12月26日 午前0時40分 ポプラ公園裏通りガード下


 ――ああ、クリスマスだったっけ。



 安藤は、コンクリの橋げたの隙間から星空を見つめた。


 さっきまで、方々から聞こえた若者たちの声は止み、今は車の往来の音がするだけだ。それでも充分に騒がしい。


「痛てて」


 左の肘をさすりながら、安藤はため息を吐いた。


 段ボールは意外に暖かいと学んだのは先月末だったか。


 真冬にそなえて、そこらじゅうから集めてきたが、つい他人のテリトリーを侵してしまい、こっぴどくやられてしまった。


  ――皆、生きるのに必死なんだよな。


 生きるのに必死って、言葉として矛盾してるだろう。そんなことをふと考えて、安藤はつい笑い声をこぼした。


 ――去年のクリスマスは、日本にいなかったよな。


 家族を連れて、ヨーローッパの本場のクリスマスを見せてやった。子どもたちも喜んでいたな。


 ――いや、それより何より、会社の代表取締役だったろうよ。


 地道に今まで通り測量業務をやっていれば良かった。変なコンサル屋の言うことなどを信用して、新事業に手を出したのが失敗だった。


 会社で一番信頼していた人間が、よそに引っこ抜かれて、味方が一人もいなくなった。


 ついでに顧客も全部持っていかれた。


 ――いやいや、まさか家まで持っていかれちゃうとかな。


 機能しなくなった会社、減り続ける顧客、手の平を返す金融機関、膨らむ借金。もう、どうしようもなかった。


 ――あっという間に、四十八歳のホームレスの出来上がり。



「社長」



 突然、上の方から声がした。


 ――。


 安藤は、呻くように口を開いた。


「誰だか知らねえが……そんな風に呼ぶんじゃねえよ。殺されたらどうする」


 ――おれのせいで、全社員の人生がおかしくなったんだ。


「どれだけ、おれが怨まれて……」


「怨まれる数なら、オレも負けないよ」


 段ボールの屋根がそっとめくられた。


 弱々しい街灯と、やたら大きな人影が現れる。


「……宇佐見、か?」


「久しぶり、社長」


 そして、紙コップが差し出された。

 そこに、たっぷりとシャンパンが注がれる。


 安藤は聞かずにはいられなかった。


「何でわかったんだ、ここにいることが」


 しかし、宇佐見はそれには答えず、


「正式に離婚が成立いたしました」


 そう告げてきた。


「その他、もろもろ。滞りなく」


 ――。


「……そうか。女房はお前に依頼したんだな」


 宇佐見は弁護士で、数年前まで安藤の会社の法務顧問だった。


 新事業に手を出した際、費用面でも条件が良い弁護士が紹介されて、安藤の方から宇佐見との契約を打ち切ったのだ。


 ところが、新しい弁護士は頭は良いものの、全てにおいて後手後手で、仕事も遅くてまるで頼りにならなかった。


 安藤は差し出されたシャンパンを手に取った。


「怨んでいるか?おれを」


「まさか」


 メリークリスマス、宇佐見はそう言って紙コップを軽くぶつけてきた。そして、小さく笑った。


「ただ、他の二人はどうか知らないけど」


「――そうだな。特に藤石は」


 藤石という司法書士は、宇佐見と一緒に会社運営のアドバイザーとして携わった男だった。

 宇佐見曰く、会社法に関しては、弁護士より司法書士の方が細かくて詳しいというので、安藤もそれなりに重宝していたが――。


「あの新事業に手を出した時は、必死に止められたな。見込みがない、採算が合わないって」


 生意気な若造に何がわかる――そう言って突っぱねたものの、結果はご覧の有り様だった。


 あれ以来、藤石とは一切何の連絡もとっていない。先方から様子を伺ってくる様子もなかった。


「完全に嫌われたなあ。アイツ、本当に薄情なリアリストだよな」


 安藤は、笑い声を上げた。宇佐見もつられるように笑う。


「逆だよ、社長」


「え?」


「チビ書士はね、会社が存在してりゃ関われるけど、潰れちゃったら手出しできないんだよ。アンタが、社長じゃなくて単なる一般人になったら、何も助けてあげられないの。だから必死だったんだよ」


