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寝過ぎたかもしれないと思って目が覚めた瞬間に、今日は休みだと気づいた。無意識にベッドサイドに手を伸ばして眼鏡を探す。だが、目当ての物を探り当てられずに、溜息をついた。別に眼鏡がないと生活できないわけじゃないが、いつもそこにあるものがいつもの場所にないのはイライラする。
身体を起こしてカーテンを開ける。陽光が差し込んできて、目が覚める気がする。少し頭が痛いのは、昨夜のせいだ。友人たちと久しぶりに酒を飲んで、普段よりグラスを開ける量が多くなった。だからか、昨夜のことは途中までしか覚えていない。
寝室を出て、洗面所に向かう。廊下から玄関が見えるが、そのドアのロックが外れているのに気づいた。俺は舌打ちをしながら、玄関のドアに近づいてロックを掛けた。どうせ、昨夜誰かがここを開けっ放しにしたのだろう。この部屋には大したものはないが、それでも泥棒に出くわすのは勘弁だ。
洗面所で顔を洗おうとして、脇に眼鏡が置かれているのを発見する。どうしてここにあるのかは分からないが、誰かがどこかへやったのではなくてよかった。うちは大学から近いせいで、よく友人たちが出入りしている。うちから物を借りたままの奴も何人もいる。
昨夜は同じ物理学科の友人たちが集まっていた。例の小説についてのああでもない、こうでもないが白熱した。
『繰り返し見る夢のような』というその小説には、読む者に空白を考えさせるような余地が多く設けられている。だから、これまでにも何度か仲間内でそのことを話すことがあった。
なぜ時間的ループが引き起こされたのか、というのは物語の本筋とは関係がない。だが、みんなそれが起こった原因から何かを導き出そうとしていた。
俺の見解はこうだ。
超弦理論では、物質の最小単位をひもだと考えている。そのひもには閉じたひもと開いたひもの二種類がある。閉じたひもは両端がくっついて丸まった状態のもので、開いたひもは両端が自由に伸びている。そのひもはDブレーンという厚みのない膜から生じている。
超弦理論では、超対称性という考え方が取り入れられている。超対称性とは言葉の通り、対称性を超えているということだ。ミクロの世界に触れたことがない人間にとっては耳を疑うようなことかもしれないが、大きいことと小さいことが同じであるというわけだ。つまり、物質の最小単位であるひもも、それを生み出すDブレーンも、宇宙における最大のサイズ……すなわち宇宙そのものと同じということになる。
Dブレーンとは宇宙そのものだ。そして、Dブレーンの外側にはいくつものDブレーン、つまり宇宙が存在している。そのDブレーンから開いたひもが伸びて、一つ目のDブレーンと二つ目のDブレーンが繋がった時、二つの宇宙は一つのひもで一つになっていると考えられる。平行宇宙への道がそこにはあるということなのだ。
他の宇宙について知る術は少ないだろう。もし他の宇宙が、今の俺たちが存在している宇宙と全てが同じで、こちら側の午前十時が向こう側の午前九時というように時差だけがあるとしたら……一つのひもで繋がったもう一つの宇宙に移動するということは一時間前に時間移動できるようなものだ。
ここに時間的ループの正体があると俺は考えた。仲間たちの反応はいまいちだった。
「それなら、何度もループしてるってことは、二つ目の宇宙から伸びたひもが同じような条件の三つ目の宇宙にくっつくってことだろ。そんな確率の低いことがあるわけがない」
田島がそう言って俺を笑った。
「だけど、確率がゼロではない以上は起こり得るだろ」
「そこの壁にぶつかってトンネル効果が発生するくらいあり得ないよ」
そう言ってあいつらは笑った。
顔を洗って、眼鏡をかけると、視界も相まってスッキリする。
廊下に出る。リビングのドアを開けて、俺は息を飲んだ。
床の上に包丁が落ちていた。それも、血まみれの。何が起こったのか分からないまま、部屋の中に入って中央を見ると、誰かが横たわっていた。腹から胸にかけて真っ赤に染めている。その顔はちょうどソファの足元に向けられて見えない。
あまりの出来事に俺は腰を抜かしてしまった。恐ろしさが足元から昇って来て、立っていられなかったのだ。
なんでこんなことに……?
