第12話 幕間:夜、想う、自室にて。
わずかに開いた視界の先には、暗く濃い藍色の部屋が広がっていた。
それが自分の部屋だと理解するのにさほど時間を必要とするわけでもなく、でも、見慣れた自室は、普段とはまた別の雰囲気を身に纏っているかのようで、――少しの不安が心に影を落とした。
「……おねえちゃん」
ふと零した声に、誰の返答もない。ただ縋りつく音色のまま、辺りに溶けて空しく消えていく。
まるで時間が凍ったような寂しさの中、聞こえてくるのは、壁掛け時計を滑る秒針の音。耳を澄ませば、遠く、微かにパパのいびき声。
今、何時だろう。
怖いまでの静けさが、深々と夜の更けた時間だと教えてくれているようだ。
ふいに、小さく咳が出た。乾いて掠れた、か細い音。
同時に、夜、トイレに行かないようにと考えたのが徒になったのか。控えめにとった水分は私の中でもう空っぽみたい。
ヒドく喉が渇いて、……ダメだ。いよいよ目が冴えていく。
こうなると、落ち着くまでは眠れない。
ベッドの手すりを使い、身をよじり、ちょっとだけ身体を起こす。
ママか、お姉ちゃんのどちらかが準備してくれたのだろう。備え付けのサイドテーブルの上。置かれたペットボトルに手を伸ばした。
ふぅ。と、出た溜息は疲れからくるものか、それとも呆れか。
私にとって、ただ身体を起こす。それだけでもかなりの負担がある。でも、この吐息のもと――感覚的に後者が強いように思えた。
私はいつもこうだ。過剰に先を考えすぎて、マイナスを回避したつもりがドツボにハマる。
遅すぎる後悔はするだけ無駄。だけど、こんなことならしっかりと飲んでおくべきだった。
寝起きの手は僅かに震え、蓋にかかる力は抜けていく。
堅いキャップに手間取りながらも、それでも、うんとこしょどっこいしょ。大きなカブは抜けないけれど、開けゴマ。
「……ふぇぇ」
でも開かない。
寝る前は、ちゃんと開いたのに。なぜだろう、情けない声が零れるばかり。
どうしてこうなのと、力の入らない両手に今日もまたストレスを感じる。
お姉ちゃんは口癖のように「かよわいは可愛いってこと」なんて、綺麗な顔でそう言うけれど、なんだかいつもより上手くいかない気がする。
まだ早いうちなら、家族の誰かに手伝ってもらうところだけど、今は真っ暗な夜の時間。こんな理由で起こすだなんて、いけないことだ。
うんうんと、歯を食いしばりながら、言うことを聞いてくれない両手に力を込める。
ダメだ。開かない。
どうしてだろうか。ほんの少しの違和感が、私の心を揺らす。
その疑念を振り払うかのように、もう一度、お腹に力を込めて、ペットボトルの蓋を回してみる。
「このやろう」
と、お姉ちゃんの言葉を真似して力を振り絞る。
これまたお姉ちゃんに教わったことのひとつ。その時はジャムの蓋だったかな? コノヤロウの後にもういくつかくっついていたっけ。
『汚い言葉のほうが、パワーが出るってモンよ!』
ママはそれを見て、『そんな言葉どこで憶えてきたの!』すぐさまお姉ちゃんを叱っていたが、
「……やった」
手はじんじんと痛み、疲労感もヒドい。だけど、――さすが、自慢のお姉ちゃんだ。
ようやく開いたペットボトル。憎らしい蓋をどこか遠くまで投げ捨ててやろうと思ったが、……達成感が、本来の味を底上げしてくれたのかな。
それとも、ヒドくヤキモキしながらもようやくありついたからなのかな。
ゆっくりと口を付けた水は、とても美味しかった。渇いた身体に染み渡り、先程から続く一連の努力を祝福してくれているようだった。
気がつくと、ペットボトルは半分ほどの重さになっていたのだから、どれだけ喉が渇いていたのだろうか。今更、トイレの心配が脳裏をかすめたが、飲んでしまったものは仕方がない。
