第9話 森々

「あ……!」


 振り返った瞬間、立花さんが腰を抜かし崩れ落ちた。

僕は声を出せなかった。呼吸が苦しくなり、心臓が普段の倍は跳ね上がった。足元がぐらっと揺れるような感覚に襲われて、僕も危うく倒れ込みそうになった。


「ぁ……あ……!」


 立花さんが尻餅をついたままズルズルと後ずさった。絞り出された声は、掠れて、悲鳴にすらならずに震えている。おじいさんは黙ったまま、僕らをじっと見下ろしていた。僕の目は無意識に、だらんと垂れ下がったおじいさんの両手に向けて泳いだ。

シャベル。

ぼんやりとした僕の頭の中に、鈍い色をしたあの工具が飛び込んで来た。突然の来訪者は右手に、長さ1メートルはあろうかと言う、赤錆びたシャベルを手にしていた。瞬間、髪の毛の後ろの方がぞわっと逆立った。


 遠くの方で、再び鳥の鳴き声が聞こえて来た。ふわふわとしていた足に重力の感じが戻ってくる。我に返った。逃げなきゃー……!


「……立花さん!」


 僕は立花さんの手を掴み、急いで引っ張り起こした。森の中を無我夢中で走り出す。道を選んでいる余裕などなかった。息が荒い。心臓はさらに倍跳ね上がった。時々、腕や足に木の枝が引っかかったりして、所々に切り傷が出来た。それでも足は止められない。立花さんが僕の手をぎゅっと握り返して来た。ようやく彼女の方にも力が戻って来て、そこからは足もスピードに乗った。僕らは息を切らしながら夜の森を駆け抜けた。


「待って……!」


 どのくらい走っただろう。後ろから立花さんの声がした。


「待って……待って」


 立花さんは限界に来ていた。僕もそうだった。気がつくと、玉のような汗でシャツがびっしょりと濡れていた。


「待って!!」


 今度は前方から叫び声がした。僕らは飛び上がった。目の前に立っていたのは、先ほど出くわしたあのおじいさんだった。

「きゃあああっ!?」

 

 森の奥深くに、立花さんの悲鳴が木霊する。一体どうして……さっき、逃げて来たばかりなのに……頭の中が洗濯機みたいにぐるぐると掻き回された。もしかして、あてもなく彷徨っているうちに元の場所まで戻って来てしまったのだろうか。


「待って、落ち着いて。待ちなさい、君達」

「え……」


 すると、目の前のおじいさんから、思いの外優しい声がかけられた。僕は面食らった。おじいさんは困ったように白髪を掻いた。


「弱ったな。何も逃げることはないじゃないか」

「え? あの……」


 てっきりおじいさんは殺人鬼か何かで、僕たちを襲いに来たものだとばかり思っていた。そう伝えると、おじいさんはぽかんと口を開け、次の瞬間大笑いし始めた。


「何言ってるんだ。私が、殺人鬼?」

「だって……」

 僕たちは顔を見合わせた。

「鈍器持ってるじゃないですか! 鈍器!」

「それにほら。あの骨は……!?」

「あぁ、あれは私の骨だよ」

「えぇ!?」


 僕は目を丸くした。だとしたら、このおじいさんは……。


「そう。私は幽霊なんだ。ちょうど数十年前に、湖に落ちて死んじまってね」

「えぇ……!?」

「あぁ、別に殺された訳じゃない。事故だったんだよ。それは良いんだけど、家族はもうとっくに亡くなってるし。職場からも行方不明扱いになっちゃって。警察にも発見してもらえないから、成仏するにできなくてねえ。それで仕方なく、自分で湖に落ちた骨を拾って、あの森に埋めていたんだよ。全部を拾えれば、成仏できるかと思って」


 おじいさんは朗らかにそう言った。あまりの告白に、僕はしばらくその場に突っ立って、何も言えないでいた。


「でもおじいさん、荷物持ってましたよね?」

 雲が晴れ、星の光が戻って来た。ちょうどここに来た時に、部屋に案内してもらった時のことを思い出した。


「幽霊になったのに、まだ管理人を……?」

「そう。あの事故以来、この宿泊施設は呪われてるとか変な噂が立ってね。それでみんな怖がっちゃって、管理人をする人が見つからないらしくてねえ。それで私がこっそり此処に住み憑いていたんだよ。まぁそのおかげで、本当に幽霊が出ることになっちゃったんだけど」


