第29話 百鬼夜行 弍

「オイオイ……」


 犬飼が呻き声を漏らした。それが、僕ら全員の心情を克明に物語っていた。


 オイオイ……。


 竜。辰である。

 あの龍。

 つまり、ドラゴン。


 空想上でしかないはずの生き物が、今、僕の目の前にいる。


 全身にびっしりと生えた緑の鱗。

ライオンのような立て髪は漆黒に輝いている。

顔の表面にうっすらと見えるあの赤い線は、毛細血管だろうか。

浮き出た赤い血の管が、まるで刺青のように稲妻型に走っている。その姿は、もはや神々しささえ感じられた。


 目が反らせないまま、乾いた唇を舐めた。呆気にとられるとはこのことだ。顔のサイズだけでも、僕の身長の3倍か、いや5倍くらいはあった。まるで『生きた山』……その背中に、丸々全校生徒が乗れそうなくらいだった。


 しばらく誰も、言葉を発せなかった。


 幽霊を見た、どころの騒ぎではない。幽霊なんて、もうどうでもいい。たとえ幽霊だって、目の前に竜が降り立ったらきっとそう思うに違いない。え? どちらが怖いかって? 気になる人は是非、あの世に逝った際に自分の目で確かめて欲しい。


 我に返るまで、しばらく時間がかかった。

 幸い竜は今、眠っているようだった。巨大な胴体をどっしりと地面に落として、小さな吐息を立てている。「小さな」とはいえ、その鼻から吹き出る息は、まるでジェット噴射のような音がしていた。


 ずっと見とれている訳にもいかなかった。僕らは先へ進まなければならない。たとえ道の先に、野良竜が寝っ転がっていようとも。


 最初、僕らは迂回しようと試みた。何とかして竜の後ろに回り、寝ている間にやり過ごせないだろうか、と考えたのである。この案には全員が賛成した。あの爪と牙を見れば、誰だって正面には回りたくない。


 ところが、ここで問題が発生した。この白い空間、実は見えないだけで、道は一本道だったのだ。後ろに回り込もうとすると、壁のようなものに遮られて、それ以上先に進めない。目の前では、竜が通せんぼするかのようにとぐろを巻いている。僕らは途方に暮れた。と言うことは、つまり……。


「……どうしてもあの、デカブツの前を通らなきゃならねえってことか」


 犬飼がこれ以上ないくらい情けない声を出した。誰も笑う気にすらなれなかった。


 僕らはしばらく、あぁだこぅだと議論を交わした。だけどあいにく、正面突破以外に手はなさそうだった。涙をこらえて、僕らは竜に近づいた。もちろん、感動している訳ではない。ゆっくり、ゆっくり慎重に、だらりと伸びた髭の辺りまで近づいた。すると、


「うわっ!?」

「ぎゃあああっ!!」

「お、起きた!?」


 突如竜が目を覚まし、ゆっくりと首をもたげ、僕らをジロリと睨んできたではないか!


 目が合った。

 金色の玉のような瞳に射止められ、僕らは急いで回れ右した。転がるように逃げ惑い、恥も外見もなく悲鳴を上げた。早くも心臓が破裂しそうになる。構わず走り続けた。そのまま襲われると思ったが……いつまで経っても僕は走り続けていた。

 そのうち体の方が限界に達した。

 敢え無く立ち止まり、そのまま倒れ込むように地べたに突っ伏した。それでもまだ僕は無事だった。喰われたり、焼かれたりもなかった。震える手で体を支え、恐る恐る竜を振り返る。見ると、竜は再び目を閉じ、元いた場所で安らかな寝息を立て始めていた。地面に転がったまま、僕らは顔を見合わせた。


 それから何度か僕らは実験を試みた。

その結果、どうやら竜は、ある一定の距離まで近づくと目を覚ますことが分かった。


 近づいては目を覚まし、離れてはまた眠り。そんなことが数回続いた。


「どうすんだよ……」


 しかし、これでは近づけない。お手上げだった。もはやこれまでかとそう思われた時、名乗りを上げたのは、あの男だった。


「ふむ。なるほど、ね……」

「い……伊井田?」

 伊井田が牛乳瓶の底のような眼鏡をクイッと光らせた。

「案ずるな。ワイはこんな状況に、幾度も遭遇して来た」

「は?」

「そしてその度に乗り越えて来たんでござる……主にゲームとかで」

「ゲーム??」


 伊井田が僕らを見てニヤリと笑った。そして何を思ったか、竜の顔の辺りまで近づくと……

「い、伊井田!?」

 手にしていたリコーダーを咥え、ベートーヴェンの『運命』を弾き始めたではないか。音楽室の幽霊・タケゾウから手渡された、あのリコーダーだ。

「伊井田……お前!」


 意外な才能……!


