第7話 対決と最後の望み


 山木の家は郊外の一軒家だった。

 おそらく賃貸だろうが独身の男には贅沢な住まいだ。

 時刻は一九時一六分。ずいぶん暗くなってきた。もう帰ってきてもいいはずだが。

 遠くから車のエンジン音が近づいてくる。

 息をひそめて山木邸の塀に隠れる。

 ヘッドライトが塀を照らし、車が減速する。

 山木だ。帰ってきた。

 俺は手を握って開き、あらかじめ着けていた革の手袋の感触を確かめた。

 車から人が降りて玄関のカギを開けた音が聞こえた。

 今だ。

 俺は塀の後ろから飛び出し、玄関へダッシュする。

 ドアの鍵が閉められる前に玄関に体を滑り込ませた。

「なんだ! お前は」

 驚いた山木が後ろへ飛びのく。

 俺は山木のあごに狙い定めて拳を繰り出した。

 意外に冷静に打ち出せた。

 確実にあごを捉えた。

 はずだった。

 俺の拳は山木をすり抜けるように空振りしてしまった。

 バランスを崩した俺は、そのまま廊下に倒れ込む。

「お前、白石か」

 冷静を取り戻した山木が吐き捨てるように言う。

「仕返しのつもりか、クソが」

 倒れた俺の腹を蹴りつける。

 現実に味わう重い痛みは想像以上で、俺はもう襲撃を後悔し始めていた。

「クソ白石くんもイジメられて一丁前に怒ってたの?」

 山木がしゃがみこんで俺の顔を覗き込む。

 ニヤついた顔が怒りを再び燃え上がらせた。

「お前がクソだろうが」

 俺は至近距離で山木の顔に拳を繰り出した。いくらなんでも外すわけはない。

 が、拳は顔をすり抜けた。

 今度はハッキリ見えた。

 俺の拳が山木の顔をすり抜けるところを。

「すり抜けた?」

「はーはっはっは! 白石くん、いい顔するなぁ」

 腹を抱えて笑う山木。

 山木の背後に青い悪魔のようなものが見えた。

 まさか、こいつも悪魔と契約しているのか?

 青い悪魔はビロードみたい艶のある詰襟を着ており、いかにも上級の悪魔のようだった。俺のことには興味がないかのように見下げている。

 そうか、ジャックはこの悪魔に逆らえなかったんだ。

 だから諦めさせようとした。

 ちくしょう。何が「不可能はない」だ。

 上司に逆らえなかった俺と同じじゃないか。

 山木は俺の頬を軽く叩く。

「ま、せいぜいがんばれや。死んでも誰も悲しまない白石くん」

 そしてもう一度思いきり足を後ろに振り上げて腹に強い蹴りを入れた。

 つま先が横腹に食い込む。

 経験したことのない鋭い痛みで一瞬息を吸い込めなかった。

「このくらいで許してやるから帰れ、クソが」

 山木はさっき俺の頬を触れた手をズボンで拭いながら、俺に向かって唾を吐いた。

 俺は必死で嘔気をこらえる。痛みと悔しさで知らないうちに顔が涙まみれになっていた。

 仕返しする気力は微塵も残っていなかった。

 とにかく逃げることで頭がいっぱいだった。腹を押さえて玄関まで這っていった。

 そのとき、

「誠、俺の言うとおりにしろ」と耳もとでささやく声が聞こえた。

 もう逃げることしか考えられない俺はその声を無視して這った。

「逃げ続けるのか?」

 蹴られた腹が強く痛む。

「そんな人生を望んだのか?」

 吐き気がすごいんだ。

「誠!」

 クソッ!

 俺はいきなり立ち上がり、隣りの部屋に飛び込んだ。

「おい、何やってんだ」

 山木の動きが遅れたところでドアを閉め、ロックをかける。

 俺は山木のデスクの引き出しを片っ端から開け、目当てのものを探し当てる。

 ドアが蹴り破られた。

「おいおい、殴られ足りなかったんなら言ってくれんと」

 怒りに顔を真っ赤に染めた山木が飛び込んできた。

 手には金属バットが握られている。

 どうやら山木を本気にさせてしまったようだ。

 軽い怪我では済まなくなってきた。

 山木の背後には相変わらず冷たい面持ちの悪魔がこちらを覗いている。

 ちきしょう!

 でももうやるしかない!

「ジャック!」

 俺の背後からスッと赤い悪魔が現れる。

「これが下級悪魔の矜持だ」

 山木の背後の青い悪魔が目を瞠る。

「ジャックだな? ここで何をしている。下級悪魔に用はない。去れ」

「失礼は承知です。でも契約履行に上級も下級もありません」

 俺は後ろ手に一枚の紙をジャックに渡す。

 ジャックは骨のボールペンを取り出す。

 青い悪魔はジャックが何をしようとしているか感づいて怒鳴る。

「ジャック、そんなことをしたらどうなるか分かっているのか!」

 ボールペンの先が契約書に触れたとたん、ジャックの手が炎に包まれた。

 燃え上がる真っ赤な火炎がジャックの腕全体を焼け焦がす。

「ううううううあああああ」

 雄叫びをあげながら、ジャックは契約書の「山木」に一文字足して「山本」にした。

「ジャック!貴様!」

 突如、床に黒い穴が現れた。穴の周囲は光る呪文のようなものがゆっくりと回っている。

 黒い穴の中からものすごいスピードでワイヤーのようなものが飛び出し、青い悪魔に絡みつく。みるみるうちに悪魔はがんじがらめになった。

 そしてそのまま青い悪魔は穴に引きずられていく。

「ジャック、覚えておけ。この処分はひどいものになる」

 最後の言葉を残して青い悪魔は穴に吸い込まれていった。

 仕事を終えた黒い穴はすぐに閉じてしまった。

「ジャック! 腕、大丈夫か!」

「俺のことはいい。あいつの契約は無効になった。今だ! ぶん殴れ!」

 山木は金属バットを振り上げて近づいてくる。

 俺は渾身の力を込めて真正面から山木の顔に拳を突き出した。

 ゴッ

 当たらないと思って油断していた山木の顔面にまともに正拳が入った。

 鼻が折れるような軟骨がひしゃげた感覚が拳から伝わった。

 山木の目玉がぐるりと上を向き、その場に崩れ落ちた。

 そして大量の鼻血を流しながら意識を失ってしまった。

 俺は拳の感触を確かめていた。

 思っていたよりスカッとしなかった。

 どちらかという嫌な気分だ。

 血を流して倒れている山木を見ても、達成感はなく、ただ哀れにみじめに見えただけだった。

 腕をやけどでただれさせたジャックが痛みをこらえて言う。

「……どうだ、望みが叶ったろ?」

「ジャック、お前、やるね」

「悪魔に不可能はない」

「大変なことしちゃったんだろ?」

「ま、そうだな」

 上級悪魔に逆らって契約書を改ざんしたジャックの罪は重いんじゃないだろうか。よく分からないけど。

 だが、ジャックは微笑んでいた。

「嫌な上司だった」

「ありがとう、ジャック」

「じゃ、契約完了だな?」

「いや」

「おい勘弁してくれ」

 言葉とは裏腹にあまり怒っているようには見えない。

「……悪魔の友達がいたらいいなって」

「悪魔が人間と友達? そんな悪魔がいるのかね」

「どうだろね。でも、それが俺の望みになった。できるかな?」

「ふん。俺に不可能はない」



(了)

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悪魔ジャックと白石誠 霧江空論 @iritomo1990

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