心休まるはずのこの部屋に現れた強烈な違和感に震えが止まらなかった。見たことのない量の血が水たまりのようになっていて、それを踏み荒らしたような跡が包丁のところに続いている。床の血の跡を見ると、部屋を出て行ったらしい。
そこまで考えて、俺はゾッとした。犯人は俺が寝ている部屋にやって来ていた可能性があるということだ。だが、俺は生きている。どういうことなのだろう?
一つの恐ろしい考えが芽生えて、別の恐怖が襲いかかってきた。
俺が犯人?
いや、そんなはずはない。だが、昨夜の記憶が曖昧で、思い出せない部分がある。俺は思い立って、昨日ここにいた誰かに電話で聞こうと寝室まで駆けた。ベッドのまわりを必死になって探したが、携帯が見当たらない。いつもはこの辺りに置いているはずなのに。
携帯を探そうと寝室を出るが、リビングでの光景が強烈に頭の中に蘇る。一歩進む足が自分でも信じられないほどに重かった。またリビングに入る自分を想像すると、恐ろしくて堪らなかった。
「お前はなんで偉そうなんだよ」
唐突に昨夜の田島の声がフラッシュバックした。『繰り返し見る夢のような』について話している俺たちを見ていた岸田に彼が言ったのだ。口々に見解を述べるみんなを前に、岸田が愉快そうに笑みを浮かべていたせいだ。それからというものの、田島と岸田の間に流れる空気はずっと悪かった。
あの昨夜の不和がこんなことを引き起こしたのか?
あの死体は岸田だったのか?
俺たちの誰もがファッションに疎い。ファストファッションに身を包んだ俺たちは服装も似たり寄ったりだ。だから、リビングで横たわっているのが誰なのか、着ているものでは判別ができなかった。
だが、もしあれが田島か岸田なのだとしたら、俺は犯人ではない。そういう自己防衛本能が、昨夜のことを俺に思い出させているのかもしれない。
冷静になって考えると、昨夜のことをここにいた連中に聞いても意味がないかもしれない。なぜなら、誰も今ここにはいないからだ。つまり、昨夜は何事もなく、全員が帰宅した。その後で、リビングの惨事は起こったのだ。
昨夜の面子を思い出そうとして、新たな記憶が呼び覚まされた。確か、三谷だったかが誰か他にも呼ぼうと言っていたはずだ。そして、後からやって来た何人かを玄関で出迎えた覚えがうっすらとある。
そもそも、玄関の鍵は開いていた。俺が寝ている間に誰かがやって来て、誰かを殺したかもしれない。寝室にいた俺を放置して。
俺を犯人に仕立て上げるために……?
客観的に見れば、今の俺は殺人犯も同然だ。廊下に突っ立ったまま、頭だけは必死に働かせようとしていた。誰かが殺したのは間違いがないのだ。
あの転がっていた包丁……あれは俺の物だろう。キッチンにしまってあったはずだ。包丁の場所を知っている人物が一人いる。田島だ。彼はたまにうちのキッチンで簡単な料理をすることがある。その時に包丁の場所を教えたのだ。ということは、犯人は田島?
いや、だいいち、リビングで死んでいる人間は、なぜあそこにいたのだ?
昨夜の飲み会では何もなかったはずだ。だから、全員が帰って行った。仮に昨夜ここにいた誰かが犯人にせよ、一度帰った振りをしてまた戻ってきたことになる。しかも、そのことに俺が気づいていない。そんなことがあり得るのだろうか?
ダメだ。
取り留めもない考えが頭の中から湧いて出て来てしまう。そうしている間に、俺は警察に連絡もしないまま時間だけを浪費し続けている。携帯は見つからない。だが、マンションのエントランスに公衆電話があったはずだ。財布を取りに行こうと寝室に戻ろうとして気づく。公衆電話には緊急通報用のボタンがあったはずだ。
俺は急いで玄関に向かった。サンダルを突っかけて、玄関のドアを開けた。
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