第05話 婚約を破棄したら、皆さん修羅の国の人でした。
パーティの中、第三王子ルークは自らの婚約者に婚約の破棄を宣言する。
話はそれで済むはずだったが……許嫁からの思わぬ反撃を受け、それが大きな騒ぎにつながってしまう。
◆
もはやここはパーティ会場ではなくて戦場だった。
頭を抱えてガタガタ震えるルークの顔のすぐ目の前を、誰かが投げた皿が中身をまき散らしながら飛んでいく。罵声と騒音が飛び交い、運悪く被害にあった出席者の悲鳴が上がる。
(怖い、逃げなきゃ……逃げなきゃ!)
剣が舞い、花瓶が投げつけられる。いつもはすまして上品に振舞っている知人たちが、凶器を片手に歯を剥きだして吠える有り様は現実のものと思えなかった。
(ああ、このままじゃ死んでしまう……)
ルークは今さらながら、数年前に母である王妃に言われた言葉を思い出した。
『いいですか、女性には常に誠実でなければいけませんよ? 黙って男を立てる貞淑な姿は仮初めなのです。あなたが不実な真似をすれば、必ず報いを要求するでしょう』
そんな事はわかっているつもりだった。だけど、こんな事になるなんて……。
◆
ほんの数十分前。
王国の第三王子ルーク・ド・ロワイヤルは取り巻きと談笑する許嫁を見つけ、彼女に婚約破棄を突き付けた。
「メリッサ、君が裏で糸を引きアンナ・メイフラワー男爵令嬢に数々の嫌がらせをした件、すでに明白である! 彼女は何も言わないが、際限なく続く悪質な虐めを王子たる私が見過すわけには行かぬ! 私は君、メリッサ・メイヤーズ公爵令嬢の罪を糾弾し、ここに婚約破棄を宣言する!」
息をのむ少女たちに、ルークは王子の威厳をもって断罪を突き付けた。ルークの側近たちもメリッサの非道をなじり、家柄を鼻にかけ専横を極めていた高慢な許嫁は逃げ場もなくなり崩れ落ちる……筈だった。
友人たちが口々にメリッサを非難する騒ぎの中で、ルークが一種の達成感に浸っていたその時。
ドグシッ!
何か身の詰まったものを殴ったような湿った殴打音がして、一番声の大きかった騎士団長令息が急に言葉に詰まった。
「ミヒャエル?」
嫌な予感がして視線を下げると、メリッサの夜会靴の尖ったつま先が……騎士団長令息の股間に思いっきり食い込んでいた。
「……はっ?」
皆が呆然とした数瞬が過ぎ去り……
「な、なんてことぅをげっ!」
続いて、我に返って凶行を非難しようとした主席判事令息の顔面に、メリッサの取り巻きの伯爵令嬢が羽根扇子を叩きつける。大した重さが無いように見える凶器だったが、ぶつかった音はまるで金属の塊のようだった。鼻を折った友人は鼻血を噴き出しながら倒れる。
「な? え?」
ルークが呆然としている間に……数で相手の倍はいた彼の友人たちは、頭数でも体格でもかなわない筈の三、四人の令嬢たちに叩きつぶされ、呻いて床に転がっていた。
「え? どういうこと?」
まだ現状が把握できないルークの首をメリッサの副官格の侯爵令嬢が掴み、腕力でゆっくり押しつぶして無理やり土下座させる。
目の前にメリッサが立った。
「おいこらボンクラ王子、テメエ下手に出でてりゃ付け上がりやがって。そもそもテメエがよその雌犬に色目使うからこじれたんだろうが、ああん?」
「は? なんだメリッサその言葉遣いは……」
現実感のない光景にルークが違和感を口に出そうとした途端、彼の頭を伯爵令嬢が踏みつける。
「
踏みつけられてルークの顔面が強制的に絨毯に押し付けられる。後頭部がふっと軽くなると同時に髪を鷲掴みにされ、顔だけ強制的に上を向けさせられた。
「クソみてえな許婚者でも、こっちゃ仁義を守ってテメエにデカいツラをさせてやっとったんじゃろうが。それをテメエはふらふら浮気を繰り返した挙句、そっちから婚約破棄とは笑わせてくれる」
メリッサが吐き捨てれば、周りを囲む令嬢? 達も見下げ果てた顔で口々にルークを責め立てた。