 わっはっは、とおじいさんが幽霊ならではのジョークを飛ばし、自分から楽しそうに笑った。立花さんが真顔で尋ねた。


「あの……幽霊って、持てるんですか? 実際の荷物とか」

「持てるもんなんだよ。私の場合、霊感がある人の荷物限定なんだけど。そこら辺のルールは、正直よく分かっていないんだ」


 おじいさんがあっけらかんとそう言った。僕らは再びその場に崩れ落ちそうになった。そんな適当な。まぁでも、幽霊界のルールなんて僕も知らないし、案外そんなものなのかもしれない。おじいさんは少し罰が悪そうに頭を掻いた。


「ごめんよ、でも君らが、心霊写真がどうのこうの言い出すから、私も心配になってね。霊媒師でも呼ばれて、お祓いとかされたらたまんないからねえ」

「たまんないんですか?」

「ヤバいの? お祓いって?」

「さぁ……それは分からないよ。実際成仏したこたァないから。でもテレビとか見てたら、幽霊の人たち、みんな苦しそうじゃないか。嫌だよ。君たちだって予防接種とか、痛かったら嫌だろ?」


 よく分からない。また幽霊ジョークなのか、それとも幽霊にとってお祓いというのは、予防接種みたいなものなのだろうか。立花さんが真顔で尋ねた。


「じゃあ、森で骨を埋めてたのは……」

「あぁ。見つからないように、もっと奥深くに移しておこうと思ってね」

「霊媒師とか呼んで、正式に成仏させてもらえばいいんじゃないですか? それかライフセーバーに骨を拾ってもらうとか……」

「そこまで大袈裟にするのも何だか恥ずかしいよ。それに、どうにか自分で骨を全部回収して、自力で成仏したいんだ。死んでいるうちに、それが私の生きがいになっちゃってね。今ではスキューバの動画とか見て、研究しているんだ。自分で言うのも何だけど、結構上手いもんだよ」


 おじいさんは少し照れたように青白い肌を染めた。死んでいるうちに見つかる生きがい……僕はそれ以上深く考えないようにした。何にせよ趣味に没頭しているだけなのだから、霊とはいえ、無闇矢鱈と人を襲うこともないのだろう。おりょうさんと同じで特に害はなさそうで、僕は安心した。


 驚かすつもりはなかったんだよ、とおじいさんは頭を下げた。それにしてはノリノリで荷物を運ぶのを手伝っていたような気もするが……幽霊の価値観というのは、やっぱり僕には度し難いものがある。人を驚かしたい幽霊もいれば、驚かすつもりはない幽霊もいるものらしい。僕はまた一つ賢くなって、それで一つ閃いた。


「驚かすつもりがない方が、逆にびっくりしたな」

「何の話?」

 立花さんが眉をひそめた。

「『肝試し』だよ。全体集合の『心霊写真』を撮るよりは、管理人さんに今まで通り生活してもらって。見える人と見えない人で、話が食い違ってくるだろうし。それでここの湖で亡くなった管理人さんの霊の話をすれば……」


 このおじいさんが見えない人にとっては、勝手に扉が開いたりしている訳で、その光景は不気味に映るに違いない。さらにその話の後で、森を抜けて湖まで散歩してもらえば、中々の恐怖になるだろう。そう告げると、おじいさんは快諾してくれた。


「あぁ、良いよ。骨のことを黙っていてくれたらね」

「良いのかしら? それでまた部員の誰かが噂を広めて、本当に霊媒師とかがやって来たら……」

「その時はまぁ、お祓いされないようにどっかに旅行にでも出かけておくよ。この宿泊施設が盛り上がるのは、私も望むところだし……」


 思い入れのある施設は繁盛して欲しいが、自分はお祓いされたくないと……何とも都合のいい幽霊である。おりょうさんといい、僕の周りに集まってくる幽霊は、どうしてこうも幽霊っぽくないんだろうか。


「それくらいなら私も全然協力するさ。元管理人としてね。懐かしいなあ。昔は此処にも沢山学生たちが泊まりに来てねえ。肝試しも、良くやってたもんだ。その時は、まさか自分が驚かす側になるとは思ってもいなかったがね……」


 おじいさんは懐かしそうに星を見上げた。僕らは頭を下げた。

「協力していただいて、ありがとうございます」

「すみません。なんかこっちが勝手に勘違いして、私びっくりしちゃって……」

「なぁに。こういうことはたまにあるんだよ。見えちゃう人っていうのがね。まぁでも、骨を持っていかれそうになったら、正直どうしようかと思ったんだが。人を呪うとかってのは、私ァあんまり得意じゃなくってね……」


 今のは冗談だ、とおじいさんが楽しそうに笑った。どこからどこまでが冗談なのか、相変わらず幽霊の話はよく分からない。僕らは真顔で見つめ合い、急いで自分たちの部屋に戻った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る