4

 伍郎からの連絡は日曜の朝の七時過ぎに来た。今は函館で、これから札幌に向かうとのこと。なので十二時に某商業施設のフードコートで待ち合わせすることにした。なぜ某商業施設のフードコートかというと、単純にそこがいつもの待ち合わせ場所だからだ。本来であればビビのアパートまで伍郎が車で行けばいいのだが、ビビのアパート近辺は路駐取締が厳しい場所で、吾郎は実際に一度違反切符を切られている。そのため、待ち合わせ場所を変えざるを得なかったという事情があった。  

 金曜の夜も、そして昨晩も、ビビは結局一睡も出来なかった。しかし若さゆえになんの疲れも感じない。眠れないのはいつもなら心配になるが、今日は何も感じなかった。それどころかどんどん活力が湧いてくるようだ。

 シャワーを浴び、その後ドライヤーでしっかりと髪を乾かす。今日は髪をお団子ちゃんにまとめるのだ。

 化粧はまだよくわからないので、とりあえずは顔を洗うだけ。自分にはまだ早いし、それは社会人になってからというイメージがビビにはあった。

 一昨日の恐怖は何処へやら。胸の部分のきついパジャマなんてとうに脱ぎ捨てていて、今朝はいつもの通り全裸で納豆ご飯を食べる。その後はこの日のために買ってきた勝負下着や勝負服を着、あれこれと身支度に時間を費やした。

「よし!これで準備万端!」

 全身が映る鏡の前に立つと、そこには若く元気な白人女性が映っている。にっこり微笑むと、鏡の向こう側の女性もにっこりお返ししてくれた。

 時間を見るとまだ九時にもなっておらず、少し余裕がある。

 ちょっとだけ座ってテレビでも……

 その後の記憶がない。

 不意に鳴った玄関のチャイムでビビは飛び起きた。

 あれ、先生?

 慌てて玄関に向かい何も考えずにドアを開けると、そこには親友の岸辺薫子が立っているではないか。

「ちょっとビビさー、いきなり出てきたらびっくりするじゃない!」

 ここ一ヶ月ほどは全く会ってなかっただけに完全に意表を突かれた。全くの想定外だった。

「えー、かおちゃんおはよう!」

 挨拶はしたが、ビビは驚きを隠せない。

「おはよう、っていうか何あんたその格好?それにその頭なんてすごく珍しいじゃない。どっかに出かけるの?男でもできたの?」

「いや、その……」

「男じゃないならちょうどいいからちょっと私に付き合ってくれない?すぐに終わる用事だから」

 ビビは薫子には伍郎のことは全く話してない。話せるわけもなかった。二十歳も歳が離れている男性と付き合ってます!なんて言ったら、薫子のことだから面倒になるに決まってる。薫子が部屋に来る時には先生のフォトスタンドすら隠すのだ。

「とにかく下に車待たせてるの、早く来て」

「え、今から?」

「そう。大丈夫、すぐ終わる用事だから」

 半ば強引に引き摺り出されたビビが岸辺薫子と一緒にアパートを出ると、そこにはピカピカの赤い車が路駐してあった。中には人も乗っているようだ。

「いい車でしょ?彼氏のなのよ」

 よく見ると、運転席には以前、ビビが薫子から紹介してもらった"友達"が乗っていた。薫子は平然と"彼氏"と言ったが、以前は幾分恥ずかしそうに友達と言っていたのだ。

「あれ、かおちゃん、後ろにも誰か乗ってない?」

「え、ええ。もちろん!同じ大学の人で、彼氏と同じ医学部の人なの」

 ここまで言うと、薫子は「内緒よ」とでも言いたい風に声を顰めて

「割とイケメンでただいま彼女募集中なんだって」

「えー」

「とりあえず乗って。今日は少しだけ顔見せなんだから」

「えー」

 これからデートだから私困る、とは言い出せないビビ。あれこれ急かす薫子に根負けしたビビは

「本当に少しだけなら」

と、折れた。

「大丈夫。彼氏の車でちょっとだけのドライブだから。ほら、ビビは後ろに乗って!」

 こうなるともうどうしようもない。押し込められるように車に乗せられてしまうビビ。

「おはようございます。前にも会いましたね」と薫子の彼氏が間髪を容れずに運転席から身を乗り出して挨拶してきた。名を滝川隆二と言う。背が高く部分部分がほっそりしていて、いわゆる醤油顔。イケメンに分類されるタイプだ。

