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床侶五郎は三年ほどの時間を費やすことで、言い換えるならごくごく最近になって、それでようやくビビから先生と呼ばれることに慣れた。
もちろん最初は違和感がひどく、全くピンとこないこともあって、何度かそれとなく「なぜなのか?」と聞いたつもりではいたのだが、ビビ自身はそれに気づかなかった。なのでいまだに答えはわからない。しかしそれはビビが鈍感だということではなく、むしろ伍郎の聞き方がやんわりすぎた。伍郎としては先生と呼ばれることを否定したいのではなく、単に疑問を感じただけなのだ。なのでなんとなくうやむやに肯定しているうちに、徐々にではあるがそんな疑問など感じなくなってしまった、というのが真相なのだ。
しかしながら、当初はあれだけ違和感があった「先生」という呼び名も、慣れてしまった今となっては、ごくごく当たり前のことで、むしろ逆に伍郎と呼ばれることに対して違和感を感じるまでになってしまった。
我ながら変な癖がついてしまったなと思う。
けれど、それが嫌だとはもう思わない。
おそらくは美少女補正が入っているのだろう。ビビの仕草の全てにおいてプラス以外の感情が沸き起こらない。それどころか接するたびにしみじみと、
「こんな美人と接しててもいいのかなぁ」
などととつくづく思う。
そもそも年齢自体がとんでもなく離れているのだ。最初は十八歳と聞いた。しかし、実は出会った時点で十五歳だと知った時の驚愕たるや。
何もしないでよかった。
手を出したら犯罪だった。
それは妙な安堵感すら感じるほどのある意味綱渡りの連続で、よくぞ間違わずに三年間も渡ってこれたと思う。
伍郎は今年の十一月で三十八歳となる。それなりに生きてきて、それなりの人生を過ごしている。いっときの快楽のために一生罪を背負うことなど到底できないし、社会的な制裁も怖い。
さらに言うなら、伍郎は全くモテない。以前には一応結婚までしてはいるが、それ自体ただの奇跡でしかなく、だからこそ長くは続かなかった。魔法なんてものは基本的にはあっさり解けるものなのだ。伍郎の場合も例外ではなく、結果として一年経たずに別れることとなってしまった。しかもそれで得たものは腹回りにどてっとした贅肉。
以後基本的にはこの贅肉をキープしたままなのであって、プラス丸眼鏡。どう見ても典型的な冴えないおじさんだった。これといったものなどなにもないその他大勢に属するサラリーマンだった。篩にかけたら間違いなく真っ先に落ちてしまう砂粒だった。
そんなおっさんになぜ本物の金髪の美少女が接してくれるのか?
出会った時点でビビが十五歳と知っていたら、以後絶対に発展などしなかったろう。十八歳はいわばぎりぎりのラインで、それでもあれだけ躊躇したのだ。ましてや十五歳なんて。
ビビが高校二年生の冬休みの時期に、札幌の五郎を訪ねてきたことがある。しかしその時の札幌は大雪となってしまい、電車が軒並み運休、ビビは函館に帰れなくなってしまった。
伍郎は悩んだ。自分の部屋に泊めるべきか。それともビビのためにホテルに一部屋取るべきか。
最終的にはホテルに一部屋とってよかった……というのはのちの思いで、その時の伍郎は揺れに揺れた。
やっちゃってもいいのかもしれない……
このいわゆる"ゲスな思い"を必死に打ち消すために、伍郎は多大な努力を費やした。ビビは十九歳(と、この時点で伍郎はそう思っている)、それなら大丈夫なのだ。こんなに慕ってくれているのだ。だから大丈夫なのだ。
だが……
しかし……
最終的に伍郎は何もしなかった。いや、手を出すことができなかった、と言い換えてもいい。
「何事もバランスだよ」
どこからから声が聞こえたような気がした。それに、相手の弱みに漬け込むようなことはしたくないという思いもあった。ここは我慢。そんな思いもあった。何よりも、手を出したことで関係が壊れてしまうかもしれないという恐怖心があった。
伍郎はビビとの関係をどんな形でもいいから保ちたかったのだ。そして関係にうっすらとヒビが入ることすら避けたかった。
なぜなら、それはとても素晴らしい、そして得難いものだったから。
不思議なもので、ビビと出会ってから、伍郎の人生は本当にキラキラと明るくなった。元々、卑屈さや僻み、嫉妬などには縁がなかった伍郎だが、さりとて青春を謳歌などとはいかず、言ってみれば惰性で生きてきた部分もかなりある。目標なんて大それたものはなく、メリハリがないといえばその通りの人生だったのだ。
しかし今は違う!