でも、この量を一気に飲むほどだったんだ。……もしかしたら、イヤだけど、とても困った話だけど、やっぱり、ほんの少しだけ熱があるのかもしれない。
熱発してしまうほどムリをしたのかと問われると、ほんの少しの心当たりはあるけれど、そうまで頑張ったつもりはないと私は返答するだろう。
……きっと、返答するだけだろうけど。
たかが蓋ひとつにここまで苦戦したのだ。普段ならもう少し簡単に開くような気もするし、体調が芳しくない可能性は否定できそうにない。
もし体調を崩したとなれば、イヤだな。また家族のみんなが心配してしまう。
あの辛い日々は二度とゴメンだけど、いつ再発するかわからないと病院の先生も言っていた。
目に見えてヒドくなればあの時のように、パパもママも私のために長く仕事をお休みするかもしれない。お姉ちゃんも、美人な顔を真っ青に染めて私の側に居るんだと、以前と一緒。学校どころではないだろう。
……やだなぁ。
本当に、この身体は困ったものだ。体力の分母が極端に小さすぎる。
ちょっと頑張っただけでこのざま。
一生懸命にならないといけない事なんて、山ほどあるのに、あっさりと空になった体力が、次に連れてくるのは身体の不調。
今月末に迫ったどうしても欲しいもの。それをお願いするために今日はリハビリで頑張ったし、夜はママのお手伝いをいっぱいした。
夕飯の食器をならべたり、乾いた洗濯物を畳んだり。大変なところはお姉ちゃんが、そのほとんどをやってくれたのだけど、出来る分はしっかりやったと思う。
パパも、『何かおねだりかな?』って笑ってくれたから、あのね。って、お手伝い頑張るからって。だからねって、余計に意気込んじゃって。
……それがダメだったのかもしれないと、今になって、少しばかりの後悔。
やっぱり張りきりすぎるのは良くないと、お医者さんの言ったとおりだった。
あぁ、憂鬱だ。
朝になれば、熱が下がっていないかな。元気におはようって言えるかな。いつもみたいにパパが笑ってくれて、ママとお姉ちゃんが、順番で優しく抱きしめてくれるかな。
ほう、と一息つくと、潤った身体が落ち着いたのか。心のモヤはそのまま、重い身体に引っ張られるかのように、ぼんやりとした感覚が、再びゆっくりと私を眠りの国へと誘っていく。
……これが、夢だといいな。
もう眠りにつくのもあと僅か。ヒュプノスのお迎えも、すぐそこまで着ているかのような、そんな胡乱な頭に、――なにがきっかけだったのだろう。
ふと、とある “コンボ” が頭に浮かんだ。
ゆっくりと、眠りの海へと船を漕ぎ出してしばらく。ベッドの中で、唐突に数枚のカードが脳裏をよぎったのだ。
ガチリといつものスイッチが入った感覚に、私の全ては覚醒した。寝ている場合ではない。
――急いで、今生まれたばかりのコンボを、もう一度頭の中で並べてみる。
コンボやシナジーは、この閃いた瞬間こそが、とっても大事。
急いては事を仕損ずるとはいうけれど、このTCGの歴史は20年を軽く超える。
その間出た、二万種類に及ぶ膨大なカードプールから、この数枚を選び出せたんだ。どんな奇跡か偶然か。形にしないのはもったいない。
……全てあの人からの受け売りだけど、私も同意見だもん。
だから、今が何時かとか、朝起きれるかなんてもうどうでもいい。せっかくの組み合わせを忘れないよう、同時に、ある程度の形にまで一気に練り上げる。
他にも有用なカードはないかと選定し、効果を重ね、足し算を引き算に、そして掛け算にしていく。デメリットをメリットに変え、絶対に出来ないを、出来るにする。すごいものになれば、有限を無限にすることさえある。
それを聞くと、出来るにするとか無限とか、そんなスゴいこと、中学生の私程度が思いつくわけないだろうと、そう言う人も居るだろう。
