第2話 教室

 今年の春に晴れて高校生になってから、一人称を「僕」にするか「俺」にするかでずっと悩んでいる。人によっちゃどうでもいいのかもしれないが、僕にとっては、世界中で毎日更新されるどんな重大事件よりも大切な問題だ。


 16になって、髭も伸びるようになってきて、何やら身体中のありとあらゆる毛が全体的に濃くなってしまった。運動はからっきしで、筋肉は全くと言っていいほどないから、鏡で見る自分の姿はものすごいアンバランスだ。


 「僕」を貫くほどの可愛げもなくなり、かと言って「俺」に切り替えるほど男らしくもない。


 一体自分のことを何と呼べばいいのか、そんな自分でも説明不能な謎の劣等感コンプレックスが、最近じゃ毎日僕の頭をぐるぐると駆け回っていた。


 それに比べれば、4時44分に幽霊が出ようが、13日の金曜日にホッケーマスクがバカ売れしようが、全く無問題モウマンタイだ。幽霊なんて、映画とか絵画とかでしか見たことがなかった。第一、16にもなって幽霊を見ただなんて友達に話したら、

「何言ってんだコイツ」

 と白い目で見られること間違いなしだった。案の定、僕の一つ前の席にいた伊井田は、それと一言一句違わぬ台詞を僕に言い放った。


「何言ってんだコイツ……」

「2回も言わなくて良いよ」


 僕は少し恥ずかしくなって顔を伏せた。

教室では、ちょうど5時限目の授業の真っ最中だった。が、社会の先生がプリントを職員室に取りに行くとかで、それまでシン……と静まり返っていた教室はたちまち蜂の巣を突いたような騒ぎになった。


 伊井田いいだ鉄郎てつろうは、中学の時に知り合った友人だ。

分厚い牛乳瓶の底みたいな黒縁眼鏡と、爆発した鳥の巣みたいな彼の天然パーマを見るたびに、僕は思わず笑顔になってしまう。思わず「漫画かよ」とツッコミたくなるような、そんなベッタベタな格好に、和まずには居られない。ちなみに伊井田は自分のことを、関西人でもないのに「ワイ」と呼んでいる。正直言って、インターネットに毒され過ぎだと思う。


「しかし、調べて見ると案外面白いかも知れぬな……」

「何が」

 面白いのか分からない。僕は机に肘をついたまま、つっけんどんに言い放った。カバンから新しい本を取り出し、頁を捲る。視線をそっちに集中させて、伊井田の方を極力見ないよう心がけた。


「だから、その幽霊がじゃよ。もしかしたら、ものすごい事件の被害者かも知れんじゃろ。4時44分の幽霊……この学校に伝わる、300年の歴史を誇る七不思議の一つだったりして……」


 僕は返事をしなかった。仁馬山ウチの高校は、まだ創立26年目の、至って平凡な公立高校だ。


「それともよう、おメェー……そのおりょうさんって娘に、何か取り憑かれるような悪さでもしたんか」

「んな……全然心当たりないよ!」

 僕は慌てて首を振った。伊井田は時々僕のことを巫山戯て「おメェー」と呼ぶ。時代が時代なら裁判沙汰だ。まぁでもつまり、お互いそういう間柄ってことだ。伊井田はニヤニヤと口元を緩ませた。


「分かんねぇぞォ。特に異性関係なんて、何処で誰に恨まれてるか。この色男が」

「何でだよ。恋人だってまだいないのに……」

 その時だった。

 ガラッと教室の前方の扉が開いて、生徒クラスメイトたちが一斉にそちらを振り返った。僕は

「あっ」

と大きな声を出してしまった。扉の向こうに立っていたのは、あの白装束の幽霊・おりょうさんに他ならなかった。


「こんにちは……」


 教室は水を打ったように静まり返っていた。僕は本を取り落とした。扉の向こうに、おりょうさんに全員の視線が集まる。彼女は何だかちょっと気後れしたように声を震わせたが、普通にお辞儀をして、おずおずと教室の中に入ってきた。毎度のことながら、もっと幽霊らしく入ってくればいいのに、と僕は思った。やがて生徒クラスメイトたちが不安げに顔を見合わせ、ざわつき始めた。


「何……?」

「い、今勝手に扉が開いたよね?」

「何だ……怪奇現象!?」


 一瞬僕は面食らった。

てっきり生徒クラスメイトたち全員に、おりょうさんの姿が見えているものだと思っていたからだ。とっさに僕は伊井田を見た。伊井田も、僕を驚いた顔で見つめ返してきた。その表情で、彼にはおりょうさんの姿が見えているのだと確信した。


 だが他の生徒クラスメイトには、扉の向こうに誰も立っちゃいなかった。幽霊が見えている人と見えていない人がいる。考えてみれば当然か。全員にばっちり見える幽霊なんて、あまり聞いたことがない。きっと彼らには扉が自動的に開いたように見えたのだろう。教室は少し騒然となった。