「岸辺が強引でごめんね。今日は何か用事でもあったの?」

「おはようございます」とビビ。警戒モードなのがはっきりとわかる能面顔になっている。

「私、実はちょっと用事があるんです……」

「それは急ぐのかい?」

「はい、十二時に」

「そうなんだ。じゃあまだ一時間くらい時間があるし、場所まで送ってあげるよ」

 ビビは驚いた。寝起きでぼんやりしてたのだ。思わず滝川に確認する。

「今って、何時なんですか?」

「ん?正確には十時……ええっと、四十三分。もうすぐ十時四十四分になるよ」

 これみよがしに腕時計をアピールしたが、ビビは全く関心を示さない。それよりも時間が問題だった。

「もうそんな時間!」

「そうだけど」笑顔の滝川。

 もう時間がない。ビビは青ざめた。

「大丈夫かい?なんなら今すぐ送ってあげようか?」

「いえ。あの……」

「ごめんねビビちゃん。急ぎだったの?」薫子が助手席に乗り込むと、車は走り出した。

「大丈夫、これから送って行ってあげるよ、あ、そうだ!ところで、阿木野さん、だよね?阿木野さんに紹介したい人がいるんだ。といっても、もう阿木野さんの隣に座ってるんだけど」

「おはようございます」

 ビビの隣に座っている男性が挨拶。座っている感じからは滝川隆二よりは背が低そうだが、ハスキーボイスがとてもセクシーで、まさに絵に描いたようなイケメンだった。無駄な贅肉などどこにもありません!と言わんばかりに引き締まった体躯はとてもしなやかそうで、だらしなさが微塵もない。

「長谷川秀樹って言います。南城秀樹の秀樹です」

 ビビには南城秀樹はわからない。それに興味もなかった。それどころではなかったからだ。

「おはようございます。阿木野です」

 挨拶をするのが精一杯。ビビの頭の中はパニックモードで警報が鳴っていた。

「こいつはこう見えてすごくシャイだけど、僕と同じ医学部で頭がすごくいいんですよ。けどこういうことには慣れなくて、今もすごく緊張してるからごめんね」と滝川。

「余計なこと言うなよ」と長谷川。

「ビビちゃんもすごくシャイだから気にしないで。私は教育学部だけどビビちゃんは経済学部よ。けど、いいだから」妙な貫禄の薫子。

「へぇー。経済学部か。すごいね。ところで阿木野さん、どこに送って行けばいいかな?」滝川が聞いてきた。

「え?」

 先生とのデートの待ち合わせは某商業施設のフードコート。なのでそこに送ってくれるように頼めば問題はないのだが、自分と先生の仲は誰にも知られたくない。親友の薫子ですら知らないのだ。うんと年上の彼氏の話をしようものなら面倒なことになるのは分かりきってるのだ。

 しかし、待ち合わせは十二時で時間の余裕はない。ならばなるべく近くに送ってもらうことが大事……

 ……などという考えはまるで思い浮かばず、ビビの頭の中では、ただひたすらに警告音が鳴り響いていた。もう何が何だかわからない。気が動転しているビビは、だからこそ咄嗟に思いついた嘘をそのまま話すことしかできない。

「実は授業に必要な本を買いに行こうと思って」

「あーなにそれ教材?」

「そ、そう」

「まだ買ってなかったの?」

「ゼミの資料で突然必要になったの」

「へー、大変ね」

「わかる!それって良くあるよね」滝川も話に入ってくる。

「大変だよね。ってか、なんでもかんでもいきなり言ってくるからなーあれ用意しとけとか」などと同情。薫子がそれに応じる。

「そうそう。ってかまだ大学始まったばっかりの一年生なのに、いきなりこんなに詰め込んじゃって、って感じじゃない?」

「わかる。でもさ、もう三ヶ月くらい経ったけど、俺本当にやっていけんのかなってちょっと不安っちゃあ不安だよ」

「ちょっと何言ってんの、頭いいくせに」

「いや、長谷川には負けるよ。こいつすげーんだぜ」

「別に……」

 いかにも余裕を醸し出すような言い方でポツリと長谷川。これで足を組んでたら嫌味な感じだが、長そうな足を綺麗に畳んで座っている。意識してるのかどうかはわからないが、実にスマートな印象だ。

「こいつはどうやらトップ合格だって話だし」

「本当?すごーい」と薫子。「長谷川さんは頭いいんだね!」

「そうでもないよ」薫子の賞賛に対して長谷川のトーンはゆったりしたものだ。余裕綽々感を醸し出している。

「たまたまだよ」

「そのたまたまってのが怪しいのよ。ねービビちゃん」

「え、ああ、はい、すごいですね」いきなり振られて慌てるビビ。

「でもさ、岸辺も阿木野さんも大学受かってるし、それだけでもすごいじゃない。俺なんて親がさ、塾行け塾行けって小学校の頃からずっと塾で、それでやっとだもんね。あんま勉強好きじゃなかったし」

「私だって塾行ったわよ。函館の塾でね。名前が"東大一直線"って変な名前でしょ?東大出身の先生が教えててね、けどやっぱりその先生が良かったのね。教え方が上手っていうか」

「へぇ。けどすげーネーミングだな」苦笑する滝川。薫子も同意して笑う。

「でしょー。分かりやすいんだけどね、ねービビちゃん」

「ん、あ、ああそうそう。変だよね」

「ビビちゃんってばさー、そこの塾に一緒に行こうって誘ったんだけど、行かないって。この娘ったら、結局塾には行かなかったんだよ。行くのが面倒だって」

「そうなの?」

「……いや、別に」

「それで大学受かったの?それってすごいじゃん。へー。すげぇな。長谷川もさ、こいつも塾とか嫌だって言って行かなかったって。学校で勉強してればわかるからいいって。しかもさ、一番近い公立じゃないと金がないからっていう理由で大学選んだんだぜ」

