第32話 百鬼夜行 伍
「まさか、まさか……」
淀橋はにこやかに拍手した。
「本当に此処まで来るとはね。3つの扉は、
「…………」
僕は弾かれるように顔を上げた。一気に目が覚めた思いだった。淀橋は、今や薄緑色の着物に着替え、頭に烏帽子を被っていた。彼の後ろには、何だか仰々しい車体を乗せた牛車が止まっている。ただし車を引いているのは牛ではなく、牛すらも丸呑みしそうなほど巨大な鼠だった。
簾の奥から、お香でも焚いているのか、牛車の周りには紫色の煙が立ち込めている。芳しい花の香りがこちらまで漂ってきた。
「オイオイ。そんなに睨むなよ」
僕はゆっくりと馬から降りた。淀橋が肩をすくめた。
「君は事件を見事に解いたんだから。このゲーム、君の勝ちだ。此処まで来て君と争うつもりは毛頭ない」
「…………」
「ただまぁ、そうだね。
「何だって?」
「君の推理通り、
淀橋が少し考え込むように上を向いた。
「……いや、もっと前かな。僕ら『七不思議』や『百鬼夜行』の噂を作ったのは、その彼らなんだよ」
「噂を、作った……」
「最初は、ちょっとした
僕は黙ったままだった。そういえば、一度親に聞いてみたような気がする。その時は、立花さんの親も、誰も何も知らないと言われた。
「ちゃんと幽霊の生年月日とか、プロフィールまで作ってね。好きなもの、嫌いなもの、それに死因まで……そこまで来ると、もう一種の人格とも言っていいかもしれないね。そうして僕とおりょうさんの噂は、この町で爆発的に広まって行った。だけどある日突然……」
誰もが口をつぐんだ。箝口令が引かれたのだ。
「この町で、行方不明者が多発してねえ。噂の内容が内容だっただけに、僕らの仕業じゃないかと騒動になったんだ。今まで密かに楽しんでいたものが、急に危険なものだってみんな気づいたんだ。それで真剣に、市長が霊媒師にお祓いとか依頼してねえ……」
淀橋が懐かしむようにほほ笑んだ。僕の目は立花さんに移った。彼女は俯き加減で、表情までは読めなかった。
「もちろん此処に迷い込んで来た人もいるにはいるけど、それが全部じゃない。だけど町の人は極端に怖がってね。それで噂自体を禁止したんだ。不思議なことに、不思議なことは全部僕らのせいにされた。こっちとしては正直たまんないよ。勝手に産み落とされて、勝手に無かったことにされちゃったんだから」
いつの間にか、たくさんの妖怪や幽霊が僕らの周りに集まって来ていた。どうやら囲まれたようだ。
「それで淀橋くんは、この町の人を恨んだ……?」
「別に恨んじゃいないよ。ただ、僕らだって黙って消されるんじゃ敵わないからね。何とかして噂を広めようと……
そういうと、淀橋は小さく息を吐き出した。
僕の目はまだ立花さんを捉えたままだった。今更犯人が誰かなんてどうでもいい。僕はただ、立花さんを取り返しに来ただけだ。
「立花さんは……」
「まぁ待てよ。その前に君にひとつ提案がある」
「提案?」
「仲間になれよ。君も『百鬼夜行』に……僕らの列に加わらないか?」
淀橋が誘うように僕に片手を差し出した。僕は目を丸くした。
「僕が? どうして?」
「せっかくこんなところまで来てくれたんだ。歓迎するよ。あの世は楽しいところさ。学校の試験も、仕事もない。みんな好きなことを、好きなだけして暮らしてる」
おいで、と何処かで童女の声がした。
「いいところだよ。此処には何でもある。永遠に終わらない宴。君は何でもできるし、何にでもなれる。富も、名声も、力も。此処にいれば、君が望むものは何でも手に入るんだ。みんな君を神様のように扱ってくれるよ」
おいで、おいで……と、声がだんだん大きくなって行く。
「いいところよ、荒草くん」
「立花さん?」
立花さんが不意に顔を上げ、僕に笑いかけた。
