第14話 さようなら、私の恋

「ルシーダ・サルバトス。俺はおまえとの婚約を破棄する!」


 


 ルシーダはいきなり投げつけられた婚約者の言葉に愕然とした。

「そ……!」 

 そんなバカな!

 たったそれだけの言葉が、舌がもつれて出てこない。一瞬棒立ちになったルシーダは、我に返ると愛する男に縋り付こうとした。

「ニコラ様! なぜ、なぜそんなことをおっしゃるのですか!」

 何かの間違いだと言って欲しい許嫁に爽やかな貴公子は侮蔑の色を隠さず、彼はルシーダを突き放した。

「おまえは用済みだからだ、ルシーダ。数日中には発表されるが、俺はアリアドネ侯爵家の三女メリダ嬢を妻に迎えることが決まった」

「なっ!?」

 婚約者がすでにいる身で、さらに婚約を結んだという。サラリと言われた内容の非常識さに、ルシーダは驚きで二の句が継げない。

「我が伯爵家が縁を結ぶなら、格下のサルバトス子爵家よりアリアドネ侯爵家の方が良縁であることは説明するまでもあるまい」

 それは説明されなくても判る。諸侯の伯爵家と領主の子爵家の間には身分の壁があり、また伯爵家と王臣最高位の侯爵家の立場の差もまた大きい。しかもアリアドネ侯爵家は宮廷の政界でも有力な派閥を持っている。一方のルシーダの家は新興貴族で、商売こそ成功しているが権威は何もない。両方縁談が並べば、どちらを選ぶかは明らかだ。

 しかし。


「しかしニコラ様! あなたと私は婚約をしてもう六年になるのですよ!?」

 婚約はあくまで約束でしかないが、五年以上続いていれば普通はほぼ結婚しているものと扱われる。そこへ割り込むことは非常識だし、よほどのことが無ければこれだけの婚約を解消など、お互いの家に醜聞でしかない。

 政界の重鎮であるアリアドネ侯爵が、そんな話を進めるとも思えないが……。

 ルシーダの疑問に対し、ニコラは嘲笑を浮かべて何でもないことのように言い放った。

「ああ、侯爵にはこちらから是非にと申し入れて居たのだ。難があるので婚約を解消したいと申し入れられている、とな」

「はっ!? わ、私に難があるというのですか!?」

「そうだ。結婚の直前にそういう話になって妻を迎えられず困っている、お嬢様を是非私めに……そう願い出て侯爵閣下からも快諾を得た」

「そんなバカな……それでは、私の立場はどうなるのですか!」

 子爵家の方からルシーダの欠格を理由に破談を申し入れられたのなら、確かに侯爵家も縁談は進められる。

 美男子で知られるニコラは若手貴族の中でも群を抜いて女性から人気があるし、アリアドネ家のメリダ様も熱い視線を注いでいた。話はトントン拍子にまとまるだろう。

 ただし。問題がある上に自分から解消を申し入れたとなれば、ルシーダはもう他の殿方を探すこともできない。通常は本当にそういう理由であっても、両家の話し合いで巧く別の理由を付けて発表するのがあるべき手順なのに……。

 それに、子爵家と伯爵家の縁談にはもう一つ、破棄できない理由があった。

「ニコラ様。伯爵家の立て直しのため、父がどれだけ資金を注ぎ込んだかご存知でしょう!? それもこれも、あなたと私の婚約があってこそ!」

 ニコラのトロワグロ伯爵家は累代の経営失敗により傾いていた。その財政を健全化し、安定した収入基盤を得られるように基礎を固めたのは商売に長けたルシーダの父である。その過程で、まるで運転資金のない伯爵家に薄利で多額の投資も行っている。そんなを子爵がしたのも娘の結婚の為。

