3
俺は歌舞伎役者で、大一番の舞台に立っている。襲名を受けてから初めての大見栄を切る場面が近づいてくる。だが、そこまで来て、パッと頭が真っ白になってしまった。どう動けばいいのか、忘れてしまったのだ。心臓が鼓動を速くする。無数の観客の冷たい目が俺に注がれる。
「何やってんだ!」
誰かが叫んで、俺の顔に水が引っ掛けられた。
目を開けると、加湿器の蒸気が広がっていた。機械を止めて、身体を起こす。
変な夢だった。きっと昨夜の話のせいだ。桑名が「襲名披露」だとか言っていた。あいつが歌舞伎などという伝統芸能に興味があるとは知らなかったが、そのせいで嫌な目覚めを迎えてしまった。
デスクの上のノートパソコンが目に入る。やるべきことがあったというのに、何もできていない。大学の近くに住んでいるせいで、友人の溜まり場になっている。成績も落ちてきた。このところは飲みを控えていたが、昨夜は久し振りにやってしまった。記憶があまりないのだ。
パソコンを持って、寝室を出る。昨夜のことを考えながら廊下を通ってリビングに向かう。部屋に入って、目に飛び込んできたのは血だらけの男の死体だった。
一瞬、呼吸を忘れた。
ノートパソコンをソファの上に投げ出して、死体のそばに近寄った。血溜まりができていた。恐ろしくて堪らなかったが、その顔を確認した。
岸田だった。
昨夜この部屋で話していたのに、今ではその口も目も開くことはないのだろうと確信させられる。手が震えた。身体が震えていることに今更気がついた。
どうしてこんなことに……?
「お前の部屋は呪われてるんだよ」
渡邉がそう言っていたのを思い出す。呪われているとは思っていなかったが、俺のような金のない大学生がこんな広い部屋に普通は住めることなどない。それが可能なのは、ここが心理的瑕疵物件……いわゆる事故物件だからだ。不動産屋からは何年か前にこの部屋で殺人があったと告知された。
「そんな部屋さっさと出た方がいいぞ、累」
渡邉は言っていたが、俺は意に介さなかった。その結果がこれだ。
一体誰がこんなことを……?
そばに見慣れた包丁が落ちている。キッチンにあったものだ。死体のまわりの血は踏み荒らされていて、リビングの床も汚れている。悪夢のような光景だ。
テーブルの上に開いたままの本が伏せられていた。タイトルは『繰り返し見る夢のような』……置きっぱなしだ。
昨夜の記憶が次第に蘇ってくる。確か、この本は岸田が持って来たもののはずだ。事件が起こった部屋で主人公が目覚めるところから始まるループものの小説だ。小説の内容と現実がダブって、眩暈がしてくる。
呪いだというのか。
今までオカルトをただの娯楽としてしか見てこなかった。それが俺たちオカルト研究会の性分でもあった。だが、この現実の目の前にして、静かに、そしてゆっくりと足元から昇ってくるおぞましさがあった。
俺がこの部屋に住むと決めたせいで、岸田は死んでしまったのではないか。
正直なことを言ってしまえば、岸田と俺はとても仲が良いとは言えなかった。もともとそんなに交流がある人間ではなかったし、傲岸不遜な態度、そしてあんな本を書いたとは思えないような思慮の浅さに辟易としたことも何度もある。だからといって、岸田が死んでしまうことを望んでいたわけでは決してない。
しかし、今のこの光景を見たら、人は俺が岸田を殺したと思うに違いない。岸田と俺の間に壁があることなど、友人たちには筒抜けだったからだ。それだけは避けたかった。
どうすれば、俺が犯人だと思われないのだろうか。
落ちている包丁を拾い上げて、キッチンに向かった。水を出して、スポンジに洗剤を含ませて、包丁を洗った。包丁はいつもの場所にしまった。これで、俺の包丁が凶器だとは誰も思わないだろう。
死体から目を逸らして、リビングを出る。
俺がこの家にずっといたことが分かってしまったら、きっとみんな俺が犯人だと思うだろう。この部屋を出て、昨夜は別の場所にいたことにしなければならない。着替えるために、寝室に戻った。
寝室のドアを閉めると、悪夢との間に隔たりができたような気がして、少し安心した。だが、落ち着いている場合ではない。すぐにクローゼットに向かう。扉を開けて外に出るための服を探した。
