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 あらかじめメールで確認していたのは、伍郎は日曜の朝には札幌に着いているはずということで、だからビビはそれを踏まえた上で予定を立てた。

 とはいえ、実は立てるほどの予定なんてほとんどない。大学の授業は平日の日中だけだし、その後にちょっと買い物に出たくらいで、それ以外の大半をビビは自分の部屋で過ごした。伍郎からいつ連絡が来てもいいようにという考えもあったが、元々ビビは引きこもり体質なのだ。できることならあまり外には出たくない。人混みも全く苦手で、それなりの気合、例えば「今日も頑張るぞ!」などと自分に言い聞かせないと街に出ることもできない。

 それに比べたら、自分の部屋のなんと心地よいことか。部屋にいる時のビビは基本的にはTシャツとパンティ姿で、割と頻繁に全裸にもなる。実はこれには理由があった。

 そう、全身が映る大きな鏡だ。

 この頃はまだ一部の人しかアマゾン―アマゾンは平成十二年十一月に日本でもオープンしているが、まだまだ広く一般に認知はされてはいなかった―を利用せず、なのでまだビビも利用していない。だからビビは街に出かけて大きな鏡を探した。元々欲しかったのだ。

 先生に会うのだから、可愛い服を着たい。そのためには全身をチェックしたい。先生と出会ってからのビビは、多感な少女時代であることもさることながら、相手に対するアピールとしても、オシャレにますます気を使うようになっていた。

 さて、街に出てビビが見つけた鏡は、デザインこそ多少の不満はあったものの、全身がちゃんと映るもので、しかも特売品のシールが無造作に貼ってあった。手頃な値段!うん、これにしよう!

 手に入れた大きな鏡は当日送ってもらえるということで手ぶらで帰り、その通り、部屋に帰ってきてから程なくして鏡も届いた。早速自分の姿を写してみる。

「こんな感じなのかぁ」

 思ったよりも"普通"だなという感想。見た目は完全に白人女性のはずなのだけど、自分で思ったほどには白人っぽさがない。

 うーん。

 あれこれポーズを取ってみた。しかし、想像していた自分の姿と、鏡に映る自分の姿はまるで違う。柔らかい曲線がふんわり漂うようなワンピースに包まれているからなのか、なぜか違和感がある。

 しばらくあれこれ考えた末に、ビビは思い切って服を全部脱ぎ、全裸像を鏡に写してみた。眼鏡は当然外さない。

「なんかちょっと……」

 鏡に映る裸体は、白く透き通るような瑞々しさがあった。どこをとっても絶妙な体の曲線。適度に長い手足はとても滑らかで、かなりボリュームのある乳房はビビが動くたびに軽やかに揺れる。つるりとなだらかに傾斜のついた官能的なYラインはとても奥ゆかしく、ちょっと恥ずかしい。

 ビビにとって、自分の全裸を客観的に見たのはこれが初めてのことだった。函館の実家の離れの温泉にも大きな鏡はなかったし、自分の部屋にもなかった。

 生まれて初めての経験。

 ビビは自分の胸の鼓動が高鳴るのを感じた。もちろん嫌な気はしない。時折、へー、とか、ふーんとか言いながら自分の全裸を舐め回すようにじっくりと見た。我ながら綺麗な体だなぁと思う。白、といっても病的な白さではなく、ちゃんとした肌色よね。と改めて思う。

 なんとなくポーズをとってみると、胸の鼓動はさらに高鳴った。

「やっぱり変じゃないわよね」

 こうなると、逆に今度はあれこれ試着したくなった。函館の実家から自分の洋服は全部持ってきているのだ。

 どうせなら試しに全部着てみたい。

 そう、一人ファッションショー!

 ビビは取っ替え引っ替え手持ちの服を着、合間合間に全裸になっては大いに自分の体を楽しんだ。

「いい買い物をしたわ」

 こうして時が経つのも忘れて熱中してしまったビビは、以来、ことあるごとに全裸になっては鏡に映して楽しむ癖がついてしまったのだった。

 さて、金曜の夜のビビは、まさにワンマンショーの真っ最中だった。先生とのデートのためには自分の体を検査しなくてはならない。先生に会うのだから、ちゃんとしなければならない。そのための確認作業をしなければならない。妙な使命感に燃えるビビはいつものように全裸になって鏡にその姿を映していた。そしてひとしきり満足すると、さて今回は何を着てみようかとあれこれ吟味したり、実際に着てみたりなどして楽しんだ。布面積の小さいパンティをビビは好んでいたが、なかなかそういうデザインのものはない。ぎりぎり小さいのが可愛いのにな。やがてパンティにも飽き、次は何を着ようかと物色しつつ、適当にあれこれ着たり脱いだりしていると、突然の聞き慣れた通知音。慌てて携帯を見ると、


 これから出発するよ

 

 もちろん伍郎からのメールだ。ビビは嬉しさのあまり本当に飛び跳ねてしまった。

 出発は土曜の朝って聞いてたけど、今は金曜の夕方五時過ぎ!ということはそれだけ早く着くってことじゃない!