「そうじゃ、そうじゃ! 腰が据わらんのを土下座して謝って別れてくれってんならともかく、被害者ヅラしてこっちが悪いとは恐れ入る厚顔無恥じゃの!」
「こんだけ恥知らずな真似をして、オメエどのツラ下げて生きとるんじゃろうの? 一遍ドタマかち割って脳みそ調べてみるか? ああん」
ルークは周りを囲むメリッサと取り巻きたちの迫力に体の芯から震えが止まらない。
怖い。
もの凄く怖い。
戦場へ見習いとして派遣されたこともあるルークだが、あんな緊張感とは比べ物にならない。敢えて言ったら倒れているところに肉食獣の群れが寄ってきて、臭いを嗅ぎまくられているような恐ろしさがある。
散々なじられべそをかきはじめた所で、メリッサが仁王立ちになってルークを見下ろした。
「こっちもテメエみたいな与太郎にいつまでも関わってるほど暇じゃねえや。テメエがけじめ付けるってんなら、ここで手じまいにしてやる」
「えっ?」
メリッサが横の伯爵令嬢に顎をしゃくった。
「おい」
「はっ」
ルークの目の前に、果物ナイフが投げられた。
「これ……は?」
侯爵令嬢が押さえていたルークを離す。
「誠意を見せろや」
「……と、言いますと?」
思わず丁寧に問い返すルーク。なぜだろうか、言ってる意味が判らないのに嫌な予感しかしない。
メリッサが平然と答えた。
「
「!」
まだ理解が追いつかない。でも、周りの令嬢たちが至極真面目に言っているのは判った。
「あの……自分で?」
「当たり前じゃろうが。誠意を見せんのはテメエだろ」
「あ……はい」
周りを見回しても、彼の取り巻きたちは未だ再起不能で転がっている。誰も助けられる人がいない。でも、自分でそんな事もとてもできない。
思わず握ったナイフが冷たくて、震えて直視ができなかった。
(え? ホントにやるの? 俺が?)
周りの圧力も手元のナイフも怖くて泣きそうになった時……凛とした声がかかった。
「お待ちなせえ!」
ハッと顔を向けた先に……泣きたくなるほど嬉しい姿があった。ルークがメリッサとの婚約を破棄してでも真実の愛を添い遂げたいと思った男爵令嬢、アンナ・メイフラワーだ。
(ああ、アンナ……危険をおして俺を助けに来てくれたのか……!)
感動でさっきの変な言葉遣いにも気が付かないルークの目の前で。
近づいてきたアンナは足を開いてグッと腰を落とし、ガニ股になって右手を前に突き出し手のひらを見せた。
「お控えなすって!」
「え?」
全く何が何だかわからないルークの後ろで、彼をしばいていた令嬢たちが一斉に同じく腰を落とし、膝に手をついて条件反射で受けの姿勢を取る。
「へ?」
メリッサたちの姿に頷きアンナが口を開く。
「さっそくのお控えありがとうござんす。あっし生国と申しまするは西サイル州はポーハタン、ご当地領主のメイフラワー家で生を受けましたアンナと申しやす木っ端者にござんす。地縁血縁つながりまして、はばかりながらカリスト公爵家の枝につながる栄を受け、僭越にも王都の地を踏み学園に通わせていただいておりやす。この場に臨むに右も左もわからぬ田舎者ではございやすが、恩人の苦諦に推参ながら駆けつけやした次第、どうか汲んで下さいやし」
長口上を立て板に水で朗々と言い切ったアンナに対し、同じく右手を突き出したメリッサが応対する。
「結構な仁義、恐縮でござんす。しかしてこちら、任侠にもとる不心得者に無駄と知りながら説法唱えている所でございやす。このまま召し放っては王都の八里四方に畜生外道の振る舞いが解き放たれる次第、天下万民が為にけじめはつけさせるつもりでござんす。この場は引いておくんなせえ」
動揺しているルークには言っていることが全部は理解できないけれど、どうもアンナが自分の顔に免じて許してくれと言うのに対してメリッサが拒否したようだ。
しかしアンナは下がらず、ゆっくりとふところの懐剣に手をかける。
「お申し出の筋、まっことおっしゃる通りなれども、あっしも学園であれこれ受けた恩がござんす」
アンナが懐剣を抜き放った。