「お……おい、これって……!?」


 一方伊井田の声は、先ほどとは打って変わって震えていた。まさか幽霊が、こんな白昼堂々正面の扉を開けて入ってくるとは思わなかったのだろう。その点は僕も驚きだった。驚かせようとしていないことが何よりの驚きだ。あれだけ昨日、「怖がらせますんで」と意気込んでいたのに。僕は教室の時計を確認した。4時44分を指していた。おりょうさんは、僕の席の近くまでやってくると、ぺこりと頭を下げた。


「すみません、授業中に。来ちゃいました」

「来ちゃいました、って言われても……」


 僕は何と言っていいか分からず口ごもった。僕の正面に座った伊井田は、餌を強請ねだる鯉みたいに口をぱくぱくさせて、両目をひん剥き、横に立っている幽霊を見上げていた。僕は二人の顔を見比べた。どちらかというと、伊井田の方が人外っぽい。おりょうさんは青白い顔をさらに青くし、悲しげに目を伏せた。


「その……ようさんを驚かせようと思ったんですけど。考えれば考えるほど、何にも思いつかなくって……」

「……無理して出てこなくてもいいよ」

 僕はちょっとおりょうさんが哀れに思った。結果的に、僕は今までで一番驚いたことになったのだが、それはきっと彼女の本望じゃないだろう。おりょうさんは慌てて首をぶんぶん振った。


「いえ! 私、幽霊ですから! がんばります!」

「そう……」

 死んだ後くらい、ゆっくり休めばいいのに。幽霊になった後まで頑張るだなんて、ものぐさな僕にはちょっと気が知れないが、それだけ現世にがあるのだろう。おりょうさんは言った。


「それに、どうしても知りたいんです。私がどうして死んだのか。どうして幽霊になってまで……羊さんの周りをさまよっているのか」


 その理由は本人も分かっていないようだ。ようやく気を持ち直した伊井田が、半ば呆れたように、半ば恐怖を紛らわすかのように笑い飛ばした。


「おメェー、やっぱりおりょうさんに何かしたんじゃないの? じゃないと普通、幽霊に取り憑かれたりしないって」

「何もやってない」


 僕は首を振った。別に墓荒らしもしていないし、おじいちゃんの家に密かに隠されていた囲碁盤の封印を解いたりだとか、誰かを呪って藁人形を打ち込んだとかいう記憶もない。


「おりょうさんって言いましたっけ」

 伊井田が恐る恐る、目の前の半透明な少女に馬鹿丁寧な敬語で話しかけた。


「大変失礼ですが、年齢はおいくつですか? 同い年くらいに見えますけど……後出身地とか、出来るだけ覚えていることは何かございませぬか?」

「年齢は……400歳くらいだと思います」

「400歳!」

 僕と伊井田が

 幸い教室は喧騒を取り戻しており、特別悪目立ちすることもなかった。400歳だというと、江戸時代あたりの生まれになる。確かに幽霊っちゃあ幽霊っぽいが、こうなるとますます余計に、今現代の僕の前に現れる意味も分からなかった。たとえば400年前に、僕のご先祖様が誰かの恨みを買っていたとして、それって僕に何の責任があるのだろうか。


「どうして亡くなったのかも、覚えてないんですね?」

「えぇ……」

「何か事件かも……」


 しれない、と伊井田が言ったところで時間制限タイムリミットだった。4時45分だ。1分間しか姿を見せない幽霊少女は、そのままスーッと姿を消してしまった。伊井田がまたしても口をあんぐりと開けて目を引ん剝いた。

「消えた! おい、消えたぞ!」

「あぁ、消えるんだよ。そら幽霊だもん」

 僕は伊井田に事の顛末を説明した。やがて、全ての事情を聴き終わった彼は、興奮して鼻息を荒くした。


「……やっぱりこれは、昔の新聞とか、ちゃんと調べた方がいいな。何か、事件の匂いがする」

「はい?」

「だってそうだろ。400年前から時を超えて姿を見せた幽霊……記憶を無くした彼女の謎。自殺か? 他殺か? その動機は? なんか面白そうじゃない!?」

 僕は無視して、床に落としていた本を拾い上げた。正直、今読んでいる新刊ミステリの方が面白そうだ。


「よっしゃ! そうと決まれば、明日から早速調べてみようぜ! ワイも手伝うからさ」

 何がそうと決まったのか僕にはよく分からないが、それで明日から、おりょうさんのことについて調べて見ることになった。今日からじゃない辺りが、実に僕ららしい謎の解き方だ。僕自身、いつまでも幽霊に取り憑かれっぱなしというのもいい気はしなかった。謎を解いて彼女に成仏してもらえるならそれに越したことはない。そのうち社会の先生が帰ってきて、授業が再開した。


 それは、ほんの軽い気持ちだった。

僕らは帰宅部で放課後暇を持て余していたし、ただの好奇心や出来心の延長線上だった。それがまさか、あんな大事件に巻き込まれることになるなんて、その時は微塵も思っていなかったのだ。

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