クローゼットの天井に、何かが貼ってあるのを見つけた。読解できない毛筆の文字と朱印……お札だった。全身に寒気が走った。
後ずさりして、ベッドに腰かけた。クローゼットが恐ろしい空間のように思えて、近づくことができなかった。事故物件……その言葉だけがここで何かがあったことを物語っていた。実際にお札を目にして、それが物的な現実感を伴って立ち現れたことに、得体のしれない恐怖の源泉と自分が地続きの場所にいるのだと否応なしに自覚させられる。
ベッドの脇の目覚まし時計に目をやる。もう午前十時を過ぎている。
胸の奥底から湧き上がる憤りがあった。ここを管理している不動産屋は、お札のことを話さなかった。だから、電話でクレームを入れてやろうと思った。
だが、携帯が見当たらない。寝室のどこにもないのだ。部屋を出て、洗面所に向かうが、ここにもない。鏡の中の俺が切迫した表情を浮かべている。
探すとしたら、リビングしかない。俺は震える足を引きずりながら、再びリビングに足を踏み入れた。心なしか、ムッとするような湿度の高さを感じる。死体が悪夢のような現実に俺を引き戻す。急いで周囲を見回した。テーブルの下、テレビの裏、ソファの後ろ。携帯はソファの後ろに落ちていた。慌てて拾って状態を確かめる。特に汚れたり壊れたりはしていないようだった。すぐにリビングを出て、不動産屋の番号に電話を掛けた。すぐに応答がある。
『お電話ありがとうございます。沢木不動産です』
呑気なその声に、腹が立った。
「なんで部屋にお札が貼ってあるんだよ!」
『もしもし、あの、どういったご用件でしょうか?』
「借りてる部屋にお札があるんだよ!」
『ええと……、どちら様でしょうか?』
俺は乱暴に名乗ってから、住所を伝えた。
「アーバンハイツ六〇五の──」
『あっ……』向こうから声が漏れる。『少々お待ちください』
どこか息を飲むような相手の声の感じに、俺は一気に我に返っていた。
「お札があるなんて言ってなかったですよね」
『申し訳ございません。おそらく、前の入居者の方が貼って行かれたのをこちらで確認できていなかったのかもしれません』
「ちゃんと確認して下さいよ! なんであんなもんを……」
『失礼致しました。もしよろしければ、こちらでお祓いの手配を今すぐさせて頂きますが、いかがしましょうか?』
答えに窮した。俺の頭の中にはリビングに横たわる岸田の死体が浮かんでいた。
「要らないですよ、そんなもの! 絶対に来ないで下さい!」
そう言って電話を切ってしまった。行き場のない怒りを携帯に込めて、枕に叩きつけた。頭を掻き毟る。何もかもが思い通りにならない。
クローゼットの中に手を突っ込んで、触れた服を無為に引っ張り出した。急いでそれを着る。もうこの部屋から出て行きたかった。
着替えを終えて、いつも大学へ持って行くバッグを手に取り、寝室を出た。気が進まなかったが、最後にリビングを覗いた。岸田の死体は依然としてそこにある。部屋の中に入って、中を見渡す。
もしかしたら、もうここには戻って来ないかもしれない。ここには、一年半ほど住んだ。初めは安い家賃が理由で住み始めたが、今では住み慣れた部屋になっていた。そういう場所が、こんなにもおぞましくて、こうして出て行かなければならないなんて、胸が詰まる思いだった。
キッチンになぜかテレビのリモコンが置いてあるのが見えた。唐突に、俺のことがニュースになっていないか気になってしまった。リモコンを取ってテレビを点ける。午前中の情報番組がつまらない芸能ニュースを伝えている。誰と誰が不倫しただのという映像も音も、内容が入って来なかった。ザッピングをしても、目に留まるものはなかった。
テレビを消して、リビングを出た。振り返ることはしなかった。そんなことをしても、何かが変わるわけじゃない。
玄関で靴を履く。ふと見上げると、玄関のドアの鍵が掛かっていないのが分かった。犯人が鍵を掛けずに出て行ったのか?
だが、そんなことはもうどうでもよかった。この部屋への決別を胸にドアを開いた。
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