「義理と人情秤にかけりゃ、義理が重たいこの世界。事の起こりが王子の身の錆にしても、一宿一飯の恩義この身で返させていただきやす」
宣言に対してメリッサ一派も懐に手をやり、一触即発の空気になる。他の令嬢を気にせず、アンナはメリッサ狙いで懐剣を構えた。命を捨てて相打ち狙いの構えだ。
「あっし、不器用な女ですから」
「ちょ、ちょっと待って!? 君たち危ないよ!? 死んじゃうよ!?」
慌てて止めようとするルークだが、睨み合う令嬢たちは一人も聞いてくれない。パーティ会場の煌めく灯りの下、なんでこんなことになっているのか? 原因がルークの婚約破棄だとしても、いくら何でもこれは想定外すぎる。
ルークの側近は未だにまとめて粗大ごみと化している。ルークもさすがに刃物を向け合っている間に割り込む勇気はない。そんなことをしたらむしろ嬉々として刺される。
そんな万策尽きてオタついているルークの後ろから、新しい声がかかった。
「まったく、何事ですか」
バッと振り返れば新しいご令嬢たち。その中心人物を見てルークに生気が戻った。
「エルリア嬢!」
エルリア・カリスト公爵令嬢。メリッサのメイヤーズ公爵家と並ぶ王国貴族の双璧カリスト公爵家の長女にして、社交界の令嬢の二大派閥、メリッサ派に対抗するエルリア派のトップ。
アンナのメイフラワー男爵家も政界の派閥で言えばカリスト一門に属する。そして貴族の序列で言えば、エルリアの隣に控える伯爵令嬢の家はアンナの家の寄り親だ。
この二人が揃っているということはアンナの援軍に違いない。お互いの人数が拮抗すれば、少しは冷静になって抜いた懐剣を引いてくれるだろう。
ルークはホッとしたら力が抜けた。膝から崩れたルークの目の前で……戦闘が勃発した。
メリッサたちとアンナの間に割り込んだエルリアは、メリッサに相対してメンチを切った。
「おう、メイヤーズの。テメエあたしに筋も通さずうちの孫分に
「どういう了見たあ、訊きたいのはこっちの方だカリストの。テメエこそ
「はあ? テメエの貫目が軽いからそういう事になるんじゃろうが」
「おう、よう言うたの行かず後家。逃げた許婚者の後釜決まったんか?」
「そういうテメエこそ今日はどうもご愁傷様じゃの。まあ逃げられんでも、頭でっかちで脳みその代わりにおがくず詰まっとるカカシ王子じゃお先が知れとるがな」
「そんなんに粉かけられて喜んどるテメエの使いっ走りが哀れでたまらんわ。
ルークが止める暇もなく舌戦はあっと言う間に燃え上がり、しばし無言の睨み合いとなり……、
「まとめてやっちまえ!」
「どてっ腹に
メリッサとエルリアが同時に叫んだ瞬間……会場の空気が振動し、爆発したようにあちこちで令嬢が飛び出した。
懐剣を持ち込んでいる者たちは抜き放って打込み合う。
男爵令嬢が机上のカトラリーを束で鷲掴みにし、敵に向かって鋭く投擲する。
伯爵令嬢がローストビーフに備えてあったブッチャーナイフで切りかかる。
子爵令嬢が飛び道具を羽根扇子を振って叩き落し、侯爵令嬢がスツールを振りかざす。
ルークの婚約破棄で場が壊れていたとはいえ、それでも凍り付いて停まっていた会場の空気が今では令嬢たちの戦いで火が付いたように燃え上がっていた。
大広間のいたる所で火花が散っている。剣戟の刃を合わせる金属音があちこちで響き、会場の使用人や男たちが逃げまどう。
腰を抜かしながらも玉座下の階段に這い寄ったルークはさらにヤバい物を目撃した。
令嬢たちの中でも剣術の心得がある者たちが、警備の近衛騎士を蹴倒して腰のサーベルを奪って切り結んでいるのだ。良く見れば壁飾りの槍をはずして仲間に投げ渡している者もいる。懐剣や食器だって危ないが、実戦兵器は殺傷力が違う。
「ええい、関係ねえ奴は外へ退け! 野郎子供が鉄火場に立ち入るんじゃねえ!」