 ニコラはいきなり婚約を破棄したことも、責任をすべて恩義ある子爵家にかぶせたことも全く悪いと思っていないようだった。

 むしろ当然と言う顔で、聞き分けのない“元”婚約者を一瞥する。

「この俺と六年も婚約できたのだぞ? この栄誉を考えればおまえはむしろ今まで婚約者ヅラをできた事が光栄であろう」

 もはや言い募る言葉もないルシーダに、ニコラは部屋の扉に向って冷然と顎をしゃくって見せた。

「そもそも俺は今日、この別邸をメリダ嬢好みに改装するプランを立てる為にわざわざ郊外まで来たのだ。おまえに割いている時間は無い。用事は済んだのだからさっさと帰れ!」


 ルシーダは目の前が真っ暗になり、その場に膝をついていた。


    


 かつて、ニコラはルシーダにこの上なく優しかった。

 ルシーダの手作りのお菓子も料理も、誰が作った物より美味しいと笑顔で食べてくれた。

 ……あの素晴らしい日々が、誠実なニコラの姿が、全てサルバトス子爵家から援助をむしり取るための偽りだっただなんて……。

 

 ルシーダは手に持ったままの包みを見た。

 最近忙しいと会ってくれなかったニコラが、久しぶりに会いたいと言ってきたから……彼が好きだと言ってくれたクッキーを焼いて来たのだ。

 これももう、何の意味もない……いや、騙されていた日々の象徴そのものだ。

「……こんな物!」

 見ているだけで悲しくなったルシーダは、クッキーの包みを勢いよく投げ捨てた。

 投げた包みは空中で解け、中身が飛び散りながら宙を飛ぶ。そしてすでにルシーダの存在を忘れて内装の変更について考えていたニコラにバラバラとぶつかった。

「うわっ、痛っ!? ルシーダ、おまえ何をする! ああっ、一張羅に屑が付いたじゃないか!?」

 不意を打たれて激怒するニコラはルシーダを睨んで喚き散らし、染みが出来ていないか確認する為に上着を慌てて脱ぎ始めた。




 大したことでもないのに大仰に騒いで、かつて喜んで食べてくれたクッキーを踏みにじるニコラ。

 その姿にルシーダへの愛情は全くない。

 この現実を、目の前で見せつけられることにルシーダは心が引き千切れるほどに悔しく、悲しい。

 一刻も早くここを出たい。

 二人の愛の巣だった別邸で、変わり果てたニコラを見せられることにもう一瞬でも耐えられない。


 踵を返そうとしたルシーダはこの時になって、連れて来た侍女がすぐ後ろで立ちすくんでいるのに気がついた。

 そうだった。

 頭が真っ白になって忘れていたけど、久しぶりに会うからニコラが一番好きだと言ってくれたビーフシチューを作って持って来たのだった。


 都で一番のレストランのシェフを拝み倒して習った秘伝のレシピで、昨日の晩からぐつぐつ煮込んだルシーダの手作りのシチュー。会心の出来だったのに、披露する事も出来なかった。

 侍女が抱えている包みを見るだけで、昨晩から無駄な努力に胸を弾ませていた自分のバカさ加減が惨めになってくる。

「こんな物!」

 見ているだけで泣きたくなったルシーダは、侍女から包みをひったくると力の限り遠くへ投げ捨てた。

 精一杯の力で投げたつもりだったけど、保温の為に厚い鉄の鍋に入っていたビーフシチューはそう遠くへは飛ばなかった。空中で覆いがはずれ、蓋も開いた鍋は中身をニコラにぶちまけながら後頭部へぶち当たる。

「うぎゃああああ! ぐおっ!?」

 不意を打たれたニコラがたっぷりアツアツのシチューをかぶり、熱さに悲鳴を上げて飛びあがりかけた。そこへ鋳物の鍋が飛来して後頭部に当たり、痛みに絶叫してうずくまる。




 もう文句さえも言わずに一人の世界にこもるニコラ。彼女を一瞥する興味さえ彼には存在しないのだと思い知らされて、ルシーダは泣きたくなった。


 ふと見れば、暖炉の上にかつてルシーダがニコラにプレゼントしたガラスの大きな花瓶が飾られている。

 ニコラが前衛的な曲線美に惹かれると言っていたので、アール・ヌーボーの旗手と言われるガラス工芸家にルシーダが弟子入りして焼き上げた自信作だ。

 花を生けずにただ飾られている花瓶の姿が、中身のない愛情を象徴しているようでルシーダは見ていられなくなった。

「ア……アアアアアアアアア! こんな物ぉ!」

 ルシーダは渾身の自作を振りかぶり、ちょうど手近にあったニコラの頭に振り下ろした。

「ひぎゃあああ!」

 ガラスだから叩きつければ割れるかと思ったが、厚みがあるせいか意外と頑丈だ。五、六回ニコラにぶつけたらやっと粉々になって飛び散った。よく考えたら暖炉の方にぶつければ一発だったかもしれない。




 血まみれで床に寝そべり、惰眠をむさぼるニコラ。ピクリとも動かず無作法な真似をするその姿には、ルシーダの存在なんか毛ほども気にしないニコラの無関心が見て取れた。

 婚約を破棄した途端、羽虫一匹ほどの興味さえ失せたと体現する彼の姿に、本気で心から愛していたルシーダはもう涙を抑えきれない。


 ハンカチで目頭を押さえながら部屋を飛び出る。慌てて付いて来る侍女を従え何度も通った別邸の廊下を走っていると、彼との蜜月の思い出が幾つも脳裏を横切って胸の内がどんどん沈んで来る。

 ニコラの好みを聞きながら、伝説の匠に師事したルシーダが設計して自らトンカチを振るって建てた別邸。この思い出の場所で、彼が別の女と睦み合うなんて耐えられない。

 ルシーダは外へ走り出ると車寄せの壁にあるハッチを開け、鉤爪かぎづめのついたロープを引っ張り出した。それを自分の馬車のフレームに引っ掛ける。

「おうちに帰るわ! 出して! 全速よ!」

 待っていた御者と従者に声をかけ、侍女と一緒に馬車に飛び乗る。勢いよく走りだした馬車が引きずるロープがピンと張った途端、別邸の中から木材が引きちぎられるような音が大きく響いた。

 この別邸は建てる時にニコラが「からくり屋敷とか面白いよね! いざという時の為に自爆装置とか付けちゃったりして!」とか言っていたので、彼の意向を精一杯組み込んでみたのだ。

 爆薬が経年劣化に弱いので自爆装置はつけられなかったけど、骨組みを利用した自壊装置はつけてみた。ルシーダが引っ張り出したロープを勢い良く引くと、初めから切れ目が入れてあった芯柱をロープが引きちぎるようになっているのだ。そこがバラバラになると繋ぎ合っている各所の柱が次々に引き倒されて建物の自重で全体が倒壊するようにできている。

 彼がやってみたいと言っていたのに、振られた自分が一人で動かしてみるなんて……独り身になった事を否応もなく自覚させられて、ルシーダはますます泣けてきた。




 馬車が走っているうちに、ルシーダも少し落ち着いて来た。

 もうニコラが考え直すことは無いだろう。ルシーダ自身、あそこまで言われてニコラとよりを戻すなんてありえないと思う。

 つらいけど、やっぱり二人の関係は全てご破算にして新しい道を行かなければ……。

 

 ルシーダは対面に座る従者に声をかけた。

「ねえパブロ」

「はい、お嬢様」

「屋敷に帰ったら、お父様に伝えてちょうだい。お父様が押さえていたトロワグロ家の醜聞を、今夜のうちに関係各所へ投げ文でバラ撒いちゃって下さいって」

「よろしいのですか?」

「ええ。今日ニコラ様から絶縁を突きつけられたの。大貴族のお嬢様に乗り換えるから、もう子爵家はいらないと。いつまでも引きずるのは私も良くないと思うし、だから伯爵家から一切を引き上げて終わりにするわ」

 父が貸し付けた多額の投資は、まあ一切合切を売り払えばなんとか回収できるだろう。


 


 ルシーダは振り返り、馬車が後にした伯爵家別邸の方を眺めた。今日の急転直下の出来事を表すかのように、快晴の青空に何故か入道雲のような土煙が上がりつつある。


 さようなら、ニコラ様。


 さようなら、楽しかった日々。


「さようなら……私の恋」


 そう呟くと、もう見えなくなった夢の跡をルシーダはいつまでも眺め続けていた。

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