第18話 家庭科室
冷たい空気が頬に張り付いた。校内に潜り込んだ僕らは、息を殺し、できるだけ音を立てないようにして進んだ。
「見て、あれ」
立花さんが興奮したように囁いた。彼女の指の先で、再び明かりが点き、そしてまた消えた。間違いない、誰かがいるのだ。僕らは無言で顔を見合わせ、さらに慎重に歩を進めた。何処かで鶏の鳴く声が聞こえる。日の出が近づいていた。手のひらにじんわりと汗が滲む。こんな朝っぱらから、誰もいない校舎でコソコソしている奴など、きっと碌な人間じゃない。
「その理屈だと、ワイたちもソイツと同類と言うことになりはせぬか?」
「うるさいよ」
シッ、と唇の前で人差し指を立て、僕は伊井田を黙らせた。正面玄関に周り、そっと手をかける。しかし、鍵はかかったままだった。裏の通用口に回る。生徒たちじゃなくて、先生たちが利用する通用口だ。キィィ……と小さな音を立てて、扉は呆気なく開いた。伊井田が声を上ずらせた。
「……どうする?」
「早出の先生かも……」
「行こう。別に悪いことしてる訳じゃないさ……」
僕は自分に言い聞かせるように呟いた。それにしては、胸に奇妙な罪悪感や高揚感がこみ上げてくる。夜の学校は、昼間のそれとは全く顔が違う。普段は学校に行くのが嫌で嫌で仕方がないのに、時間帯が変わるだけで、どうしてこうもときめいてしまうのだろうか。
そう、僕は楽しんでいた。
日常からはみ出した非現実的な日々を。
平凡で退屈な毎日の繰り返しから、連れ出してくれる刺激的な変化を。
あれほど幽霊に付き纏われるのが鬱陶しかったのに、
今では少し期待している自分さえいる。
何か良からぬものが出て来てくれないだろうか、と。
霊界大戦争を1番望んでいるのは、他ならぬ僕かもしれなかった。
良くないことだと思った。
このままでは本末転倒で、ミイラ取りがミイラになってしまう。早いとこおりょうさんの謎を解いてしまわないと、これ以上は、彼女に情が移ってしまいそうだった。
「行こう」
僕はもう一度呟いた。空はすでに白み始めている。銀色の三日月が、朝のあたたかい光に徐々に下から押し寄せられて、困ったように笑っていた。伊井田が頷いた。立花さんも。僕らは静かに通用口から校舎に潜り込んだ。
今思えば、僕らは軽率だった。『七不思議』だの『霊界』だの、自分たちがどんなに危険な行為に及んでいるか、その時は想像もつかなかったんだ。
薄暗い廊下を、ひたひたと慎重に進んだ。あまり派手な音を立てれば、先にいる『侵入者』に気づかれるかもしれない。電気を付ける訳には行かなかった。僕らが目撃した部屋は、南棟1階の1番奥、家庭科室の辺りだった。すると、突然
パチンッ
と小さく音がして、廊下の奥、視線の先で明かりが点いた。僕らは一瞬その場で固まった。
(やっぱり、誰かいるんだ……)
明かりが灯ったのは、家庭科室からだった。ガサガサと、微かに物音も聞こえる。中で誰かが作業しているらしい。しばらく見つめ合った後、僕らは意を決して、そうっと家庭科室に近づいた。明かりの漏れるガラスの端から、ほんの少しだけ顔を覗かせる。
中にいたのは、見たこともない女の人だった。歳は20代か、30代くらいだろうか。顔はよく見えない。大きな、白いマスクを嵌めていた。その人は、家庭科室の中央付近の流し台で……一心不乱に包丁を振るっていた。
ドチャッ!
と鈍く何かが潰れる音がして、女の人の手元で、赤黒い液体が飛び散った。液が顔にかかるのも気にせず、女性は包丁を振り下ろし続けた。あれは、もしかして返り血だろうか?
ドチャッ、ドチャッ、ドチャッ。
と音がするたびに、タイルの床に、彼女の着ている白い服に返り血が飛び散った。女性は気にする素振りも見せず、真剣な眼差しで手元を見つめていた。ここからじゃ、手元はよく見えない。何を切っているのだろうか。教室の中から漂ってくる、生々しい匂いに気がつき、僕は思わず鼻をつまんだ。
ドチャドチャドチャドチャドチャドチャドチャドチャ!