「本当にいいところ。素晴らしいわ。歳も取らないし。あの世でなら、死ぬ心配もいらないわ。永遠に若いままでいられるのよ。いつまでも美しくいられる。食べ物だって、何ならお酒も、いくらだって手に入るわ。もちろん悪いことだって、やりたい放題よ。だって此処にいるの、みんな妖怪に幽霊なんだもの」
「立花さん……?」
その目は光輝いていて、一点の濁りもなかった。僕はそれが逆に怖かった。
こんなことを言う人だっただろうか……。
僕は持っていた手鏡で、こっそり立花さんを映して覗き込んだ。立花さんの姿は、まだ映っていたが、薄く消えかかっていた。鏡から、消えかけている。
「立花さんは……」
僕は不安げに隣のおりょうさんに囁いた。
「あれは本物? 操られてるとかじゃなくて? それとも立花さんは、幽霊になったの?」
おりょうさんは悲しそうに首を振った。
「いえ……。ですが、彼女が邪気に当てられ、『百鬼夜行』に取り込まれようとしているのは事実です。此処にずっといるとああなってしまうのです。早く連れ出さないと……あまり時間はありません」
「でも、『百鬼夜行』なんて、単なる噂なんだろ?」
「根拠のない噂や盲信でも、それを信じ切っている人にとっては、本当になってしまうのやも。嘘でも、言い続ければ現実になると言います」
それを聞いていた淀橋がニヤリと笑った。
「そういうこと。噂なんて、好きなように作りたい放題さ。実際、
「永遠の命を望んで何が悪いの? ねえ?」
立花さんも僕に手を差し伸べた。
「美しさを求めちゃいけないの? 若さを望んで何がいけないの? ねえ? 私と一緒に此処で暮らしましょうよ、荒草くん。ねえ? おりょうさんも一緒よ。宴会をしましょう。私たちと、永遠、に……」
そこまで言うと、立花さんは急に力を失くしたように前に倒れ込んだ。
「立花さん!」
僕は慌てて駆け寄り、すんでのところで立花さんを抱き止めた。
「……まだ
淀橋は小さくため息をついた。
「でも、彼女ならすぐに馴染むさ。彼女も此処の住人になりたがってるんだよ。みんな、気持ちの良い夢を見たがる。それが実際に手に入るってんなら、なおさらさ。断った人間なんて、いやしないんだから」
「そんな……」
「もし君が、僕の誘いを断ると言うのなら……」
淀橋は少し声のトーンを落とした。
「その時は、君はまた、元来た道を還らなきゃいけない。止めた方がいいと思うよ。危険な道だったろう? 友達は、みんな大変な目に遭ったんじゃないかな? それをまた繰り返すんだ。そこまでして、戻りたい世界なのかな?」
「僕は……」
「あっちの世界に何がある? 疲れて傷ついて悲しんで泣いて苦労して憎まれて我慢して痛くて報われなくて嫌な思いをして、それで結局最後には死ぬ……? だったらもう、此処にいようよ。僕らの仲間に加わって、一緒に『百鬼夜行』の噂を広めていこう」
「僕、は……」
それから、おいでおいでの大合唱が始まった。嗤い声は洪水になり、耳元でわんわんと唸った。僕は頭が痛くなり、思わず顔をしかめた。
「羊さん……」
おりょうさんが隣で手を握り、不安げに僕を見上げた。淀橋が一歩近づき、僕に答えを促した。
「そんなに迷うことかな? いくら君が"羊"とは言え……どっちがいいかなんて、もう分かり切ったことだろう。此の期に及んで、何を気にすることがあるんだい?」
「……伊井田や、犬飼たちはどうなるの?」
「扉をくぐれなかった者は……元々誰もくぐらせる気は無かったんだけど……仕方ない。彼らはきっと、もう助からないよ。残念だけど、諦めてもらうしかない」
「…………」
「なぁ、荒草くん。失ったものばかりじゃなく、前を向いて……」
「……今、何時?」
「え?」
僕の言葉に、淀橋が一瞬固まった。僕はゆっくりと、彼に4時44分ちょうどで止まった腕時計を見せた。
「何?」
「何でか知らないけど、壊れちゃってさ。教えてよ。今、何曜日の何時何分なの?」