「ちょっと何それ長谷川さんやっぱすごい頭いいんだね」

「そうでもないよ」

 これまで余裕綽々感ありありの長谷川だったが、なぜか今は顔が真っ赤だ。妙にモジモジしながら「いやぁ」と照れている。

「なんだこいつ、顔が真っ赤だぞ」

「本当ー。長谷川さんもそういう感じになるんだね。いっつもクールだと思ってたのに」

「俺が褒めても、うぜーって感じでスルーするくせに」

「これはやっぱビビちゃんがいるからかもね」

「そうなんだ?あれあれーひょっとして、阿木野さんに自慢話聞かれて、それで照れてんのー?おいおいこれってどうなんだ?お似合いのカップルってか?どっちも頭いいし」

「だね。ねー、ビビちゃん」

「いちいち同意を求めないで」とビビ。

「いいじゃない。ビビちゃんもさ、長谷川さんってかっこいいって思わない?」

「俺は思うな。こいつはいいよ!ってか、俺はカッコ悪くて悪かったな!」

「そんなこと言ってないでしょ?りゅうくんってば優しいしね」薫子は滝川をそう呼んでいる。

「ねぇ。あたし思ったんだけど、だったらさー。先にビビちゃんの用事済ませて、それからどっか行かない?本屋で本買うんでしょ?ねぇ、どこの本屋に行くつもりだったの?」

「え、いや、その……」

「どこでもいいならりゅうくん、どっかこの辺りの本屋さん知らない?」

「わっかんないなー。けど、ゼミの資料だったらちゃんとした本屋の方がいいんじゃないか?」

「ビビさー、それってどんな本なの?題名は?」

 ビビの頭は文字通り真っ白で何も考えられない。どうしたらいいのか、わからないままなのだ。とにかく時間がないのだ。時間。時間。時間。えーと。えーと。

「ほらそのだって、かおちゃんが急かすからアパートにメモ用紙忘れてきちゃって、題名わからないし」なんとか言葉を捻り出す。

「えーそうなのごめん」と薫子。すかさず滝川も続ける。

「阿木野さんさぁ、それってどうしても十二時じゃないとダメなのかい?予約時間が十二時ってこと?どうしてもって言うなら、別に全然アパートまで戻るけど、急がないなら、このままどっかに行かないか?」

「そうそう。それがいいわよ。ねービビちゃん。それにさ、本屋は夜までやってるっしょ。だから大丈夫!ね、一緒に出掛けよーよー」

「ってかさ、岸辺ー、俺腹減ったよ」

「えーマジでー?」

「それに、阿木野さんだって、いきなりお前に呼び出しくらったんだろ?だからパニクってんじゃないか?だったらコンビニでコーヒーとか買って一息つこうぜ!」

 そう言う滝川の目にはコンビニの看板が映っている。

「ほら、ちょうどこの先にコンビニもあるし。そうだ、昼も近いし、俺は朝飯まだだし、ちょっとブランチしようよー」

「ブランチってなに?」

「朝食兼昼食のことだよ。だよね」

「ああ」と長谷川。

「だって。ねえビビ、寄る?」

 ビビのパニックは極限に達しようとしていた。このままではもうどうにもならない。先生に会えない!それだけは絶対に嫌!

「ほらー、阿木野さん怒ってるだろ。お前が急かすから!」

「違うわよ!あたし何にもせかしてないわよね。ね、ビビちゃん」

「……ほら、阿木野さん返事もしないし。メモ用紙忘れるし。そりゃあ怒るよ」

「えーそうなの?ごめんねビビちゃん。じゃあさ、コンビニ寄ってこ!りゅうくんの奢りでなんか買おうよ!」

「何でそうなるんだよ」

 言葉とは裏腹に、笑顔の滝川はコンビニの駐車場にするりと車を乗り入れる。

「ってか、おーしわかった!みんなでなんか買おうぜ!今日は俺の奢りだ!」

「やったー!ささ、ビビも長谷川さんも奢ってもらお!ささ降りて降りて」

 長谷川はビビをチラリと見る。そして心配そうに言った。

「阿木野さん大丈夫?なんか具合悪そうだけど」

 しかしビビにはよく聞こえない。いや、聞いていない。それどころではないのだ。一刻も早くこの状況をなんとかしないとならないのだ。もうなりふり構ってる場合ではないのだ。けどどうしたらいいんだろう?どうしたら……。

「ビビちゃん大丈夫?ひょっとして車酔い?」

「あーごめん。俺の運転下手だったかな?」

「……いいの、先に行ってて。私もすぐ行くから」感情の乏しい声でボソリとビビは言った。

「大丈夫?本当に大丈夫?」

「大丈夫だから」語気が急に強くなる。

「わかった!ごめん、じゃあさ、私たちだけで行ってくるよ」

「そうして!」

「ビビちゃん欲しいものある?」

 ビビはなにも言わない。そんな無言のビビを気遣った三人は、それぞれに肩をすくめると、車を降りて店内に入っていった。

 普段のビビなら自分のこの態度をしきりに反省しただろう。「本当にひどいことしちゃった」と思うことだろう。しかし今のビビにはそんな余裕などどこにもない。ただただここから逃げ出したかったのだ。逃げ出さないと先生に会えないのだ。

 ビビはコンビニに入っていった三人を目で追った。そして三人が手前の本棚のある通路を通り、そのまま奥に隠れたのを見計らうと、素早く車から出た。コンビニの脇道までできるだけ素早くさっと移動し、頃合いを見て走る。

 とにかく逃げるのだ。

 それしかない。

 ビビは全力を出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る