第21話 グラウンド

「準備はいい? よォーい……」


 ホルマリン漬けにされたカエルの標本の声が、暗がりの廊下に静かに響いた。廊下の端、理科準備室の前では、人骨模型がクラウチング・スタートの姿勢を取って、神妙な面持ちで合図を待ち構えている。

 一瞬の静寂。のち、

「……ドン!」

 の掛け声とともに、骨が勢い良く廊下を蹴った。


 三角フラスコやアルコールランプたちも、大きな歓声を上げる。ぐんぐんと加速していく人骨模型を、僕はゴール付近でじっと見守っていた。『マッスルさん』に打ち勝つため、今回僕が指示したアドバイスはこうだ。

つまり、姿勢を良くすること。

筋肉に比べて、骨は軽い。力強さで勝とうと思っても無理だ。それに、筋肉はトレーニングで鍛えやすいけれど、骨となるとそうもいかない。そこで走る姿勢……走り方を工夫することにした。腰や背中を曲げず、まっすぐにして地面にしっかりと力を伝える。膝はヘソの辺りまでしっかり曲げる。肘は伸ばさず、90°を保って多く早く振る……基本的なことだが、他に手も考えられなかった。


「妖術や霊能力で勝っても、意味ないんで」


 骨は、自分自身も妖怪じみているくせに、律儀にもそう宣言した。

「ちゃんとした勝負でアイツに勝たないと……意味ないっすよ」


 とことんスポーツマン・シップに則った怪奇現象だ。僕なんかよりよっぽど気骨があるので、来年の運動会には代わりに出てもらえないだろうかと本気で思った。

 あとは、靴も変えた。廊下は走るために作られてないので、ツルツルと滑りやすい。ランニングシューズよりもバスケットシューズのような……グリップ力の高い靴で勝負に出た。


「……ゴオォォォルッ!!」

 数秒後。猛ダッシュで向かってきた骨が、汗を光らせて反対側にたどり着いた。

「……タイムは!?」

 実験器具のみんながカエルの標本に群がる。先に走っていた『マッスルさん』も、少し離れた場所で腕を組み、固唾を飲んでそれを見守っていた。ちなみに『マッスルさん』の今日のタイムは、『6秒34』だ。正直言って、かなり早い。


「タイムは……」

 カエルの標本がゆっくりとストップウォッチの数字を読み上げた。

「……6秒32」


 その瞬間、爆発したような歓声が巻き起こり……実際、ガスバーナーは火を吹き、アルコールランプは煌々と輝き出したので、僕はその熱でむせ返った……実験器具たちが狂喜乱舞した。放心したように固まったままの骨を、仲間たちがバンバンと叩く。姿勢作戦成功だ。とうとう勝ったのだ。しばらくして、状況を読み込めた骨がようやく破顔する。他人事なのに、なんだか僕までちょっと嬉しくなってしまった。


「骨野郎……」


 すると、歓喜の輪に包まれていた骨に、『マッスルさん』がゆっくりと近づいて来た。骨と筋肉が向かい合った。途端に廊下が静まり返る。僕も伊井田も、実験器具もみんな骨と筋肉に注目した。隆々の肉体美を誇る『マッスルさん』はしかし、近づいたはいいが、俯いて黙ったままだった。しばしの静寂に、若干の緊張感が漂い始めた中……先に動いたのは骨の方だった。


「マッスル……お前にさ……」

「何だよ……同情なら、いらないんだからね……っ!」

「いや違う。お前に勝ったら……ちゃんと俺の口から言おうと思ってたんだ」

「え……!?」

「好きだ、マッスル」

「えぇ……っ!?」

「負けたままじゃ……へへ。みっともなかったからさ。ちゃんと……俺の想い聞いてくれるか?」

「骨野郎……!」

「マッスル……!」

「……女子だったのかよ!!」


 あれほど気の強かった『マッスルさん』が、骨野郎の告白を前に、筋をほんのりと赤らめて伸縮モジモジした。『マッスルさん』の目は、もう恋する乙女のそれだった。骨は骨で、やたらと髪を掻き揚げ、流し目をかましていた。まぁ、残念ながら髪の毛は1本も生えてないし、目は空洞だったけど。筋肉と骨が見つめ合い、そっと抱き合う。近くの商店街から、クリスマス・ソングが微かに聞こえて来た。


「お前という良き好敵手ライバルがいたから此処までこれたって……俺ァ骨身に染みたよ」

「皮肉なもんだね……勝負に負けて、初めてお前さんの愛に気がつくなんてさ。これからはずっと一緒だよ、骨野ろ……いや、マイ・ダーリン♡」

「乙女かよ!!」


 新たな愛の誕生を前に、僕は改めて大声で唾を飛ばした。

『マッスルさん』と骨野郎。

こうして我が校に、また珍妙なカップルが誕生した。全く、筋肉は見かけによらないものだ。それにしても、女子で6秒台とは、模型にしておくにはつくづく惜しい存在である。


「乙女だったみたいですなあ」

「誰に需要があるんだよ、筋肉と骨のラブ・シーンなんて。ツッコミどころが多すぎるんだよ、ウチの高校の七不思議は!」

 トイレの花子さんは大人になってるし。

 ベートーヴェンはさらっと処分されてるし。

 時計はまだ直ってないし。

 おまけに筋肉と骨は抱き合ってるし。

「ツッコミどころのない怪奇現象というのも、それはそれで可笑しな話だが」


 伊井田がのんびりと笑った。僕は焦った。とんだ茶番……いや不可思議な現象を前に、色々な意味で心がざわざわした。とにかく、模型でさえ幸せを手にしていると言うのに。こうして目の前でまざまざと見せつけられると、余計に寂しさが身に染みる。僕は決意を新たにした。何としてもクリスマスまでに、立花さんともっと仲良くならなければ!


 しかし翌日、立花さんは忽然と姿を消してしまった。学校にも来ず、家にも帰っていない。まるで神隠しにでも遭ったみたいに、急に連絡が取れなくなってしまったのだ。


「羊。そういや沢田さんがお礼言ってたぞ。ほら、軽音楽部の子だよ。体調悪そうなところを助けたんだって? 俺も音楽選択で、彼女と同じ授業でよ……」

「それは伊井田の方だよ。それより……」


 放課後のグラウンドに顔を出すと、ちょうど休憩中の犬飼が、汗を拭いながら笑顔で話しかけて来た。彼の話を遮って、事情を掻い摘んで話す。聞き終わると、犬飼は元々ギョロッとした目をさらに丸くした。


「いなくなった? 立花さんが?」


 僕は神妙な面持ちで頷いた。

 立花さんが姿を見せなくなってから、数日が経った。初めは静観していたが、行方は依然分からないままで、どうも進展がありそうにもない。僕と伊井田は急いで犬飼の元を訪れた。最後に彼女に会ったのが、彼じゃないかと思ったからだ。犬飼は野球部の練習をしているところだった。


「いや……俺は会ってないよ」

 犬飼はしかし、首を横に振った。

 どうやらあの日図書室で別れた後、立花さんは犬飼に会いに行く訳でもなく、何処か別の場所に『調べ物』に行ったようだ。僕らは途方に暮れた。一体何処に行ったのか、こうなるともう検討もつかなかった。


「それにしても……立花さんって、別に家出するような子じゃないよな?」

「そりゃもちろん」

「『ミルフィーユ』も順調で、家庭に問題があったようには思えないでござる」

「となると、何か事件に巻き込まれたか……」

「…………」

「……しっかりしろよ、名探偵」

「え?」


 犬飼が僕の肩を叩いた。

 顔を上げると、夕焼けに染まった綺麗な空が見えた。東の方には、すでに白い星の瞬きも見え始めている。橙色と、深い青。逢魔時。昼と夜が交わり、この世ならざるモノたちが出歩き始めると言われる時間帯だ。気がつくと、伊井田と犬飼が心配そうに僕の顔を眺めていた。どうやら僕の表情が、知らず知らずのうちに険しくなっていたらしい。気をつかってか、犬飼はわざとひょうきんな声を出した。


「こんな時こそ、お前の出番だろ? バシッと解決して、立花さんを見つけ出してくれよ」

「んなこと言ったって……」

「やっぱりアレじゃないのか? お前らが調べてたっていう、その幽霊?」

 ダビデ像が口元に手をやり、『考える人』みたいになった。

「七不思議が、いなくなったことと関係してるんじゃねえの?」


 僕は黙って頷いた。

 確かにその可能性は高かった。立花さんがいなくなったのは『七不思議』の謎を追っている最中だ。その間に、あのおりょうさんも消えてしまったのだ。おまけに正体不明のあの白い闇。僕の周りで、今何かが起きている。喉がカラカラになる。手のひらにじんわりと汗が滲んだ。


 部活が終わるまで待ってろ、と犬飼は言った。その後俺も一緒に探しに行くから、と。だけど気ばかりが焦って、僕は居ても立ってもいられなかった。気がつくと、大声が飛び交う野球部のグラウンドを後にして、僕は校庭を小走りで戻り始めていた。


「おい、羊!」


 廊下の窓から漏れる灯りが、コンクリートの土手に四角い光の影を作っていた。伊井田が慌てて追ってきたが、僕は振り返らなかった。


 立花さんは僕と最後に会った時、何かに気がついた様子だった。

『七不思議』を……おりょうさんの謎を追っていけば、その先で立花さんが見つかるかもしれない。


 残る『七不思議』は、後3つ。


 『校舎裏の幽霊』と、

 『ドッペルゲンガー』と、

 後1つは、『××××××××』のシークレット。


 残りの『七不思議』にどんな危険があるのか分からない。現にこうして立花さんは姿を消してしまったのだ。しかしこうなったらもう、怖がっている場合でもなかった。『校舎裏の幽霊』に遭うため、僕はくだんの場所へと急いだ。

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