幕間
『鬼門』
というのは人間にとって縁起の悪い方角です。
数百年に一度、『鬼門』になっているその空き家を通り道として、この世ならざるものたちが行列を作るのでした。
『百鬼夜行』
とも呼ばれるその行列は、鬼や妖怪など悪しきモノの影だけでなく、時折童女の笑い声や、軽やかな鈴の音まで聞こえると言います。列は一晩かけてもまだ途切れることなく、夜通し続きます。白い霧のようなものに包まれたそこでは、まるで雲の中を泳ぐような、心地良ささえ感じられるそうです。
その楽しげな雰囲気に連れられて、中にはふらふらと列に加わってしまう人々もいましたが、往き先は決して彼らの望むような場所だとは限りませんでした。
さて、おりょうさんはなんとかして少年を家から追い出そうと、必死になりました。
少年に書き置きを残し、写真やカメラの端にぼんやりと映り込み、
『厄災』
について警告しました。彼女の祈りが無事届き、少年はおりょうさんの残した書き置きや『心霊写真』に気がつきました。しかし、事は思うように進みません。少年もまた、おりょうさんの必死な姿に熱を当てられ、彼女に恋をしてしまったのです。
「一緒に逃げよう」
少年は言いました。直接は喋れないので、書き置きの中で、ぼんやりと映った写真を通して、少年はおりょうさんに語りかけます。しかしおりょうさんは哀しそうに首を振りました。
彼女はこの世のものではありません。
生身の人間と一緒になるなど、決して許されることではありませんでした。ましてや彼女の姿は、ひどく肉が爛れ骨が剥き出しになっていて、直接その姿を見たら、きっと少年だって忌み嫌ってしまうに違いありません。おりょうさんは泣く泣く少年に断りを入れました。
「残念ながら、それはできません。どうか貴方様だけはお逃げになって。私は此処に残ります。当日、他に人が迷い込まないとも限りませんから」
「僕は諦めないよ」
少年はしかし、強気でした。元々霊感もなく、『百鬼夜行』の恐ろしさも知らなかったからかもしれません。
「このお守りをどうか……」
あくる日、おりょうさんは書き置きと一緒に、一輪の花を少年に贈りました。
「この花は蓬莱仙境から、私がお願いし摘んで来た蓮の花でございます。大変徳の高いお方から、ご祈祷が捧げられておりますゆえ。どうか、どうかお逃げくださいませ。万が一逃げきれなかった時は、この花が必ずや護符となり、貴方様をお守りくださいますでしょう……」
書き置きにはそうしたためてありました。おりょうさんから『厄除け』代わりの蓮の花を受け取り、少年はますます気を強くしました。
それで、散々警告されていたにもかかわらず、少年は『厄災』の夜、家から一歩も出ずに一晩過ごしてしまったのです。
それがどれほど、恐ろしいことになるかも分からずに……。
その日の晩のことです。
少年は一晩中起きて、『百鬼夜行』とやらを見届ける予定でしたが、いつの間にか眠ってしまっていました。やがて微かな物音に少年が目を覚ますと、部屋の中は靄がかかったみたいに真っ白になっていました。
少年ははじめ、まだ自分は夢の中にいるのだと思い、何度も目を擦りました。横になったまま、少しだけ顔を上げて、白い霧の中に目を凝らします。すると、シャー……ン、シャー……ンと、遠くから小さく鈴の音が聞こえてました。やがて音は大きくなり、少年のすぐそばまで、大勢の影の行列が近づいて来ました。
とうとう『百鬼夜行』が始まったのです。
少年には霊感がありませんでしたが、白い霧の中で蠢く影は見て取れました。
死者の霊魂、
明らかに花瓶としか思えないもの、
鱗を持った竜のような化け物……影の形は実に様々でした。
二本足だったり四本足だったり、
見上げるほど大きかったり、
踏み潰せるほど小さかったり。
どう猛な獣のうめき声が聞こえたかと思ったら、
幼子のクスクス笑いが聞こえて来たりして、少年はたちまち震えあがりました。
おいで。
寝ている少年を呼ぶ、甘い天女のような声が聞こえました。
おいで。おいで。おいで。
霧の中に、誰かの手招きも見えました。
おいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいでおいで……。
少年は頭から布団を被り、必死に耳を塞ぎ、影が通り過ぎるのを震えながら待ちました。
このままでは、踏み潰されるかもしれない。
今度は山のように大きな影がゆっくりと歩いて来るのが見えました。
少年は慌てて布団から這い出て起き上がろうとしましたが、何故か体が重く、ピクリとも動きません。まるでいつの間にか自分の上に何かが乗っかっているような、妙な感じです。実際、白いモヤモヤの中に、自分を見下ろし押さえつけてくる何者かを少年は見たような気がしました。何者かがニタニタと笑っているような気がして、少年は顔を引きつらせました。
恐怖に駆られた少年はしかし、おりょうさんから受け取ったお守りのことを思い出しました。押さえつけられた両腕の、動く部分で必死にポケットを弄り、少年はかろうじて蓮の花を握りしめました。
「悪霊め、これでもくらえ!」
山のような影が少年の横を通り過ぎる時、大きく家が揺れ、彼の体が少しだけふわりと宙に浮きました。その時を見計らって、少年は自分の上に乗っかっている影にお守りを押し付けました。
小さく「ぎゃっ!」と悲鳴がして、影は仰け反りました。花を押し付けた部分から、肉の焦げたような嫌な匂いがします。どうやら本当に、あの花には効果があったようです。しかし、影はそれでもまだ手を離してくれません。それどころか、より一層力を込めて少年を抑え込んで来ました。
「これでもか! これでもかっ!」
少年は冷や汗を流し、何度も何度も花を影に押し付けました。
その度に悲鳴が上がり、影の力は弱くなっていくのですが、影も影で粘ります。ギリギリと歯を食いしばり、肉を突き破らんくらいに爪を少年の腕に突き立てて抵抗して来ました。その間に、あの「おいでおいで……」の声もぐるぐると、少年の周りで飛び交います。少年は泣き出しそうになりながらも、必死にお守りを振り回しました。
少年と影の攻防は、それから朝まで続きました。
最期の最期に、影はおぞましい呻き声を上げ、煙のように消え去ってしまいました。
少年が押さえつけられている間に、いつの間にか白い霧は晴れ、『百鬼夜行』もまた何処かへ往ってしまいました。
家は何事もなかったかのようにそのままでした。窓から差し込む朝日が、新しい日を祝福するかのように少年の顔に降り注ぎました。
「やった……!」
少年は布団の中で安堵のため息を漏らしました。なんとかあの『厄災』を、『百鬼夜行』をやり過ごせたのです。それもこれもあの花のお守り、おりょうさんのおかげです。少年は心から彼女に感謝しました。
「やったよ、おりょうさん……!」
少年は汗を拭い、布団の中から這い出ようとして……ふと、自分が白い布を握りしめているのに気がつきました。
その白い布は……白装束は……先ほどまで少年を押さえつけていた影が着ていたものでした。影が消えたと同時に、衣服だけが残り、少年の上に落ちてきたのです。他にも布団の近くに、三角巾が落ちていました。少年はその白装束と三角巾に見覚えがありました。
「おりょうさん……?」
少年はふと何かに気がつき、引き出しから写真を取り出しました。おりょうさんが警告のために写り込んできた、あの心霊写真です。そこには、ぼんやりとではありますが、少年が今手にしている白装束と三角巾がありました。
そう、
少年を押さえつけていた影は、
あのおりょうさんだったのです。
彼女は少年が『百鬼夜行』に連れて行かれないように、上から被さり、必死に抑え込んでいたのです。
少年も少年で、彼には霊感がなく……写真でもぼんやりとしかおりょうさんの姿を見たことがなかったものですから……そうとは気づかず、抵抗してしまったのでした。
おりょうさんを祓ってしまったのは、他ならぬ少年でした。
それに気がついた時、少年は残された白装束を抱きしめ、三日三晩泣き腫らしました。
そして……。
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