第31話 百鬼夜行 肆
しばらくその場から動けなかった。
息が荒い。
耳のすぐそばで、血管がドクドクと脈打って、鼓膜を太鼓のように激しく叩いた。周りに積まれた骨の山も、血だまりの海も、今は全く気にならなかった。焦点の合わない目が白い虚空を彷徨う。体力の消耗も激しい。すぐ近くから嗚咽が漏れ聞こえてきた。それが自分の声だと気づいたのは、しばらくしてからのことだった。
再び起き上がる頃には、ここに入ってきた時の数倍憔悴しきっていた。
足に力が入らない。
腰を激しく強打したせいか、歩くことすら億劫だった。そのうちバランスを失い、膝から崩れ落ちた。どす黒く濁った血だまりの中に、顔からモロに突っ込む。その拍子に石にぶつかり、鼻の奥で鈍く鉄の匂いが広がった。
僕はそれを、どこか他人事のように感じていた。
まるで痛覚も感情も麻痺してしまったかのようだ。全身が小刻みに震え、もはや立ち上がる気力もない。
犬飼を失った。それだけじゃない、他の面々も。これでとうとう、独りきりになってしまった。
目を閉じた。
自分でもびっくりするほど瞼が重たかった。ここまで、全員で必死に繋いできた旅路だったが、ここにきて急激に何かが萎んで行った。瞼の裏で、家族や友人の顔が浮かんだ。立花さんの笑顔。それから伊井田や、犬飼の顔。骨野郎にマッスルさん、おりょうさんの顔も。ずっとそれを見ていたくて、もう目を開けたくなかった。
どれくらいそうしていただろう。冷めた血だまりに体温を奪われて行く。体の芯が痺れてきた。
もうこのままここで、朽ち果ててしまおうか。
……それもいいかもしれない。
そう思った時、ふと、僕の頬に暖かいものが触れた。
「……羊さん」
名前を呼ばれた。
「羊さん、起きてください。羊さん」
疲弊しきった体を揺さぶられる。ほんの少しだけ重たい瞼を開けた。誰かが僕を見下ろしている。見上げると、白装束の幽霊が、心配そうに僕を覗き込んでいた。
「おりょうさん……」
おりょうさんだった。
彼女の手は暖かかった。それじゃあ、幽霊である彼女の手よりも、今じゃ僕の頬の方が冷たいってことか。そう思うと、なんだか妙におかしくって、それで少しだけ元気が出た。おりょうさんは真剣な眼差しで僕に告げた。
「起きて、羊さん。もう時間がありません。立花さんのところまで案内します」
僕はおりょうさんの手を握り返した。それから僕はおりょうさんに連れられて、再び霧の中を進んだ。
彼女はどこからか馬を調達してきて、僕をその背に乗せた。馬。茶色い毛並みで、額のところに白い模様が入っている、ごく普通の生きた馬だ。その首筋にしがみつくようにして、僕は馬に体を預けた。おりょうさんが前方で手綱を引いた。彼女はどこに向かうべきか知っているようで、馬は僕を乗せて霧の中を、骨の山の間をゆっくりと進んで行った。
凸凹の道に揺られる間、僕はほとんど気絶するように眠りこけ、時々、目を覚ました。
道すがらぼんやりと覚えているのは、見上げるほどに積み上がった骨の山と、楽しそうにそれを奪い合う、小さな子供のような影だった。もしかしたらあれは、小鬼の姿だったのかもしれない。
そのうち小さな影がぞろぞろと僕の周りに集まってきた。雷柄のパンツを履いた、頭に小さなツノの生えた女の子が、僕を物珍しそうに眺めた。女の子はしばらく小首をかしげていたが、やがて持っていた人骨を僕にそっと差し出した。お腹が空いているとでも思ったのだろう。僕は骨を丁重に断って、弱弱しく笑った。
「鏡を」
おりょうさんにそう言われ、僕はポケットから手鏡を取り出した。すると、童女たちはきゃっきゃっと甲高い笑い声を上げながら、白い霧の中に走り去って行った。
そのうち行列の影が見え始めた。
それから僕は、色々なモノとすれ違った。
ひとつ目小僧、烏天狗、河童。塗り壁に、ろくろ首や雪女もいた。誰もが名前の知っている有名な妖怪もいたが、そのほとんどは、何と呼んでいいかも分からない異形たちだった。人間と変わらない姿の奴もいれば、巨大な顔だけが動いている奴や、全身毛むくじゃらの多足の生き物など、明らかに常軌を逸した形状の奴らもいた。意識が朦朧としていなかったら、悲鳴を上げて一目散に逃げ出していたことだろう。
僕とおりょうさんはそいつらを掻き分け、ゆっくりと前に進み続けた。持っていた手鏡をかざすと、妖怪たちは脇に避けてくれた。鏡を持っていなかったら、どうなっていたのだろう。
「羊さん」
大分長いこと歩いたと思う。そのうちおりょうさんが口を開いた。
「……何?」
「その……前からひとつ、気になっていたんですが……」
「…………」
「…………」
「……どうしたの?」
「…………」
「…………」
「……そのっ」
おりょうさんが立ち止まって僕を振り返った。その顔は、ひどく物悲しく、今にも泣き出しそうに見えた。
「私と逢うことは……『呪い』ですか?」
「え……?」
「羊さんにとって、私の存在は迷惑なんでしょうか……?」
もしかして、それを気にして居なくなってしまったんだろうか。僕は笑った。
「そんなわけないよ……」
「そうですか……?」
「そりゃまあ、洗濯物のぐるぐるに巻き込まれてたら、誰だって迷惑だろうけど」
「あぅ……っ!? あ、あれはちょうどその時間が4時44分で! それで仕方なく……っ!」
「だからおりょうさんは、4時44分だけじゃなくて。1分間だけじゃなくて、もっと好きな時に、好きなように出てきていいと思うよ」
「羊さん……」
おりょうさんは少し拍子抜けしたようで、憑き物が落ちたような顔をしていた。おりょうさんが俯いた。僕は首を伸ばしておりょうさんの顔を覗き込んだ。『憑き物』が、憑き物を落としたらどうなるのか……そんな馬鹿なことをぼんやり考えていた僕は、次の瞬間不意を突かれた。
「やあ」
突然、百鬼の列を割って、前方から見知った男が現れた。淀橋兎彦だった。僕は目を見開いた。
「立花さん!?」
淀橋の隣には、
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