの番組が放送されているのかよくわからない。しばらくぼんやりとテレビを眺め、そして、思い出したかのようにようやく携帯電話を探す……と、

 !

 驚愕する伍郎。

 おいおいおいおいおいおいおいおい、今ってこんな時間なのか?

 ベッドから飛び起きると、窓に向かう。全天が分厚い曇に覆われているので太陽の位置はわからないが、確かに雰囲気が違う。何より所々あった青空が綺麗さっぱり消えている。

 携帯の時間は七時七分を指していた。十九時七分ではない。

 テレビのリモコンを操作すると「おはよう北海道」なる番組をやっているではないか!

 まずいまずいまずいまずい!

 急いでビビに連絡する。そして三〇分ほどかかってやり取りを終えると、若干悩んでからシャワーを浴びることにした。もうおっさんの域に達しているのだから、臭いも気をつけたいし、身だしなみはエチケットだ。おろそかにはできない。時間を気にしながらなので浴びた気などしないが、何もしないよりはマシだ。シャワーのおかげで意識がシャッキリした伍郎は、慌ただしくホテルを出ると、そのまま車に乗って出発した。思い出に浸っている余裕などもうない。

 割と勘違いしやすいのだが、北海道の広さはちょっとした国レベルで、同じ道内だからといっても、諸都市間の距離は越県するのと変わらない。函館から札幌までの距離は高速道路を利用してもおよそ三百キロ。東京から仙台までの距離が同程度なので、北海道がいかに広いかがわかるだろう。

 ある程度の無茶は仕方がない。交通事故で高速道路の通行規制があったらどうにもならないが、伍郎はリスク承知でそれなりのスピードで車を走らせた。そうしなければならないのだし、そうしたいのだからなんの躊躇もない。幸い体力は回復している。昨夜から何も食べてないが、それまで散々ガムを噛みピーナッツを齧ったので問題ない。

 思いはただひたすらに札幌の某商業施設だった。

 ガソリンは大丈夫!

 よし、ノンストップで行くぞ!

 しかし流行る気持ちを嘲笑うかのように、北上するに従い雲行きがいよいよ怪しく、長万部あたりに差し掛かった頃には大粒の雨が降り出してきた。札幌は曇りの予報だったが、この分だと雨が降っていてもおかしくはない。

 伍郎は運転中の雨は全く気にならないが、札幌方面の天気は大いに気になった。せっかくのビビとのデートなのだ。天気が悪いのは困るではないか。今回のデートは小樽にドライブをするのがいいと考えていた伍郎にとって、海岸線が美しくないのはマイナスポイントでしかない。雨が降ってたんじゃあ、小樽に行っても仕方がないではないか。

 せめて札幌は雨は降ってませんように。

 伍郎は祈る思いで車を走らせた。

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