でもね。一見難しいそうにも聞こえるけど、コンボを思いつくこと自体は、そう珍しいことじゃない。
カードゲームをやっているヒトならば、年齢やプレイ年数なんて関係なく、大なり小なり経験はあるはずだ。
夢のある話をするならば、誰かがふと思いついたカードの組み合わせが一夜にして環境を変えてしまうことも、まったくない話ではない。
だからこそ、この瞬間が一番好きだというプレイヤーは少なくない。かくいう私もそのひとり。
ただ、もちろん玉石混淆で、それぞれの有用性はピンキリ。突き詰めれば突き詰めるほど、頂の高さを思い知る。歴史に残るような、それこそ公式の大型大会で結果を残すような、そのクラスの神コンボが生まれることはほぼ無いのが実情。
ほとんどの場合はタラレバで固められたロマン砲ばかり。ひどい時には紙束なんて言われ、笑われることさえあるらしい。
……あの人は、絶対にバカにしたりはしない。でも。
きっと、今回思いついたコンボも、それくらいのモノだろう。
なんせそれは、今月末の新弾に収録される予定の、とあるカードを使った単純なもの。
すでにある既存カード2枚と新弾カード1枚を組み合わせた三枚コンボで、ちょっと要求されるコンボパーツが多く、やや相手依存で、かつ速度の遅さが玉に瑕。
だけど、私がずっとメインで使い続けているデッキと相性が良いような気がして――ドキリと、ちょっとだけ心臓が期待に跳ねた。
たぶん、この程度の組み合わせなら、どこかの誰かがすでに考えついていることだろう。
場合によっては、プロキシ等を使って、これでもかと研究を重ねられているかもしれない。
その結果、ダメだ。使えないとボツ判定が出ているとすれば残念。良くある話だし、じっさい組んでみると、あぁ、なるほどと納得するものが多い。――でも。
それでも。
そうだとしても。
自分で確かめてみるまではわからない。やりもせず白旗あげるのは、好きじゃない。
どれほど皆がダメだと匙を投げたとしても、自分の考えたコンボが、そして、ひとたび目の前でデッキが回れば、それはまるで魔法にかけられたようなドキドキをくれる。
一度経験したら、もう虜。
自分のデッキを自ら考え、組むという基本であり、永久に回答の出ることのない問い。そんな数多くの苦悩と挫折の先にある、最大の楽しみはそこだと言っても良いくらいなのだから。
『自分のスペシャルで、環境トップに勝てると毎回泣きそうになる』
まったく同じ事をあの人も言っていたし、私自身、全力の同意しかない。
ただ、眠りながらの閃きはそうあることではないとも言ってたっけ。
“こうすればそのコンボへのアクセスが増やせますね”
“ああすれば違うループに繋がるか”
なんて、私のはじめて考えた拙いコンボをスゴいスゴいと褒めながら、寝ても覚めてもTCGにどっぷりと、頭の先まで浸かってないとそうはならない。以前、キモータさんが楽しそうに言ったのだ。
『バニラブさんは、いつも楽しさを見つけてくれますね』
声だけだったけど、本当に嬉しそうな雰囲気が伝わってきて、その時の感情を上手く説明できないけれど、楽しかった。嬉しかった。そして、……気がついたらその時間が、私の中で、とても大切なモノになっていた。
その時ふたりで考え、作り上げたコンボはいまだに私のメインデッキのエンジンであり続けている。
あれからもう三年くらいか。
毎回、お互いに自分の考えたコンボやシナジーを時間も忘れて話し合い、次の機会にそれを搭載したデッキで殴り合う。
キモータさんは、スゴくプレイングが上手いからデッキの相性関係なく手も足も出ずに負けてしまうことは少なくない。