 素っ裸になぜか高校の制服のスカートだけ履いた状態だったが、誰にも見られてないので恥ずかしくもなんともない。髪もスカートも豊かな胸も揺らしながらわーいわーいとビビは飛び跳ねた。


 気をつけて安全運転で来てくださいね


 わかった。会えるのを楽しみにしてるよ!


 メールのやり取りを終えると、ビビはふと思い出して衣装を探す――

 あった!

 薄い藍色のゆったりしたワンピース!

 初めて先生と一緒にデートした時に来た服!

 元々はアンナおばあちゃんのお下がりでかなりの年代物なのだが、今の時代でも全然通用する素敵な服なのだ。あの時は突然の雨で濡れてしまって最後まで着ることができなかったけど、それでも思い出の服なのだ。フワッと体を包み込んで、ビビを当時のデートに引き戻す魔法の服なのだ。

 ビビはその服を着て、しばらく思い出の世界を楽しんだ。

 もう虹の夢も見ないし、妙な焦燥感もない。あの頃感じていた漠然とした不安感も、あの時ほどには感じない。全部先生との出会いのおかげね!とビビは思った。

 明日はこれを着ようかな。

 先生はこの服を覚えてるかな?

 きっと覚えているはずよ。

 なぜなら一緒に虹を渡ったのだから。

 この時のビビの笑顔を伍郎が見たら、そのあまりの眩しさにうんとのけぞるに違いない。光り輝く満面の笑みにはものすごい威力があった。

 しかし、ひとしきり満足すると、ビビはあっさりと思い出のワンピースを脱いでしまった。

 実は今日の午後、大学の授業が終わった後で買い物に出掛け、そしてこれ!という服をすでに選んでいたのだ。いわゆる勝負服なのだが、あえて今着ることはしない。これは当日のお楽しみだ。

 先生がわざわざ、しかも遠く九州から一時的とはいえ帰ってきてくれるのだから、私だってできることをしないとならない!

 そんな気合いと共に、ビビは勝負下着なるものも用意した。こっちもバッチリ!

 なんの勝負かはわからないが、ビビ自身はいつでも準備はできている。あとは伍郎次第なのだ。さらにもう一点、ビビはあるものを購入していた。それは――

 ピンポーン 

 ビビは思わずびくりと体を震わせた。笑顔が一気に恐怖の顔になる。思わずしゃがんで体を縮こめると、恐る恐るあたりを見渡す。

 ピンポーン

 ドアのチャイムだと気づくまでにかなりの時間がかかってしまった。慎重にゆっくりと玄関ドアに近づく。息を殺しながら覗き穴から外を見ると、知らない中年のおじさんが一人ぽつんと立っていた。帽子を被り、何かを抱えている。そのおじさんは大きな声を出した。

「ごめんくださーい。〇〇新聞でーす」

 なーんだ。新聞屋さんか。もう!

 ビビは無視することにした。これまでにも何度か新聞屋がこうして来ていたが、ビビはいずれも無視していた。新聞なんて読まなくても別に困らない。ニュースなんてテレビで見ればいいのだ(そもそも見ないけど)。

 そろりそろりと忍足で部屋に戻ろうとすると、ドアノブがガチャガチャと音を立てたので、ビビは声にならない悲鳴をあげた。

 !