 伊井田は何と、見事に『運命』を演奏し続けた。

 ゲームの『タップ』で培った指テクだろうか。辺りに、かの名曲が響き渡る。僕らも一瞬、我を忘れて演奏に聴き入った。野良竜は心地好さそうに喉を鳴らし、そのまま目を開けることはなかった。


「す、すげえ……本当に竜が眠っちまった……!」

「こう言うことって、ゲームではよくあるの?」

「さぁ……」


 マッスルさんが首をかしげた。僕にもよく分からなかったが、とにかくこれで、今のうちに竜の前を通ることができそうだ。しかし、そのためには演奏を続けなければならない……伊井田をこの場に残して行くことになる。


「伊井田……」

「これを」


 伊井田にもそれは分かっていて、覚悟の上だったようだ。去り際、間奏の隙に、伊井田は僕に自分のスマートフォンを手渡した。伊井田にとって、何よりも大切なものだ。


「万が一ワイに何かあった場合でも……ワイのことは忘れても、『ログインボーナス』をもらうことだけは、絶対に忘れないでくれ。1日でも飛ばすとすごくもったいないのでね。パスワードは……」

「伊井田……!」


 僕は伊井田から、彼のスマートフォンを受け取った。案の定と言うか、『百鬼夜行』の中は圏外だった。『ログインボーナス』をもらうためには、無事にここから脱出する他ない。もしくは死に際『ダイイング・メッセージ』に『ログインボーナス』と書き遺すか、だ。僕らは前者に賭けた。


「必ず帰りに、迎えに行くから!」


 伊井田が頷いた。演奏が再開される。

 眠っている竜の前を何とか通り抜け、前へ前へと進む。僕は置いて来た親友の無事を祈った。だって、もし伊井田が帰らぬ人になったら、僕がこの手で毎朝何時間もかけて、ゲームの『ログインボーナス』をもらい続けなくてはならない。そんなのは嫌だ。それはおりょうさんのあれやこれやよりも、遥かに重たい呪いのように感じられた。どうにか彼が戻ってくることを切に願った。『運命』を背に、僕らは先を急いだ。


 さらに進むと、霧がほんの少しだけ晴れてきた。


 僕はホッと胸を撫で下ろした。ようやく道が道らしくなって来た。『百鬼夜行』の最後尾に、少しでも近づいていると言うことだろうか。しかし視界が開けたのは、決して良いことばかりではなかった。雑草や岩の間にちらほらと、得体の知れない骨や肉片が転がっているのが嫌でも目についた。それに腐臭も酷い。骨にこびりついた肉を、時々鼠や烏がやって来ては、争うように貪り喰っていた。


 また少し歩くと、今度は白い霧の彼方に、何やら水平線が見え始めた。霞んだ目を凝らす。白い空間を横切る、真っ直ぐな、黒い線だった。


 近づくと、黒い線はやがて壁に変わった。『万里の長城』あるいは『ベルリンの壁』のように、目の前が長い壁で仕切られている。


「半分くらい、歩いたってことなのかな?」

 僕は歩きながら2人に尋ねた。

「だと良いけどねえ。この霧、果たして終わりがあるものなのかどうか……」

「急ごうぜ。早めに追いつかないと、永遠に追いかけっこする羽目になっちまうかもな」


 犬飼が先を促した。壁にたどり着くと、重そうな金属製の扉が3つ、横に並んでいた。ざっと調べたが、その3つ以外に出入り口はなさそうだった。


 白い景色に、長方形の黒い扉が3つ。

 場所が場所だけに、まるで棺のようにも見えた。しかし、扉に描かれているのは十字架ではない。代わりに、精巧な猿の絵が描かれていた。


「何だこりゃ……」


 犬飼が猿の絵に顔を近づけて目を細めた。3匹の猿の絵は、どれも不気味だったが、それぞれ微妙に顔が違っていた。


 1番左の扉、1匹目の猿は目を押さえ、


 真ん中の扉、2匹目は口を押さえ、


 最後に右の扉、3匹目の猿は耳を押さえている。


 僕らは顔を見合わせた。


「なるほどね」

「『見ざる、言わざる、聞かざる』ってことか……」


 しばらく考えた後、とりあえず開けてみることにした。


 扉は難なく開いた。3つとも、鍵はかかっていなかったようだ。ただし、扉の位置こそ近かったが、それぞれ同じ空間につながっているようには、どうしても思えなかった。


 1番左側、『見ざる』の扉は、中が真っ暗だった。

 アルコールランプをかざしても、一寸先も見えない。それまでの白い空間とは対照的な、墨を溢したような漆黒が広がっていた。どう見ても、1番だった。


 真ん中、『言わざる』の扉の奥は、これまでと変わらないように見えた。

 中はこちら側と同じ、真っ白な霧に覆われている。一見すると、この扉が正解で安全のようにも思われた。だけど油断はできない。の可能性もある。大体こう言う、1番安全そうなのが1番ヤバかったりもするのだ。


 最後に右の扉、『聞かざる』も同様に奥は白かった。

 だが、こちらは中の様子を窺っても、何の音もしなかった。無音。つまり中に入ると何も聞こえない……『聞かざる』ということだろう。『言わざる』よりは危険そうだし、『見ざる』よりは安全そうである。


 扉の前で、僕らは再び考え込んだ。3匹の猿の扉のうち、どれに入るべきか。

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