でも、その後の感想戦や、たまに勝てた対戦でいっぱい褒めてくれるから。嬉しくて、もう一回もう一度と、勝つまでやって、――熱中しすぎてママに怒られる。
『バニラブさんは本当にこのゲームが好きなんですね』
僕と一緒だ。
――ギュッと胸が締め付けられた。
もう寝なきゃダメな時間なのに、困った。その時の事を思い出して顔がにやけてしまう。
だって、こんなの最強の殺し文句だ。
自分の趣味を認めてくれて、一緒に楽しんでくれて、びっくりするほど優しくて、それに、キモータさんってば、すごく照れくさそうに笑うんだもん。
先日もそうだ。不意打ち気味に、私のことを素敵だなんて言うもんだから、やめてほしい。心臓が破裂するかと思ったし、そんな台詞、とうぜん私に対して効果は抜群、勝ち目はない。
「……私、素敵だって」
一気に茹で上がった頭では、どんな返しも生まれてきやしない。ただオロオロと、もう自分が何をやっているのか、どういう会話をしたのかさえわかったものじゃない。
あのとき、最後は気恥ずかしさで、逃げるように通信切っちゃったけど、変に思われてないかな。
やっぱり、すぐにお詫びのメールを送ったほうがよかったのかな。
でも、ひとつ間違えたら重い女とか、ウザったらしいとか思われかねないし、なら、はじめからそんなことしなきゃ良かったでしょって、いつもどおりにお別れすればよかったでしょって、わかってるけど、……だって、むりだもん。
あんな事言われて、冷静になんていれないもん。
キモータさんの言ってた、例のアイスの女の子もきっとそうだ。どうにかして彼に近づこうと、必死になって空回りしたに決まっている。
私にはわかる。だって、自分ならそうなっちゃう自信がある。
相変わらず顔も知らない間柄だけど、きっと、彼はとてもカッコいいに違いないのだから、アイスの子のようなファンの一人や二人いて当然だ。
でも、いいなぁ。
キモータさんにお近づきになれるなんて、それだけで神ピック。生半可なトップレアを引くより価値がある。
あぁ、近くで見る彼は、きっとカッコイイんだろうなぁ。
いくつくらいかな。学生だって言ってたし、そこまで歳は離れていないだろう。
高校生? もしかして大学生かも。
どこに住んでるのかな? TCG以外の趣味はあるのかな? 聞けないけど聞きたいな。
スポーツとか、やってたりして。センスも良さそうだし、いつか並んでも平気なように、私もいっぱいオシャレを勉強しなきゃかも。お姉ちゃんに教えてもらおう。
――あぁ、近いうちにまた彼とカードがしたいな。
今週末とかどうかな? 土曜の夜とかヒマかな? 今思いついたコンボをまたふたりで組み立てたいな。
また、いつもみたいに、笑ってくれるかな。褒めてくれるかな。そして、
……私のこと、良く思ってくれてるかな。
「なんちゃって」
不意に出た言葉に、おもいきり掛け布団を引っ張る。緩む口元を隠すよう顔まで埋めて “なんちゃって” と何度も何度も繰り返す。
しんと静まりかえった部屋で、ひとり。こんな夜更けだというのにジタバタと。……もうしばらくは寝付けそうにないみたい。
それに、これは困ったと、改めて苦笑い。
――タイムリミットはあとどれくらいかな。
上がる口角と、上がる体温。このコンボが生み出す効果は、はたしていかほどのものだろう。
「これは違うんだけどなぁ……」
感じる熱に、ホント、困ってしまう。
きっと今、私の身体は、いろんな意味で茹でダコ状態。真っ赤で、熱々で、こんなの、家族の誰が見ても大騒ぎ。
だから、太陽が朝を連れてくるその時までに、言い訳だけは考えておこう。
「ほんと、そういうんじゃないんだけどなぁ……」
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