第5話 杏仁豆腐の謎・解決編
その日の深夜。
午前2時に近づこうとしていた頃、果たして例のケーキ泥棒事件の”犯人”はやってきた。
僕らは『洋菓子店』の裏に周り、勝手口近くの生垣に身を潜め、声を殺してその時を待っていた。
「作ってきたよ」
そのうち立花さんのお父さんが勝手口から姿を現して、小走りで生垣にやってきた。できるだけ”事件”と同じ状況を再現しようということで……お父さんには当日と同じように杏仁豆腐の試作品を作ってもらい、扉は開けっぱなしにして……そのまま中に放置して来てもらったのだ。開いた扉の中には、できたての杏仁豆腐が残されている。いわば”犯人”をおびき寄せる『罠』である。
「なるほど」
立花さんのお父さんが肌寒そうに腕をさすった。
「ケーキ作りに夢中で気がつかなかったが、確かに夜中は寒いね……」
辺りはすっかり闇に包まれていて、建物の影がかろうじてうっすらと見える程度だった。時折伊井田がスマホを取り出した時の光が、人魂のように中空に浮かんでは消えた。あわよくば、のこのこ出てきた犯人を撮影するためだ。
「よほど杏仁豆腐が好きなんでしょうな、その犯人」
「犯人はきっと、ライバル店の関係者に違いないわ。ウチのが売れすぎて、嫉妬しているのよ。それで試作品を盗んで……」
「それだったら発売したのを買って、それを改良すれば良いじゃないか」
「そういう問題じゃないよ! その店独特の味ってものが大事なんだ……」
立花さんのお父さんが少しムッとしたように言い返してきた。僕なんかは、ケーキの味のほんの僅かな違いなど当然分かるはずもなく、正直腹を壊さなければそれで良いやとさえ思っている。だが、どうやら本職の人にとってはそうではないらしい。どうやら杏仁の種類にこだわりがあるのだとか……などと話し込んでいるうちに、時刻はすっかり2時を回ってしまった。
「見て……あれ!」
暗闇の中で、立花さんが声を上ずらせた。彼女が指差した先に、人影は無かった。だが、常闇の中に、かすかに影が蠢いているのが見て取れた。しかも、かなり小さい。僕は目を凝らした。
「あれは……?」
「猫?」
猫だった。黒と茶色のキジトラ模様の、少し目つきの鋭い近所の野良猫。キジトラは草木の上を音も立てずに歩いてくると、そのまま開いた扉の中に吸い込まれるように入って行った。
「驚いた……」
立花さんのお父さんが半ば呆れるように呟いた。
「まさか、猫ちゃんだったとはね」
立花さんが苦笑した。
「見て」
数分もしないうちに、カップを口に咥えたキジトラが扉から這い出してきた。キジトラが出た後で、風に押し戻されて扉が閉まり、そこで例の「負圧」によって”密室”が完成した。
「なんだ、こんな単純なことだったのか……」
先に扉が閉まった日には、当然猫は中に入れないから、残念ながら杏仁豆腐は失敬できない。風の穏やかな日にだけ、”事件”が発生するという訳だったのだ。僕らはちょっと拍子抜けして、お互い顔を見合わせて笑った。万が一、悪質な人間が夜な夜な忍び込んで来ていたのだとしたらどうしよう、と不安にもなっていた。人間じゃなく、猫のいたずらだったのだとしたら、まだ可愛いものだ。
「こぉら」
立花さんがおもむろに立ち上がって、キジトラめがけて大股で近づいて行った。キジトラは逃げるでもなく、その場で「ミャア」と一声鳴いて、立花さんの足にすり寄って来た。どうやらかなり人懐っこい性格らしい。
「ダメでしょ。猫が杏仁豆腐なんて食べちゃ……体に毒よ」
「ミャア」
キジトラは立花さんの腕の中で甘えた声を出し、目を細めた。未だかつてこんな大胆不敵な犯人がいただろうか。犯行を悪びれる様子もなく、堂々と杏仁豆腐をほっぺたに付けたその姿に、僕はもう肩の力が抜けてしまった。
「とにかく、真相が分かって良かったよ」
立花さんのお父さんが心底ホッとしたようにため息をついた。
「原因が分からないと、どうにも不気味なものだからね。杏仁豆腐も、猫も大好き!、なんて宣伝文句をつけて売り出せば、ヒットするかもしれない」
「ねえ、この子ウチで買えないかしら?」
また風が流れ、雲の隙間から月明かりが僕らを照らした。
すっかり懐いた様子のキジトラを抱え、立花さんが自分の父親を上目遣いで見た。お父さんは少し困った顔で髪を掻いたが、結局その甘えん坊のキジトラは、その後立花家に引き取られることになった。安直に『杏仁豆腐』と名付けられたその猫は、お客さんに『杏』とか『豆』とか呼ばれ、『洋菓子店』の看板猫として末長く可愛がられたのだった。めでたし、めでたし……となるはずだったが、残念ながらその晩だけは、そうはいかなかった。