素早く、もはや乱雑とも言える動作で包丁が振り下ろされる。ピッと血が跳ね、彼女の横顔が赤く染まった。だんだんと、壊れた遮断機のようになって来た。思えば一度も瞬きすらしていない。僕は凍りついた。嗚咽が込み上げてくる。もう限界だ、と思った次の瞬間、隣で
ドサッ
と音がした。立花さんが、尻もちをついたのだ。血の気が引いて、顔が真っ青になっている。立花さんは腕を抱き、ガチガチと奥歯を鳴らした。
「ひっ……!?」
「だ、ダメだよ、悲鳴を上げちゃ……!」
僕が慌てて立花さんの口を塞ごうとした、その時だった。
目が合った。包丁女がぐるんッ!! と首をこちらに向け、血走った目で僕を睨んだ。その瞬間、冷たいプールに突き落とされたみたいに、一気に全身に鳥肌が立った。逃げなきゃ。そう思う間もなく、女は包丁を持ったまま僕らの方に勢い良く突っ込んで来た。文字通り、突っ込んで来たのだ。もう少しで、窓ガラスが割れるかと思った。
「う、うわあぁあああぁあっ!?」
「貴方達……」
僕は不覚にも悲鳴を上げ、その場にへたり込んでしまった。人気のない廊下に情けない声が木霊する。女は窓を開け、冷たい目で僕らを見下ろした。出目金のような、巨大なギョロっとした目だった。
「こんな時間に、ここで何をやってるの……?」
「ひぃいぃっ……!?」
低く、ボソボソとした声だった。長い髪は所々重力に逆らって、四方八方にピンと跳ねている。
「鬼婆?」
「はぁぁ!?」
伊井田が余計な一言をいい、包丁女のこめかみに青筋が走った。確かに包丁を掲げたその姿は妖怪大百科に載っている、あの鬼婆を思わせた。だけどこの際、人間だとか妖怪だとかはあまり意味がない。殺傷武器を手にしている時点で、その正体が何であれ、僕らは真っ先に逃げるべきだったのだ。
「待ちなさいッ!」
「ぎゃああああぁあああっ!?」
僕らは絶叫し、一目散に来た道を駆け抜けた。3人とも、お互いを気遣ったり、後ろを振り返る余裕なんてない。もう本当に、4本の手足でドタバタと、転がるように廊下を走った。もう少しで廊下の角に辿り着く、そこまで来た時、今度は向かい側から見知らぬ男の人がぬっと姿を現した。
「おわっ!?」
身長180センチくらいの、ガタイの良い男だった。暗がりで顔はよく見えない。彼もまた大きなマスクをしていて、手には棍棒のようなものを持っていた。挟み撃ちだ。僕は血の気が引いた。もうダメだ、と思ったその瞬間、伊井田が、立ちふさがった男の腰めがけてタックルをかました。
「うおぉおッ!?」
あるいは勢い余って、止まれなかっただけかもしれない。耳を塞ぎたくなるような派手な音を立て、その大男と伊井田がすっ転んだ。
「今のうちに!」
「伊井田!」
「先に行け!」
伊井田が男と絡み合ったまま叫んだ。と言われても、置いていく訳にも行くまい。僕は廊下の角を覗き込んだ。しかし……
「君たち、何をやってるんだ?」
角の先には、マスクをした集団が、さらに4〜5人こちらに向かって歩いて来ていた。それぞれ手に鉄板や、鉄の棒などを握りしめている。
「いやぁ……っ!?」
立花さんがその場でへなへなと座り込んだ。万事休す。後ろからは、包丁女が迫って来ていた。
「追いついたわよ」
前方に武装集団、後方からは包丁女。どうすることも出来ず、僕は呆然とその場に立ち尽くした。
「あら? 貴方、荒草くんじゃない?」
包丁女が興味深そうに僕の顔を覗き込んだ。僕は震えながら、彼女の白い服に飛び散った返り血を、できるだけ見ないように努めた。
「確か、『呪われた』っていう……」
「ど、どうして知って……!?」
「惚けてもムダよぉ。噂は早いんだから……」
女はマスクを外し、にたあ、と笑った。尖った八重歯が見え隠れし、その容姿はますます鬼婆を思わせた。1歩、また1歩と近づいてくる。僕は息を飲んだ。彼女の手にしていた包丁が、暗闇の中でギラリと妖しく光を放った。
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