ほぼ毎日の美少女とのメールが楽しみで、そのために今日一日頑張ろうと思えた。携帯電話に無頓着で、携帯なのに携帯しないという癖があった伍郎だが、それが今では肌身離さずだ。もちろん寝る時も枕元に置いて寝る。
ある意味束縛されているが、それが心地良いのだ。
「ん?」
通知音に目が覚める。真っ暗な室内で、枕元の携帯だけが光っていた。伍郎は慣れた手つきでメールを開く。やはりビビからだった。
先生、起きてますか?
もちろん返事は決まってる。なのですぐに送り返した。
起きてるよ。眠れないのかな?
今やすっかり覚えた枕元にある室内の電気のスイッチを押して、ゆっくりとベッドから出る。窓のカーテンを開けると、外はまだ真っ暗だ。ここはホテルの一室で、伍郎はちょっとした出張で九州のこの地に来ていた。窓から見える夜景をぼんやり見ていると、ビビからの返事が返ってきた。
困ってます。先生なんとかしてください
最近のビビは夜中に連絡してくることが多い。慣れない札幌で疲れてるんじゃないかと伍郎は思う。自身はいつでもどこでもどんな状況でも眠れるだけに、実はこの種の相談は苦手だ。しかし美少女からの訴えとあれば苦手などと言ってはいられない。何かアドバイスをしたくなるのは、これはもう男性の本能、性なのだ。
とはいえ、なんでもかんでも合点承知と安請け合いするほど若くもない。わからないことはわからない。そしてわからないことは聞くに限る、という素直さこそが大事だと思っている。伍郎は単刀直入に聞いた。
なんとかしてあげたいけど、どうしたらいい?
しかし、それに対する答えはなかった。代わりにこんな質問。
先生、今度はいつ会えますか?
仕事は終わりそうもなかった。基幹データベースの作成はもう少し時間がかかる。当初の想定以上に面倒だとわかった時には流石に青ざめたが、もちろんそんなことなど言ってられない。これは仕事なのだ。なのでやるしかない……のだけれど、やっぱりビビにも会いたい。
早く会いたいね。札幌に帰りたいよ
偽りのない本音だった。そして相手からも本音のメール。
ほんとですよ。早く帰ってきてください。
我ながらこういうのには本当に弱い。伍郎は苦笑した。男なんだな。いや、僕だけかもしれない。けれど、こういうアピールをされて、嬉しくない男なんているのだろうか?しかも相手はとんでもない美少女なのだ。
伍郎は中年に差し掛かっていた。そして同年代の中年にありがちな幻想も多分に持ち合わせていた。その一つは「白人幻想」だ。金髪の美少女。この言葉には恐ろしいほどの魅力があるし、絶大な魔力もある。かつて観た海外のドラマや映画。読んだ小説。その中にこれでもかと登場してくる金髪の白人美少女や美女に伍郎はどれだけ憧れたことか。一度でいいから接してみたい。そう思ったことは一度や二度ではなかったし、なんなら伍郎は洋画の大ファンで、暇さえあれば惜し気もなく映画館に通い詰めてはなけなしの小遣いを注ぎ込んだ青年時代を過ごしてもいる。行ってみたい海外。触れてみたい文化。金髪の美少女と話をするなんて、夢のまた夢でしかなかった。
そんな憧れや夢が今こうして叶ってしまったなんて……。
夢じゃなかろうか?と思ったことは数知れず。ましてや、そんな相手からの寂しいアピールに反応しないなんてことは伍郎にはあり得ない話なのだ。
伍郎は頭の中でいきなり仕事の段取りを組み始めた。ああでもないこうでもないとブツブツ呟きながら思いを巡らせる。しかし改めて考えてみると、単純にマンパワーが足りないだけなんだよなぁ。けれどもそこは長年のカンでおおよその目処をつけ、そして無理やり工程を再設計することで納得することにした。
出張で九州のこの地に来て以来、伍郎は文字通り休みなしで働いていた。休みは好きに取っていいと言われていたし、タイミング的にもそろそろ休んでもいい頃合いでもある。伍郎はそれなりの地位にいる管理職でもあり、部下も少人数だがいる。つまり仕事の裁量を任されているのだ。だからこそ融通が効く。あれこれ考えた末に伍郎は結論を出した。
よし、一度帰ろう!
そして決断すると後は早い。
今週の土日、ひょっとしたら札幌に帰れるかも
確定ではなく推量形となってしまったが、ビビ相手にこんなメールをしてしまう自分に伍郎は苦笑した。癖ってなかなか抜けないな。しかし、そんなメールに対するビビの返事は早かった。
ほんとですか?
もちろん本当に決まってる。どうして嘘などつくものか。伍郎の返事も早かった。
あくまで一時的だけど、時間は取れるんだ。ビビさえ良ければそのとき会おうか?
これまたすぐにメール。
ほんとですか?