メリッサがどっかの貴族のおっさんを蹴飛ばしながらそう叫ぶと、あちこちで机の下に隠れていた男性陣が泣きながら出入口へ殺到する。その混乱の隙を突き、メリッサめがけてアンナが懐剣を腰だめに構えて飛び出した。
「往生せいやぁぁぁああ!」
「
アンナの必殺の吶喊を、メリッサが近くのテーブルを蹴倒して盾にし防ぐ。テーブルはひび入って割れたが、机に止められたアンナをメリッサが花瓶で殴り倒す。転がって衝撃を減らしたアンナはふらつきながらも椅子を拾って構え、メリッサに対峙した。
(こんな時に、さっそうと駆けつけてかばえたら……)
ルークはどこか他人事にそんなことを考えて、がっくりと肩を落とした。
とても、あんなところへ間に入れそうにない。
そもそも怖じ気づいて立てもしないのに。
二人の事もそうだが、会場全体で繰り広げられている乱闘騒ぎを本来自分が止めなくてはならない。
今すでにどれだけの負傷者が出ているか判らない。もしかしたら死者も。この騒乱を収拾するのは主催者側の王族たる自分が先頭きらないといけないのに、実際問題自分は腰が抜けていて役に立たない。
そもそも、わずか五人で睨み合っている現場で相手にされなかったルークが、この百人規模の乱闘に声をかけて何ができるだろうか。
「でも、でもなんとか止めないと……」
気ばかり急いて何もできないルークが無力を噛みしめていると、不意に影が差した。
「?」
すぐ横に立った人影に気がついてルークが見上げると、
「まったく……あなたには前に言った筈ですよ? 女性に不実な真似をすれば報いが来ると」
心底あきれたという顔で、
九死に一生を得た思いのルークを相手にせず、王妃は階段を昇って玉座の前に立った。どうするのかとルークが見つめていると、会場をぐるりと見まわした王妃はもう一つため息をついて、
「やめんかい、馬鹿どもが!」
ドスの効いた低い声が、立ち回りの激しい騒音を圧して大広間全体に響き渡った。
大音声に振り返った令嬢たちは、玉座の前に仁王立つ王妃に気が付いた。
「あっ! 大親分!」
「本家の姐さん!」
その姿に顔色を変えて
一斉にかしこまった令嬢たちを睨みつけ、王妃はどこから出るのかと思うような響く声で怒鳴り付けた。
「おう、血気盛んなのは結構だが身内の喧嘩で血が流れるのは宜しく無え。ましてや隣の帝国と
「申し訳ございやせん!」
メリッサとエルリアが代表して謝罪する。二人の声に合わせて並みいる令嬢たちが一斉に頭を下げた。
王妃はしばらく首を垂れる少女たちを睨みつけていたが、少し落とした声で閉会を宣言した。
「おう、納得したならこれで手打ちとする。誓って舞台を仕舞ったからには、テメエのメンツにかけて後に残しちゃならねえぜ。渡世の仁義は己の命にかけて果たすもの、ゆめゆめ忘れてくれるなよ」
「へいっ!」
王妃の結びに、令嬢たちが見事に重なる返事を返した。
◆
あの日のパーティをつぶした闘争は記録に残ることは無かった。ただ第三王子ルークとメイヤーズ公爵令嬢メリッサの間の婚約がこの頃破棄され、原因がルーク王子にあるとして王子が修道院に送られた事だけが記されている。
「しかし、お前だけが処分されるなんて」
ミヒャエルの悔しそうな声に、馬車に乗り込みかけていたルークが振り返った。
「ありがとうミヒャエル。だけど乱闘騒ぎを無かったことにした以上、何かの事件というと俺の婚約破棄だけだし……正直あの騒ぎを引き起こしたのが俺の不用意な婚約破棄だったのを考えると、母上の処置も妥当だと思うんだ。俺があの騒ぎを収められればまた話は別だったかもしれないが、王族として指導力不足を露呈してしまったからな」
「ルーク……」
「それにさ」
ルークの表情には、寂しさの中にも晴れ晴れした何かが含まれている。
「あの騒ぎを経験して思ったんだ、俺は」
爽やかな笑みで、ルークは秋晴れの空を振り仰いだ。
「……女、怖い……二度と関わりたくない……」
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