§3 タカムラの再反論:ヒュームの因果論②(反事実条件説)
「だがな、亡者リツコよ。こうも考えられはしないか? 『もし汝の父がどんぐりを食べねば、腹を下すことなかった』故に、どんぐりが腹痛の原因である。もちろん、実際に検証してみない限り、汝が言う規則性とやらがあるかどうかは確かにわからないだろう。ただ我が考えるところ、そのような方法に頼らずとも因果関係は定義することはできる」
タカムラから行われた反論に、わたしは目をみはる。それは、わたしが大学の講義で学んだ別の因果の定義の内容、そっくりそのままだったからだ。いよいよ油断が置けない。
「……なるほど。それは『反事実条件』と呼ばれる定義ですね。確かに、ヒュームは実は同時にそのように因果関係をとらえていたのでは、という説もあります」
「ふむ、『ひゅうむ』とやら、このタカムラと同じことを考えるとは、なかなかの才人であったようだな。もし地獄に来ることがあれば、ぜひ会って話してみたいものよ」
ヒュームは当然、もうとっくの昔に亡くなっているけど、宗教的なこともあり、たぶんこの地獄には来なかったのではないだろうか? 確実に話がややこしくなりそうなので、のどまで出かかった言葉をわたしはすんでの所で飲み込む。
「話を戻しましょう。ひとつお聞きしたいのですが、あなたは父がどんぐりを『食べた場合』と『食べなかった場合』の両方の世界を同時に観測できますか?」
わたしの質問に、タカムラは鼻を鳴らして答える。
「これは異なことを。このタカムラ、閻魔様の補佐官なれど、神ではなし。当然ながらそのような人知を超えた振る舞いは不可能である」
「そうですよね。でも、それならば『もし仮に生のどんぐりを食べなかったなら、腹痛を起こさなかった』ということを、なぜ言い切れるのですか? これを『因果推論の根本問題』と言います。仮に反事実条件の定義を採用するのであれば、この点を明らかにする必要があります。もしそれが出来ないならば、残念ながらタカムラさんの論証は不十分、ということになります」
わたしは声を張り、ここぞとばかりに裁判長である閻魔様にアピールする。
「ま、待て待て! 汝の言っていることは確かに理屈上はそうではあるが、筋が通らぬ。たとえば、薬の例を考えてみよ。ある薬が病に効くかどうかは、『飲んだ場合』と『飲まなかった場合』を比較しているはずだ。そうであろう?」
思わぬ角度からの反論だったのか、タカムラが慌てたように割って入る。ただ、その反論もわたしは想定済みだ。
「はい、確かに投薬試験などによる因果関係の同定は、反事実条件の考え方にその基礎を置いていると考えて問題ないと思います」
「左様。で、あれば、だ。当然、この場合も同じ人間に対して『飲んだ場合』と『飲まなかった場合』を同時に見ることなどできぬが……それでも薬は効果のあるものとして、娑婆でも受け入れられているであろう。汝はそれも否定するのか?」
「いえ、そうではありません。実は、医薬品の効果は、同一個人ではなく集団と集団を比較しています。一般に医薬品開発では、ランダム化比較試験(RCT)と呼ばれる手法によって、因果関係が特定されています」
「あーるしーてぃ? 何だ、それは」
「これは、例えば投薬試験の場合だと、薬を投与するグループと投与しないグループの二つを用意した上で、患者をそれぞれにランダムに割り振る手法のことです。詳細は省きますが、これによって他の条件がほぼまったく同じと見なせる二つのグループを作り出し、先に述べたような、二つの事象が同時に観測できない問題を疑似的にクリアしているのです」
「なんと……!」
「しかし、本件においては、当然ながら同手法は未適用でしょう。もちろん、生のどんぐりと腹痛の関係を示す論文があるかもしれませんが……それをご存じですか?」
「……いや、知らぬな」
タカムラは悔しそうに、歯噛みして答える。
「それではやはり、残念ながら現時点では立証は不十分といえるでしょう。わたしはここに、自らの無罪を主張するものです!」
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