”犯人”を確保して、ホッと一息ついた僕らは暖を求めて厨房へと入って行った。
その中で僕らを待っていたのは、さらなる怪奇現象だった。なんと白髪のご老体が、厨房の片隅で苦しそうに顔を歪め、蹲っていたのだ。これには僕らも度肝を抜かれた。
「大丈夫ですか!?」
僕らは慌てて老人に近づいた。だが、どうにも様子がおかしい。立花さんが訝しげにお父さんの袖を引っ張った。
「ねえ。この人、お父さんの知り合い? 従業員にこんな人いたっけ?」
「いや……でも、どっかで見たことあるような……」
僕は倒れた老人を遠巻きにして、まじまじと眺めた。灰色の
「近づかない方がいいわ」
おじいさんを抱え起こそうと手を伸ばす伊井田を、立花さんが鋭く静止した。
「私たち、勝手口を見張ってたじゃない。その間、誰も入ったりしてなかったはずだわ……」
そうなのだ。
僕らは今夜、裏の生垣で出入り口を見張っていた。表の自動ドアは施錠していたし、万が一破られれば警備会社に通報が入っているはずである。だとすれば、この老人はいつから、どうやって厨房に……。
「もしかして……」
立花さんが少し青ざめた顔をして声を震わせた。
「幽霊……?」
「う、うぅ……ん……」
そのうちおじいさんが意識を取り戻した。僕らは警戒したまま、おじいさんの顔を覗き込んだ。
「すみません……大丈夫ですか?」
「あいたた、腰が……畜生、忌々しいあの泥棒猫め」
おじいさんは目を覚ました途端、苦々しげに悪態をつき始めた。
「せっかくの杏仁豆腐を……ワシが楽しみにしていたのに!」
「あの……」
「あなたは誰?」
「ん? ワシか??」
灰色スーツのおじいさんは、ようやく僕らの存在に気がついてくれたようだった。僕はおじいさんの顔を正面から見た。蛍光灯に照らされたその顔は、ほんの少し
「ワシはこの『立花洋菓子店』の創始者……立花ヒデオじゃよ」
「創始者??」
「あぁ……思い出した。アルバムで見たんだ。確か実家に写真があって……」
立花さんのお父さんが納得したように手を打った。どうやらこのおじいさん、本当に只者ではないらしい。
「あの。もしかしておじいさん、幽霊か何かですか?」
伊井田が思い切っておじいさんにそう尋ねた。おじいさんは当然のように頷いた。
「そうじゃよ」
「なぁんだ」
「なんだとはなんじゃ。せっかく幽霊を目撃したんじゃから、もっと驚かんか」
僕と伊井田は顔を見合わせた。おりょうさんといい、どうにも僕らの前に現れる幽霊は、みんなしてどこか
「おじいさん、何の用?」
「何の用とは、これまた失敬な。ワシはこの店の創始者だぞ」
「だから、何の用なのよ?」
立花さんの腕の中で、キジトラが興味深そうにおじいさんを眺めていた。彼女はおじいさんに害がないと分かるとたちまち強気になった。これには厳格そうな創始者の幽霊もタジタジになった。
「ワシは創始者じゃぞ。創始者として、店の味を確かめるべく……」
「だったら何もコソコソ入らなくてもいいじゃない」
「ムゥ……」
幽霊に堂々と入ってこいというのも酷な話だ。
「あの」
立花さんのお父さんがおずおずとおじいさんに声をかけた。
「流石に勝手に店に入るのは辞めてもらっていいですか。新作が出たら、納骨堂まで持って行ってお供えしますので」
「フム、よかろう。そうだな、そうしてくれ。その猫と取り合いになるのは、もう疲れたわい」
そう言うとおじいさんは、
「では……その。おじいさん、お達者で」
「ウム。その、元気での」
最後、おじいさんは少し顔を背け、ボソボソとそう呟いて闇の中に消えて行った。子孫の健康を気遣って、照れていたのだと気がついたのは、帰りの夜道の途中だった。僕は伊井田や立花さんと別れ、一人静まり返った夜道を歩いていた。その頃には時刻はもう4時を過ぎていた。44分になると、案の定おりょうさんが道の角からぼんやりと姿を現した。僕はその時初めて、おりょうさんは夜中の4時44分でも出てこられるのだと知った。おりょうさんは僕がまだ起きていることに吃驚した様子だった。
「そうなんですか!」
僕が一連の杏仁豆腐事件のあらましを話して聞かせると、おりょうさんはさらに驚いた様子で、まん丸とした目で僕を見つめてきた。
「でも、良かったですね」
1分後に消える前、おりょうさんはホッとしたように胸を撫で下ろした。
「そのおじいさん。ちゃんと、供養してもらえて」
「…………」
いつの間にか風は止んでいた。僕が返事をする前に、おりょうさんは
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます