繰り返し見る夢のような
山野エル
5
地獄の底で波打つ血の池を溺れるように泳いでいた。酸素を欲して赤い水面から顔を上げるが、むせるような血の匂いで呼吸する気力すら削がれる。窒息に次ぐ窒息。
目が覚めた時、俺は全身をびしょびしょにしていた。最悪な夢だ。額の汗を拭おうと目の前に持って来た手が真っ赤で、俺は喉を鳴らしながら上体を起こした。両手が肘辺りまで血で汚れていた。Tシャツの腹もズボンもべったりと赤黒い。辺りに血の匂いが漂う。慌てて身体を確認するが、どこも怪我をしていない。カピカピに乾いた手でベッドサイドの眼鏡を手に取る。部屋を見回すが、いつもと同じ光景だ。ただ、俺の身体についた血だけが悪夢の残滓みたいにこびりついている。
何があったかは分からない。だが、身体を綺麗にしたくて、寝室を出て、廊下を通り、洗面所に向かった。
鏡に映る俺は、気のせいかもしれないが、やつれて見えた。右の頬にも血のついた手で擦った跡がついている。眼鏡を外して洗面台の縁に置き、ハンドソープを取って、手も顔も洗った。次第に目が冴えてくる。
この血は一体誰のものだ……?
その答えが知りたくもあり、知るのが怖くもあった。昨夜は友人たちとこの部屋で酒を飲んでいた。歩いて十分もすれば、大学がある。ここはみんなの溜まり場のようになっている。
昨夜、何かがあったのか?
だとしたら、血の量は尋常ではない。すぐにTシャツとズボンを脱ぎ捨てた。それを洗濯機に放り込んで小走りで寝室に戻った。クローゼットに押し込んである衣装ケースから替えのTシャツを取ろうとして、ベッドのそばで何かを蹴っ飛ばした。それを確認しようとして、眼鏡を洗面台に置き忘れてきたことに気づいた。
俺が蹴っ飛ばしたのは、一冊の薄い本だった。タイトルは『繰り返し見る夢のような』……こんなところに放り出しておいただろうか? この本は岸田が書いたもので、主人公が事件の起こった部屋で目覚めるところから始まるループものの小説だ。ありがちなループものの小説とは違って、主人公は記憶を引き継ぐことができない。毎回、初めてのこととして事件を目の当たりにする。
俺は薄ら寒くなって、本をベッドサイドに置き、急いでクローゼットの中からTシャツとズボンを引っ張り出して着た。廊下に出る。玄関まで歩いて、ドアが施錠されていることを確認した。
さっきから三回も素通りしてきたリビングへのドアの前に立つ。この先に何かがあるだろうことは予感していた。ドアノブに手をかけて、ゆっくりとドアを開く。中にムッとするような何かが充満しているように感じられたと同時に、足元に血まみれの包丁が転がっているのが目に入ってきた。そこから、部屋の中央に向かって血の跡が続いている。目から入ってくる事実を認めたくなかった。そっと部屋の中に足を踏み入れて、視線を真ん中のテーブルの方へ移していく。
誰かが倒れていた。真っ赤になって。
寝息も聞こえない。胸が呼吸で上下しているのも確認できない。人だったはずのものが、横たわっていた。岸田だった。
昨夜の酒盛りの跡が残るテーブルが岸田の死を静観していた。開いた窓から吹き込んだ風がカーテンを揺らす。どうやらここでも時間は正しく歩んでいるようだった。昨夜の酒のせいか、絞めつけるような頭痛がやってくる。ぼんやりとした感覚がまるで夢の中にいるように思わせる。
岸田が死んでいる。服を着た腹が赤黒くなっていて、血溜まりができている。その血溜まりは荒々しく踏みつけられて、包丁のところまで続いている。ハッと気づいて足の裏を見た。血で汚れていた。
俺がやったとでもいうのか……?
眩暈がした。岸田の書いたあの『繰り返し見る夢のような』でも、主人公が死体を前にして自分がやったのでは、と自問するシーンがある。これが小説の中の出来事なのか、現実の出来事なのか分からなくなってくる。
「岸田……」
そう声を掛けた。無駄だと分かっていたのに。そして、本当に無駄だったのに。脳裏に、目覚めたばかりの俺の目に飛び込んできた血にまみれた両手の映像が浮かび上がる。どうして俺の体中に岸田の血がついていたのだろうか。昨夜、岸田たちと飲んでいた記憶は残っている。だが、それ以降からさっき目覚めるまで、俺には何の記憶もない。昨夜のことを思い出そうとしても、咄嗟のことで何も思い出すものがない。
俺がやったとでもいうのか……?
そんなはずがない。なぜ俺が岸田を……。
横たわっている岸田のそばに歩み寄る。膝が笑っていた。顔を洗ったばかりなのに、額に脂汗が浮いてくるのを感じる。岸田の身体に触ろうとして、思い留まった。この状況では、警察は俺が犯人だと言うに違いない。だとすれば、ここで岸田の身体に触って痕跡を残すのは得策ではないはずだ。
俺は岸田に金を借りている。なかなか返せていないのも事実だ。そのことで、言い争いになったこともある。そういう口論を友人たちは見てきた。だから、彼らもこの状況を見たら、俺が岸田を殺したと考えるに違いない。それだけは嫌だった。
俺は岸田を殺していないのだから。
岸田のそばで膝をついていたが、立ち上がって後ずさった。目が覚めてしばらくしたおかげで、少し頭が落ち着いてきた。
すぐに警察を呼ぶべきかもしれない。だが、何も知らないまま警察を呼んで、犯人扱いされたまま連れて行かれるのは恐ろしい。せめて何が起こったのか知りたかった。
岸田は胸から腹を何度も刺されているようだった。着ているTシャツに包丁の刺さった穴がいくつも開いて、血で染まっている。岸田の血溜まりから、引きずったような血の跡が包丁のところまで伸びている。岸田の命を奪ったのはあの包丁だ。転がっている包丁に近づいて、それが俺の物だと確認した。リビングから繋がるキッチンに向かって、シンクの下の扉を開く。その内側に包丁を差し込んでおくところがある。いつもなら、そこに包丁をしまっているのだが、今はない。岸田を刺すためにここから持ち出されたのだ。
包丁のところに戻ると、床についた血の跡が廊下に続いているのが分かった。さっきは気づいていなかっただけなのだ。血の跡をたどって、廊下へ。廊下から寝室まで、掠れながらも血の道が続いている。
岸田の血を踏んだ人間は寝室に入って行った。寝室の床は全面がカーペットになっている。部屋の入口が少し血で汚れていたが、あとは目で汚れを確認することができなかった。
岸田を刺して、その血を踏んで、寝室に向かった人物がいる。俺は全身が血で汚れていた。
本当に俺が岸田を殺したとでもいうのだろうか?
昨夜、何が起こったのだろうか。一緒にいた連中なら何か知っているかもしれない。しかし、昨夜ここにいた奴らが今は誰もいないということは、何事もなかったのかもしれない。その反対に、あいつらが俺に罪を被せようとして……いや、そんな馬鹿げたことをうだうだ考えていても仕方がない。
岸田の遺体から離れて、俺の心は平静を取り戻そうとしていた。目覚めてから直面した事実を忘れようとしているだけなのかもしれないが。とにかく、このままここでこうしているわけにはいかない。死体を発見しておきながら、警察に連絡していない時間が長ければ長いほど、疑われる余地が広がってしまう。
俺は急いで携帯を探したが、ベッドのまわりからは見つからなかった。思わず舌打ちをした。寝室の中を探しても、どこにもないのだ。確か、このマンションのエントランスに公衆電話が一台設置してあったはずだが、部屋を出るのが恐ろしかった。
リビングにあるかもしれないと思い、再びリビングに向かった。岸田の死体は相変わらずそこにある。これは現実なのだ。さっと見回すが、携帯は見つからない。死体のそばを探す気にはなれなかった。
忘れかけていた血の匂いが、鼻腔を突いた。思わず吐き気が込み上げてきて、キッチンに駆け込んだ。シンクに顔を突っ込むと、酸っぱいものが胸の奥から競り上がってきて、食道から喉が絞り上げるようにそいつをひり出した。水を出して口の中を洗う。涙で前が見えない。
なぜこんなことになったんだ。
フラフラになりながら寝室に戻って、机の上の財布を手に取った。怖がっていられなかった。俺はエントランスに降りる覚悟を決めて、玄関へ向かった。踵を踏んで靴を履いて、サムターンを捻り、ドアを開け放った。
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