「……」


「倒産した時、相当悔しがってたからね。とてもじゃないけど、今の社長の現状は話せないね。強がっているようで、たぶんオレなんかより情にもろいのよ、ああいうタイプは」


「……」


 安藤は汚れた両手を見つめた。


「白井……という調査士はどうしてる?」


 その男にも、時々測量の絡みで仕事を出したことがある。

 現場の人間とはそれなりに上手くやっていたようだが、やはり専門家チームを一新した際に関係を絶っていた。


「アサト?相変わらず色白で黒い服着て、不運に見舞われてるよ」


「不運か」


 それの原因は自分にもあるのだろうか。


 とんだ疫病神だ。



「おれ……生きていていいのか」


 必死に生きるって何だ。


「良いんじゃないの?心臓が動いてるんだから」


 宇佐見がシャンパンを注ぐ。


「どうにでもなる。生きるのは簡単だよ」


 街灯に照らされ、明るい茶色の目が笑っている。


 安藤は、なぜかそれに腹が立った。


「同情か?励ましか?綺麗ごとなら聞き飽きたぞ」


「オレ真面目よ?生きるのは簡単、ただ生き方を選ぶと急に難しくなるけど」


「……」


「他人を陥れるなり、物を盗むなり、人を殺すなり、這い上がるためにアンタが何でも出来るなら生きるのは簡単だよ。でも、そんなことをしないでしょう?どうしたら良いか悩むってことは、まだ人間として救いがあるってことじゃないのかな」


 宇佐見は星空を見上げ、白く丸い息を吐いた。


「……オレだけなんだよねえ」


「え?」


「あの二人……藤石センセイも白井センセイも、安藤さんの人生そのものには関われないんデス。最後はオレがやるしかない」


 異国顔の男はシャンパンを飲み干すと、持っていたビニール袋に紙コップを放り投げた。


「オレだけは、最後まで社長の味方だよ」


 その一言に、自然と安藤の目からは涙が溢れた。


「おれは多くの人間を苦しめてきたんだ。家族さえも捨てて自分だけ逃げて……こんな……卑怯な人間……」


 許されるわけない、振り絞るようにそう言った。


 宇佐見は安藤の紙コップもビニール袋に捨てると、急に真顔になった。


「大丈夫。だって弁護士は、決して正義の味方じゃないから」


「……」


 そして、ウインクが飛ばされた。


「依頼主の味方だよ。どんな時だって」



 その時、二人に近づいてくる気配があった。


 宇佐見が吹き出した。


「アサト!いつからそこにいたの?真っ暗の中で真っ黒のお前を見つけられるわけないでしょう?今度からスーツのボタンを全部豆電球にしなさい!」


 はあ、と地を這うような声がした。


 安藤が顔を上げると、青白い顔の細身の男が立っていた。


「……白井か」


「……こんばんは」


 白井は頭を垂れると、何やら箱を差し出してきた。


「あの、これ……」


「何だ?」


「ケーキです。あ、あの、クリスマス当日に買ったので、売れ残りではありません」


 どこか慌てたように白井が取り繕う。


 そして、長身の弁護士を振り返った。


「……ウサさん、社長がここにいること知っていたの?」


「うん。アサトの方こそ、知ってたんだねえ。もしかして、同じルートかな?」


「たぶん……。秋くらいに、僕は測量会社の人から、それらしき人を見たって話を聞いて。それで、実は何日か前から様子を見てたんだ」


「なっ」


 安藤は思わず声を上げた。


「白井、お前……張り込んでたのか」


「すみません。お世話になった身ですから、何かしたくて……。疎ましがられると思ってましたけど、僕……まだ駆け出しの頃に仕事をもらえて、その延長で今も仕事にありつけているんです。だから安藤社長のおかげです」


 すみません――もう一度、繰り返された。


「……元社員の方たちも、心配していました。それだけは、伝えておきたかったんです」


「……」


「オレも、実は密かに会社復活の相談受けてるんだよね。ああ、バラしちゃった」


 二十歳近く年少の連中に慰められ、安藤は顔を覆って、首を横に振った。


 自嘲的な笑いしか出てこない。


「それまで、必死に生きろ、って?」


 どうすれば良いんだよ。


「なあ、白井。必死に生きるって、何だ?教えてくれよ」


 赤い箱を持った黒服の男は、しばらくうなだれた。


「生きていることを実感する――だけだと思います」


「え?」


「何の悩みもない人間は……死ぬことを考えません。死を意識するということは、生を考えることです。生を考えるということは、自分を見つめるということです。そこには必ず悩みがあるはずです」


「……」


「悩みから逃げ出したくて、自ら命を絶つ人も多いですけど、それ以上にその勇気も持てない人間の方が圧倒的に多いと思います。その人たちは……必死に生きているはずです」


 突然、宇佐見が笑い出した。


「難しいよ、アサト。生きるってのは必ず死ぬってことで良いじゃない」


「それって単語並べただけでしょう……ウサさんみたいな人ばかりじゃ……」


「必ず死ぬんだから、与えられた時間でやれることやれば良いんだよ。社長は気が済むまで浮浪者やりなよ。でもね、這い上がって来た人間は本当に強いから。オレ、何人も見ているよ」


 安藤は両肩を抱えた。


「……帰ってくれ」



 震えが、鼓動が止まらない――。



 しばらくして人気が無くなった時、冷たい地面の上に、赤いケーキの箱と弁護士の名刺が置かれていた。

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