 おじさんが「いませんか!」と声を出しながらドアノブを回したのだ。ビビはまたもその場にしゃがみ込んでしまった。今回の新聞屋はなぜかしつこく、その後もガチャガチャドアノブを回し続け、「ほんとにいないんですか?」「ちょっとぐらい話を聞いてくれても良いんじゃないですか?」などと声を出している。あまりにうるさかったからなのか、少しすると違う声が聞こえてきた。

「おいこら!さっきからうるせーぞ」

「あ、すみません」

「すみませんじゃねーよ。なんだ?勧誘か?」

「いやその違います」

「隣は誰もいねーよ。ってか、このアパートは勧誘お断りだぞ。入り口に張り紙貼ってあんだろ?ちゃんと見てないのか?あんたどこの会社だ?」

「いえ……」

「いえってなんだよ、言えないような会社なのか?」

「そうじゃないですけど」

「なんなら警察呼んでもいいんだぞ」

「ああ、すみません。すぐに出ていきますから」

「迷惑なんだ!よそ行けよ!ここは色々禁止だからな」

「すみませんすみません」

 ドア越しに聞こえて来た会話を聞いて、おじさんが去って行くのを確認すると、ビビは安堵した。

 札幌で一人暮らしを始めてから、何度かこんなことがあった。そしてビビは結局何もできなかった。いずれの場合も居留守を使うことでやり過ごすしかなかった。函館の頃にもこんなことはあったような気がするが、全部家族が対応してくれていたし、誰かが来るにしてももっと穏やかだったような気がする。

 札幌は怖い。今回はものすごく怖かった。ビビは真剣にそう思う。けどどうしたらいいだろう。大家さんに言うのがいいのかな。このアパートの仲介会社の社員さんは

「このアパートにはちゃんと訪問販売お断りの掲示もしてありますし、防犯カメラも付いてますから」

と言ってはいたけど、結局こうじゃない。これじゃあ怖い。

 はっとしたビビは急に立ち上がると、すぐに寝室に駆け込み、部屋ではつけないブラジャーをつけ、パンティーを履き、ジーンズとTシャツを身につけた。やっぱりこういう心境では全裸でなどいられない。ここは四階なので窓から人は覗かないと思うが、それでもあたりを見渡し、カーテンもしっかりとしてあるのを確認する。そしてホッとした途端に怒りが湧いた。

「もう、なんなの!」

 せっかくのいい気分が台無しだわ!声には出さなかったがそう思った。先生に会えるというのに!もうなんなの!私の邪魔をして!

 居間にあるカラーボックスの上には、ビビと五郎が並んで写っている写真を収めたフォトスタンドがある。ビビはそれに話しかけた。

「ひどいと思いません?」

「うむ」

「ねー」

 側からみれば恥ずかしい一人芝居だが、ここは自分一人の部屋。三文芝居だろうとなんだろうと聞く人は誰もいないのだ。だから恥ずかしくもなんともない。

 ビビはこうして度々写真に話しかけては気持ちを落ち着かせてきた。人生で初めておばあちゃんと大喧嘩した時も、うっかり財布を落としてしまった時も、この写真の伍郎に語りかけてきたのだ。そうやって乗り越えてきたのだ。もちろん辛い時ばかりではない。嬉しい時も、楽しい時も、なんであれ語りかけてきたのだ。

 先生はいつもニコニコ顔で、私の思いを受け止めてくれる。そして今回も先生はニコニコ顔だ。

 ねー。

 ダメ押しとばかりに頷くと、ビビは時計を見た。

 午後七時少し前。

 もうこんな時間?そろそろ何か食べないと。

 冷蔵庫を開けると、割とぎっしり食材が詰まっていて、ビビは嬉しい気分になった。単純ではあるが、冷蔵庫の中身がたくさんあるかないかで気持ちが変わる。たくさんあることはいいことで、たくさん作ってたくさん食べるスタイルがビビのお気に入りだ。

 あー楽しみだなぁ。

 日曜が楽しみだなぁ。いや、ひょっとしたら土曜の夜には会えるかも!

 夕食の下準備をしてひと段落すると座布団に座り、テーブルに肘を立てて頭を支える。自然に目を瞑ると妄想があれこれ勝手に浮かび上がってきた。

 会えたらどこに連れてってもらおうかなぁ。けど、先生はずっとドライブしてくるんだから、きっと疲れてるわよね。疲れてるのにドライブって、ちょっとひどいわ。だったらどこかでゆっくりするのがいいかも。そうだ、また海に行って……あれ、そういえば天気ってどうなんだろう?今日は雨も降って天気が悪いけど、明日とか明後日はどうなんだろう?

