信じられない事態

 エリクサーの器には追跡の魔術が掛けられていた。

 世界警察ワールド・ガードの長官グランドが、シェイドの動向を予想して仕掛けておいたのだ。

 治癒の魔術を使えないシェイドが、必ず奪いに来るだろうと。

 その予想は当たっていた。

 案の定シェイドはセレネを一時的に一人にして、エリクサーを取りに行ったのだ。

 エリクサーが入った器はシェイドの手にあるだろう。

 そこまでクロスが理解した時に、事態は動いていた。

 木の陰から伸びるように、痩せた長身の男がセレネの傍に出現した。長さのそろわない銀髪を生やした男で、黒いローブをまとっている。


 シェイドに間違いなかった。


「イービル・ナイト、シャドウ・バインド」


 いきなり放たれた魔術により、クロスの影が歪んだ。クロスはうめき、動けなくなる。倒れないのが精一杯だ。

 ナイフを握るセレネの手は、地面に片膝をつくシェイドの左手が押さえ込んでいた。

「待っていろと言っただろ。俺の労力を無駄にするな」

 怒気を含んだ口調だった。

 シェイドの右手にはエリクサーが入った器がある。

 その器をずいっとセレネの口元に近づける。

「飲め。拒否は受け付けねぇぜ」

「……嫌です。ブレス王家が作ったものなんて」

 か細い抗議が返ってくる。

 その間に、グランドは呪文を唱えて、走る。

「ここでお前たちを仕留めるぞ! フィジカル・アディション、パワー・チャージ、スピード・アップ」

 半分ほど溶けた巨大なハンマーでシェイドに殴り掛かる。

「一撃必殺じゃあぁぁああ!」

 パワー、スピード共に最高級の技だ。かわしようがない。

 しかしシェイドの表情に焦りはない。舌打ちをしていた。

「うるせぇよ。イービル・ナイト、ロバリィ」

 巨大なハンマーが闇色に染まる。グランドは咄嗟にハンマーから手を離した。

 ハンマーが闇に呑まれ、溶けて、黒い泡となった。

「お、おのれええぇえええ!」

 グランドは拳で殴り掛かった。しかし、黒い泡が生き物であるかのようにグランドに向かいくる。呑み込まれたら命に関わるだろう。

 グランドは後退を余儀なくされた。

 この間に、クロスにとって信じられない事が起きていた。

 グランドは黒い泡をかわすのに集中していて、気づかなかっただろう。

 しかし、クロスは見てしまった。


 シェイドがエリクサーを口に含み、セレネの口に流し込んだのだ。


 セレネの頬が赤らみ、目が潤む。

 彼女の手からナイフがこぼれ落ちた。


 口づけはほんの一瞬であったが、セレネの心に刻み込まれただろう。

 起き上がって口元を押さえる。

「シェイド様、何を……!?」

「こうでもしなかった飲まなかっただろう。さっさと飲めば、こんな目に遭わずにすんだのにな」

 シェイドは、からとなった器を地面に置いた。

 セレネの手からこぼれ落ちたナイフを拾いあげて立ち上がった。

「あんたの意識が変わるまでナイフは没収だ。悪く思うなよ」

「悪い気はしていませんよ、ですが……!」

「文句なら後で聞く。今はこの場にいる連中を皆殺しにしようぜ。言いふらされたら、あんたの嫁の貰い手がいなくなる」

 シェイドはセレネの腕を引っ張って、立たせた。

 セレネは怪しく笑った。

「嫁になんか行きませんよ。私は一生をあなたに捧げます」

「あんたが一生をどう使うかはとやかく言う気はないが、もっと有効活用した方がいいぜ」

「とやかく言っているじゃありませんか。私の一生は私のものです。指図されるいわれはありません」

 セレネに言い返されて、シェイドはめんどくさそうに溜め息を吐いて、首を軽く回した。

「分かった分かった。とにかくやるか。俺たちが工夫を凝らした魔術を見せつけようぜ」

「はい、喜んで」

 シェイドとセレネが暗い声を発して、呪文を重ねる。

 二人の魔力に呼応するように、風が強まり闇が生まれる。風は天高くまで吹き付けて、辺りを闇で満たし、天から光を奪った。

「イービル・ナイト、アクア・ウィンド、ナイトメア・テンペスト」

 悪しき夜と、水を帯びる風が織りなす、悪夢の嵐。

 彼らの扱う魔術の中で、最高位のものが放たれた。

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