「……何言ってるんだ? 必要ないよ。時計なんて。
「僕には必要だ。日曜日の夕方6時までには、帰るって約束したから」
「日曜日の夕方6時……?」
合唱が弱まり、やがて辺りがシン……と静まり返った。淀橋が尋ねた。
「何があるってんだ? そんなに大事なことかい?」
「あぁ……君は知らないんだっけ。今度、
僕は笑った。
「もし君がまたあっちの世界に来ることがあったら、色々教えて上げるよ。日曜の夕方6時だけじゃない。まだまだ色々あるんだ……」
「断るってのかい??」
淀橋の顔が、初めて歪んだ。
「戻るつもり? それって、そんなに大事なもの? それなら、君がそれを此処で作れば? 此処でなら、いくらでも材料が……」
「とんでもない。僕なんかが作ったんじゃ、全く意味がないんだよ」
「……そんなに、あっちの世界は楽しいところなの? 本当に?」
「さぁね……」
僕は肩をすくめた。そんなことは僕も知らない。ただ、きっと隣り合わせだ。楽しいことも、辛いことも。
「信じて言い続けたら、本当になることもあるんだろう? だったら僕も言い続けてみようかな……とにかく、君の話を聞いて安心したよ。
淀橋は、まさか断られるとは思っていなかったのだろう、その表情に戸惑いの色を浮かべていた。
「還るの? 本当に?」
「うん。立花さんは連れて帰るから」
「良いのかい?」
淀橋は眉を釣り上げた。
「さっき聞いたろ? 彼女の言葉を。彼女は、此処の方がいいって言ってるんだぜ。そりゃきっと本心だよ。恨まれるぞォ……」
「
僕は笑い、立花さんの肩を担いだ。
「それに、此処まで来て僕だけ助かるってのも、どうにも後味が悪いよ。可能性は低くても、道はあるんだろう? だったら……みんなに助けてもらって此処まで来たんだから、今度は僕がみんなを助けに行かなきゃ」
「参ったね……どうも」
淀橋が頭の後ろを掻いた。
「格好つけちゃって。いつまで持つかな。第一、無事還るつもり? すぐに逃げ惑い、引き返して来なきゃいいけどね……」
「なんだ。そんなの、別にいつものことだよ。迷ってこその"羊"じゃないか」
自慢じゃないが、迷い慣れている。全然格好良くもない。なのに、自分でもおかしくてつい笑ってしまった。
そういえば、と最後に僕は淀橋に古びた本を渡した。
「僕は『呪い』を解くよ」
「何……?」
「もう『呪い』の噂なんか必要ない」
「君も、結局
「そうじゃない」
険しい顔をした淀橋に、僕は首を振った。
「『呪い』なんかじゃなくて……もっと普通の噂にすればいい。普通に逢いにくればいいじゃないか。誰が考えたのか知らないけど、こんな話じゃ、ちょっと
「無理だ。そんなのは……そんな噂は、今時流行らない」
淀橋は冷ややかだった。だけど今回は、僕も譲らなかった。
「その時は、ぼ……俺も、協力するから」
「羊さん……!」
おりょうさんが目元を拭い、やっと笑顔を見せてくれた。僕も笑った。十分だ。それで十分、此処まで来て『呪い』を解いた価値はあった。
「じゃあ……」
立花さんを馬に乗せ、淀橋に別れを告げる。それ以上、淀橋も何も言わなかった。彼は古びた本を握りしめ、しばらくその場に突っ立っていた。
「私、送っていきます。扉の前までですけど……」
再びおりょうさんが手綱を引き始めた。
鏡をかざすと、僕らを囲んでいた妖怪たちは素直に傍に避けてくれた。
「そこまで、かい……」
帰り際。淀橋が何か呟いた気がして、僕は振り返った。淀橋は、よほど結末に自信があるのだろう。次に顔を合わせた時には、もう余裕を取り戻しているように見えた。無理やり引き止められるかとも思ったが、彼は顔を上げ、あっさり僕に手を振った。
「……またね、荒草くん。いつでもこっちにおいで。僕はいつだって、
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