第19話 通用口
もうダメだ。
「く」の字に曲がった廊下の角で、僕らは途方に暮れた。終わった。逃げ場は何処にもない。喉がカラカラに乾いた。マスクの集団がジリジリとにじり寄り、僕らを取り囲んだ。
「た……助けてぇ!」
「命だけは! どうかお命だけは!」
思わず涙声になり、頭を抱え込む。目を瞑った瞬間、目蓋の向こう側がパッと輝いた。廊下の電気が付けられたのだ。
「へ……?」
「貴方達、何勘違いしてるのよ?」
鬼ば……いや、八重歯のお姉さんが、プッと吹き出した。それに合わせて、男達も大声を上げて笑い出す。僕は恐る恐る目を開いた。
「へ……??」
「もう……せっかくのハンバーグ、邪魔してくれちゃって」
窓の外は、もう朝だった。眩しさに僕は目を細めた。お姉さんは鬼婆ではなかった。幽霊でもない、れっきとした人間だ。高校の食堂でお弁当や定食を提供している、パートの人だった。
それから僕らは全員で家庭科室に移動した。
マスクの男達も、みんな食堂の社員の方々だった。学校給食の、調理員。この高校や、近隣の小中学校で給食を作っているのだと言う。今思えば全員白い服装……エプロンを着ている。八重歯のお姉さんは少し照れたように頭を掻いた。
「どうしても時間が足りなくってね。ここで急遽こしらえていたんだ」
お姉さんが包丁を振り下ろして作っていたのは、ハンバーグのミンチだった。材料の調達が間に合わず、家庭科室を借りて急いで作っていたのだと言う。返り血だと思っていたのは、肉の汁だった。
考えてみれば当然だが、学校と言うのは教師と生徒だけが出入りしている訳ではない。清掃業者、警備員、調理員、納入業者、印刷屋、服屋、医療関係者……僕らが(だらだらと)授業を受けている間に、見えてないところでたくさんの人が出入りしている。その考えに至らなかったことを、僕は少し恥じた。もう少し冷静に、落ち着いて考えれば、彼女の正体も分かったはずなのだ。
「田舎っていうのもあるけど……今は本当に人手が足りなくってねえ」
廊下で棍棒を持って僕らの前に立ちふさがった男……棍棒ではなく、パン生地などを伸ばす綿棒だった……が苦笑いした。しかし、どんなに人手が足りなかろうと、昼の12時までには児童たちの給食を用意しなくてはならない。全校生徒300人余りの小学校に対して、『給食のおばちゃん』の数は大体5〜6名程度。太陽が昇る前から出勤して、目まぐるしい速度で献立を作っていく。おかげで化粧もままならず、髪は大概ボサボサらしい。『出来なかった』じゃ、生徒達がひもじい思いをするだけだ。仕事内容を聞くだけで、僕は目を回しそうになった。
「この高校はまだマシなんだけどね。コンビニとか、自分で弁当を用意する子も多いから」
「小学校となると、そうもいかない。だから手の空いた者同士で、こうやって手伝っていたのさ」
「その、ごめんなさい……」
「あはは、いいのよ。あぁ、でも……」
八重歯のお姉さん……里中さんは、僕らの勘違いを笑って許してくれた。話してみると、里中さんは感じのいい、爽やかな女性だった。
「誰かこの中に、料理できる子いない? せっかくなら、手伝って欲しいんだけど。『呪いの子』は?」
「僕、出来ません。呪われてもないし!」
里中さんが僕を指差した。僕は慌てて首を振った。
どうも田舎というのは、噂話それ自体が、広大な自然と共に暮らす人々の潤滑油になっていて、人の口に戸を立てるということができない。少ない人口の町だ。僕とおりょうさんのことも、尾ひれに尾ひれがついて町中に広まりきっていた。
今時心霊現象や陰謀論など、そんな非科学的なものを信じるなんて……とは思うけれど、それがひとつの娯楽にもなっているのだから、もうどうしようもない。みんな明らかに楽しんでいる節がある。その点に関しては、僕も人のことを言えた義理じゃなかった。もっとも言われる方にとっては、本当に迷惑極まりないのだけれど。
「呪われてないの? 荒草くんが、世界を滅ぼすんじゃなくって?」
「何でですか! どんだけとんでもない呪いなんですかそれ!」
「僕は『呪いの子』に近づくと、三日三晩寝込んで、カップラーメンしか食べられなくなるとか……」
「カップラーメンが食べたいだけでしょそれ」
言いたい放題言われつつ、僕らは給食員に混じって、配膳や火の加減を手伝った。立花さんは、さすがに洋菓子店で働いていることもあって手際が良かった。
「ありがと。助かったよ」
下ごしらえが粗方終わったのは、7時手前のことだった。みんな汗でべちゃべちゃで、クタクタになっていた。まるで戦争みたいな忙しさだ。台所大戦争。僕らがまだ眠っている時間帯に、こんな戦いが巻き起こっていたなんて。
「そうだ。これ上げるよ」
帰り際、里中さんは僕らにウサギさんの形にカットされた林檎を差し出した。
「茶色く変色しちゃっててね。中身は食べられない訳じゃないんだけど、色合いが悪くて、商品としては出せないからさ」