 現実に引き戻されたビビはテレビをつけてニュースのチャンネルに合わせる。ニュース番組はどこかで必ず天気予報をするからだ。携帯電話を見ればネットで天気予報を見ることもできたが、この頃のビビはネットをまだ信用していない。それにパケット代もバカにならない。天気予報はテレビを見て確認するのがこの当時のビビのみならず多くの人の当然の作法だった。

 テレビでは新潟県中越沖地震関連のニュースが続いていた。

新聞屋の次はこれかぁ。人災と天災。どっちも怖い。早く落ち着いてほしいと思う。札幌は地震がない街のようで、確かにその手の話はあまり聞かないけど、あーさっきの新聞屋さんを思い出しちゃったな。

 嫌な気分を打ち消すためにテレビに集中しようとしたが、オールスターゲーム第1戦の途中経過なんてビビにはよくわからない。野球には興味がないのだ。

 それでも我慢してテレビを見ていたら、ようやく天気予報のコーナーになった。肝心の予報は、明日も明後日も曇りで時々雨。

 そうなんだ……。ちょっと残念だな。どうせなら晴れてほしいのにな。

 気温も少し寒いようだし、今日も決して暖かくはない天気だけに、ビビは複雑な心境になった。

 せっかく先生が来るのに。

 どうせなら晴れてほしいのに。

 これは海はないかも。どこか違うところに行った方がいいかもしれないわ。

 テレビを消すと、ビビはそのままゴロリと寝転んで目を瞑った。少しため息が出た。

 あの新聞屋さんのせいで何もかもぶち壊しだわ。天気も悪いみたいだし。

 明らかな八つ当たりなのだが、当たらずにはいられない。その後、なんとなくプリプリと怒りながら肉を焼き、なんとなくプリプリしながら夕食を食べた。これでは美味しいも何もあったものではない。

 結局このあと先生からの連絡はなく、仕方がないので、このまま歯を磨き、寝る準備をした。いつもはTシャツとパンティ、もしくは素っ裸になるのに、今日は珍しくパジャマを着る。滅多に着ないが、着ないというだけで持ってはいるのだ。ちょっと胸の部分がきついので、ボタンを外して調整し、そのまま布団に潜り込む。

「やっぱ、脱ごうかな」

 とはいえ、今夜はやめておこうと自制した。全裸は確かに心地いいけど、世の中は何が起こるかわからない。 

 とにかく先生に会うまでは、何事も起こらないでほしい。

 ビビはそう願った。とはいえ実際には何もないはずだとも思うが、一方では何か起こるかもしれないという変な予感もあった。

 そんな余計な考え事をしたせいなのか、あるいは単にパジャマを着ているせいなのか、いずれにしてもいつまで経ってもビビは全然眠くならない。それどころか余計なことを思い出しそうになってしまい、仕方ないので一度布団から抜け出した。

 もう、なんでー。

 どうしてこうなってしまったんだろう?函館にいる時にはこんなことで悩んだことなんて一度もなかったのに。

 時計を見ると、針は九時を過ぎを指している。

 流石に布団に入るのが早過ぎたのかもしれない。少しだけ夜更かしして体を疲れさせないと。

 そう思いテレビをつけたが、自分の好みの番組はやってなく、そうか、ラジオか!と思ったものの、そもそもラジオがない。

 あーもうどうしたらいいの?教えて先生!

 あるはずもないラジオを探しながらあちこち物色していると、カラーボックスの中に見慣れない一冊の本があることに気づいた。親友の薫子がこの部屋によく遊びにきてた頃に置いていったものだ。

「これ面白いから読んでみて!」

 と言ってずっと前にくれたんだっけ……

 適当に手に取りページをパラパラ捲ると、

「え、こんなんなの?」

 性描写がしっかりされたいわゆるエッチな漫画が目に飛び込んできた。いわゆるレディースコミックというやつなのだが、レディコミ全盛の時代はもう過ぎていた。しかしそれでも販売はされており、中にはより過激な描写を売りにした雑誌もある。ビビが見つけたのはそういう雑誌で、適当にめくったページでは縛られた女性が執拗に男性に責められるシーンが続いていた。

「これって……」

 絶句しつつも、食い入るようにページを捲るビビ。そのうち無言になり、真剣にページを進め、気づくと全部読んでしまった。

「……」

 もしも。

 もしも先生にこんな風に襲われたら、どうしよう……。

 生々しいシーンが次々に思い浮かんだ。さっきの雑誌のシーンのアレンジだ。自分が縛られて、それであんなことやこんなことなんかをされたら……。

 どうしよう……。

 勝手に心臓がドキドキして、ビビは自分の顔が火照るのを感じた。

 困るわ……だってまだ心の準備が……

 縛られたら痛そうだし……

 自分の体を持て余して悶える、などというのは、ビビにとっては初体験だった。だからこそ大いに戸惑う。

 結局この夜は一睡も出来ず、ビビは朝まで悶々としながら過ごすこととなってしまったのだった。

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