そして続け様に、
やったー嬉しいです。
ビビは絵文字を使わない。けれども、気持ちはしっかり伝わってきた。本当に嬉しい時や悲しい時など、心が揺さぶられたときのビビは同じ言葉を繰り返す癖がある。伍郎は出会ってから程なくしてそれに気づいた。一度気づくと、なんともわかりやすく、そして愛らしい。
本当に嬉しいんだな。
こんな冴えないおっさんなのに。
喜んでくれるなら帰り甲斐があるよ。じゃあなるべく早い時間に帰れるようにちょっとあれこれしてみるね。
はい。詳しい連絡を待ってます。
もう遅いからしっかり寝るんだよ。
はい。先生もおやすみなさい
メールはこれで終わった。夜中三時前だが、伍郎はすっかり目が冴えた。もう眠れないし、眠る気もない。どうやって札幌まで帰るかを早くも検討し始めていた。
九州のこの地から札幌まで、最も最短で移動するなら間違いなく飛行機がファーストチョイスになる。次が鉄道。最後が車で高速道路の移動だ。
しかし、その中から伍郎が選んだのは車での高速道路の移動だった。理由は簡単で、この方法がもっとも時間と天候を気にしないで進めるからだ。これは盲点なのだが、飛行機も鉄道も、実は時間に厳密に縛られる。日本の交通網は世界一時間に正確ではあるのだが、これを言い換えるなら、飛行機も鉄道も時間に合わせてしか動かないということだ。さらに言うなら、たとえば電車なら駅まで、飛行機なら空港までの移動時間も考慮しなければならないが、そこに対しても実はかなり余計な時間が積み重なる。要所から要所までの移動も当然のことながら手間暇がかかるのだ。それどころか時間に縛られるあまり時間の余裕がなくなってしまうことも多々ある。駅や空港に着いても、そこからの待ち時間、待機時間も必ず発生する。伍郎は何度かこれで失敗を経験していた。
そして天候。日本は自然災害の多い国で、夏は台風天国だし、冬は雪に埋もれてしまう。大雨にも強風にも大きく左右される。
そう。伍郎は天候の心配をしていた。今週金曜日に台風が九州か四国に上陸するのではないかというニュースを見ていたのだ。
もちろん台風次第なのだが、そうなると飛行機は飛ばない可能性があるし、新幹線も運休するかもしれない。土日の休みを有効に使いたい五郎にとって、この要因は決しておろそかにはできないものだった。
その点、車での移動であれば、仮に悪天候で高速道路が使えなくても下道を走れば(おそらく)必ずどこかは走れるし、そもそも伍郎は単純に車での長距離移動に慣れていた。この出張に際しても、札幌から九州のこの地までは車で来ていたのだ。つまり、必要な情報は既にある程度手に入れていたのであって、仮に高速道路が使えるなら、その料金も移動時間も把握できていたし、青森から北海道までのフェリーの時間も把握していた。高速道路を使わない場合であっても国道一号線にのってしまえば東京まで行ける。そこから先の国道四号線は庭も同然だ。
しかし、今回交通手段として車を選んだことで、札幌までの移動はとんでもない強行軍になってしまうことが避けられなくなってしまった。どう足掻いても、九州のこの地から札幌まではほぼ丸一日かかってしまう。もちろん仮眠するつもりも時間もない。
鉄道利用だと実は車とそれほど変わらず、飛行機であれば空港までの移動と空港からの移動を考えても五分の一程度の時間で済むのだが、この先の天候を考えるとどうしても博打を打てない。
というわけであれこれ決めたのはいいが、結果として、札幌に滞在できるのは日曜のみか……
「うーむ」
腕組みをして、時間などを書いたメモ用紙と睨めっこをしているうちに室内がなんとなく明るくなり、気づくと朝の六時。
土曜の朝にここを出発するとして、そうなると仕事の前倒ししなければならない部分も出てくる。月曜日はどうしても仕事を休まないとならない。となると……
「とりあえず、今週は昼休みはないな」
伍郎は覚悟した。けれど、表情は明るく、悲壮感も全くない。むしろ不思議な高揚感が込み上げてくる。
愛だの恋だのと。
かつて伍郎はそれを馬鹿にしていた。自分には全く無関係だと思ってもいた。いい年をして何をイチャイチャしているんだと、街行くカップルを冷めた目で見てもいた。
しかしいざ自分がそういう立場になってみると、全く違う景色が見えることに、伍郎は気づいた。
それは明るく爽快で、生き生きとした世界。なるほどこれは馬鹿にもなるな。伍郎はつくづくそう思う。むしろそれが心地よいのだ。
好きな人、愛する人のために何かをすることは、とても気分がいいものだ。到底手放す気にはなれない。
ビビとの出会いから、伍郎の世界は一変した。いつも明るくカラフルでビビッドだ。
とにかく札幌に帰ろう!
そのためにはまず仕事!
今日も頑張るぞー!
気合を入れ、伍郎は浴室に入った。さっぱりしてから、今日も夜中まで仕事だ。頑張らないとならないのだ。
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