みると確かに、林檎は茶色くなっていた。新鮮な林檎でも、枝から切り離し、空気に触れると変色してしまうことがある。林檎にはポリフェノールが含まれているからだ。ざっと説明すると、ポリフェノールと空気中の酸素が結びついて、変色してしまう。この前授業でやってた。
「あ、でもこれ……」
立花さんがウサギさんを受け取りながら、キョロキョロと辺りを窺った。
「蜜柑あります?」
「ミカン?」
僕も里中さんも、キョトンとした目で立花さんを見た。
「ええ。オレンジジュースでも」
立花さんが笑った。それで僕らは、自販機にオレンジジュースを買いに行った。自販機の周りには、蓋の開けられていないペットボトルが散乱している。きっとおりょうさんの仕業だろう、と僕は思った。人数分の飲み物を買ったはいいものの、1分間が過ぎ、あえなくペットボトルを放置して姿を消してしまったのだ。
「それで、オレンジジュースをどうするの?」
「見ててください……」
家庭科室に戻ると、立花さんが銀色のボウルに林檎を入れて待っていた。僕らが見守る中、立花さんはオレンジジュースをボウルの中に入れ始めた。銀色のボウルの中で、ウサギさんたちがふわふわと泳ぎ始める。すると……
「わ……戻った!」
里中さんが驚いて目を丸くした。
「えぇ。変色した林檎は、ビタミンCにつけると元に戻るんですよ。この前テレビでやってました」
立花さんが少し照れたように舌を出した。要するに、ポリフェノールとくっついた酸素を、ビタミンCで引っぺがしたという訳だ。こういうことに関しては、立花さんの得意分野だ。表面が茶色かったウサギさんは、たちまち瑞々しい色を取り戻した。
「へえ……これなら、出しても大丈夫そう。ありがと、良いこと知ったよ。やっぱり、早起きは三文の得ってねえ」
「良かったです」
「またいつでも手伝いに来てよ。早起きして。こっちは大歓迎だからさ」
僕らは林檎を食べ、少しばかり活力を取り戻した。それから笑顔の里中さんと別れ、僕らは家庭科室を後にした。朝だ。裏の通用口から外に出ると、曇り空から差し込む日差しがやけに眩しかった。手足が怠い。慣れない重労働のせいか、頭が朦朧としていた。重力が、いつもの2倍か3倍になったかのような感じだ。
結局、おりょうさんの謎は何の進展もなかった。時間は止まらず、その間にも、大勢の人が働いているというのが分かっただけだ。後1時間もしないうちに、朝礼が始まる。今日くらいはもう、遅刻したことにして、午前中はサボってしまおうか。
「なぁ……」
そんな不埒なことを思い、後ろから付いてくる2人を振り返った、その時だった。
僕の視界が、霧が降りて来たみたいに、一瞬で真っ白になった。
「え……?」
何も見えない。校舎も。後ろからついて来ているはずの2人も。朝の日差しも。自分の足元さえ覚束なかった。白い闇。突然のことに、僕はどうすることも出来ず、ただただその場に立ち尽くして戸惑った。
そしてその時。
僕は確かに聞いたのだ。
僕は息を飲んだ。僕の隣を、何かの影が、すうっ……と横切って行った。それも1人ではない。何人も、何十人も、まるで行列でも作ってるかのように。確かな気配がすぐ隣に合った。影は僕の後方から、通用口のあった方へと進んでいた。軋んだ車輪の音や、小さな鈴の音。それから布が擦れる音、くすくすと笑う、童女のような声すら聞こえた。
「……おいで?」
不意に耳元で、本当に僕の鼓膜のすぐそばで、ぞっとするほど甘ったるい声が聞こえた。背筋が凍りついた。
返事をしてはいけない。
どうしてか分からないが、そう思った。吐くことも忘れ、必死で息を止めた。影の行列は僕のすぐ隣、10センチにも満たないところを通り過ぎていく。僕はぎゅっと目を閉じた。一体いつまで続くのだろう? 影の行進は止まることなく、延々と足音を響かせた。
「……よぅ」
また声がした。僕は目を閉じたままだった。
「……羊。おい羊!」
耳元で大きく、僕の名前を呼ぶ声だった。今度は伊井田の声だ。恐る恐る目を開けると、さっきまでの白い霧は、すっかりと無くなっていた。校舎も戻って来ていた。
「大丈夫か? お
目の前では伊井田と立花さんが、心配そうに僕を覗き込んでいた。
「いきなりボーッとして……何か忘れ物か?」
「平気? 疲れちゃった?」
「いや……ううん」
僕は頭を振った。霧は晴れていた。あの行列も、何処にも見当たらなかった。遠くから、登校してくる生徒たちがぼちぼち姿を見せ始めた。朝の冷たい新鮮な空気と、生徒たちの楽しげな笑い声が、僕を一気に現実に引き戻した。
さっきの影は、見間違いか何かだろうか? 心臓はまだ早鐘を打ち、頭はぼんやりとしたままだ。背中は冷や汗でびっしょりだった。自然とため息が漏れた。何となく腕時計に視線を落とす。その瞬間、僕は固まった。
壊れてしまったのだろうか。僕の時計は何故か、4時44分ちょうどで止まっていた。
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