第19話 強敵
ヒロキは即座に立ち上がり、その場から移動しようとした。
しかしその動きは後ろから襟をつかんだ存在によって阻まれる。
襟が首に食い込み、苦しい。片手を後ろにやり、つかんでいる男の手をはがそうと試みたが手はビクともせず、はがすことができない。
「ヒロキ、俺と一緒に帰るんだ。抵抗することは許されないぞ」
「だ、だれ、がっ!」
苦しさに歯を食いしばりながら、ヒロキはなんとか身体をひねり、後ろ蹴りを放った。上段を狙ったから背の小さい自分でも、当たれば男の顔面ぐらいは狙える。相手は関係の深い男だがそんなことに躊躇している場合ではない。
この男は本気以上に立ち向かわなければ勝ち目はないのだ。
しかし、そんなヒロキの健闘もむなしく、その蹴りは見事にガードされた。
男はつかんでいた襟を離したが、今度は片手で細い棒でもつかんでいるかのように、ヒロキの足をつかまえていた。
これでは身動きができない。足を引っ張ってみたが男は足を解放しようとしない。片足で立っているから倒れないようにバランスを保つのが精一杯だ、情けない姿だ、くそっ。
「お前が俺に勝てると思っているのか。それとも動けないように骨の一本でも折っておいた方がいいのか」
「ふ、ふざけんな! 誰が、誰が帰るかよ。離せよ、タカヒロ!」
名前を叫ぶと相手は一瞬のお情けで身動きを封じていた手を離す。離された反動でヒロキは草むらにひっくり返ってしまったが、すぐに受け身を取って立ち上がり、タカヒロに向き直った。
そこにいたのは久しぶりに見る黒髪にメガネ、黒いスーツを着こなした堅物そうな男だ。見た目通り冗談なんて通じやしない。いつも父のご機嫌を取って職務を遂行している、自分よりもはるかに強く、完璧な兄だ。
タカヒロは自分を見下ろして言った。
「お前を探すのは少々骨が折れた。だが広いようで狭いこの世の中だ。逃げられるとは思っていなかっただろう」
「逃げているつもりなんかないっ。僕は、僕自身で進み出しただけだ!」
ヒロキは右足を地面から少し上げた姿勢を取り、いつでもテコンドー技を出せるように身構えた。
「ヒロキ、いい年してわがままを言うな。お前は父が準備した空間で悠々と快適に暮らしていたはずだ。そんなぬるま湯に浸かっていたお前が自分自身だけで歩き出せるわけがないだろう。それにそんなことを父が許さないことはわかっているだろう」
「だからタカヒロが来たんだろう、わかってる、そんなの……お前は言う通りにするしか、それしかできないもんなぁ!」
先手必勝を決めてみせる、と。ヒロキは素早く蹴りを放った。
だが自分のテコンドー技など、このタカヒロに通用するものではないことはわかっている。空手や柔道、合気道を極めているこの男は同じ立場の人間の中でも随一の強さを誇っている。彼に敵う人間は今のところいないのだ。
だがこのまま何もせずに連れ戻されるわけにはいかない。父の元には戻らないと決めたんだ。
タカヒロは自分のテコンドー技を埃でも払うようにやんわりと受け流した。
そして片手を前に出し、もう片方の手は自身の胸のあたりに置き、左足を前に出して空手の構えをした。もちろんタカヒロはバリバリの有段者だ――つかまれたら最後、技を決められ、意識を失うっ……。
「くっそ!」
やぶれかぶれだ。ヒロキは覚悟を決め、動こうとした。
だが自分よりも先に動いていたのはタカヒロだった。素早く動いたタカヒロの手が自分を捕らえようと手を伸ばされる。背も高いから腕のリーチも長い。体格からして圧倒的な不利。
「ヒロキくんっ!」
もうダメか、と思った時。タカヒロの伸ばされた手は、突如目の前に現れた別の人物を捕らえようとしていた。
あまりにとっさのことでヒロキは声も出せない。目だけが目の前の人物のことを認識していて、なんでこの人はこんな時だけ動きが俊敏なのだ、と愕然とする。
来てはいけないのに。あなたが僕の警護対象なのに。早く避けて、逃げて、ダメだっ!
「店長、ダメだ! そいつは現役SPだ!」
警護対象を守るためなら容赦のない防衛、攻撃を加える完全なるボディーガード。彼らは公認で銃などの武器を使うことも許される存在。
父がなぜ自分たちをSPにしようとするのか。自分はその通りにはいかなかったけれど、それは父の手のひらで自由に転がせるからだ。政治家や上級国民の偉い人が世の中を動くとなれば指示しない輩に狙われることもある。
そんな時に必要なのが身を守るボディガードだ。
信頼できるボディガードを選出し、無事に務めを果たすことができれば「お前の用意したボディーガードは優秀だ」と、お偉方からの信用を得ることができる。そうすれば己の株も上がる、それだけのためなのだ。
自分たちは父の権力や私欲のために、父の用意した人生を歩いてきた。
だが自分はそれが嫌になった。
自分は前の仕事で警護対象となった人を守ることができなかった。その人物は世の中になかなか名前が知れ渡った有名人だ。
けれど不審者に襲われた彼が表舞台から退いたという情報は表沙汰にはならなかった。なぜかと言うと父の手腕だ、父が裏工作をしたのだ。
でなければ自分が世間に叩かれていたに違いない……!
それがきっかけだった。そんな汚い真似をしてまで自分の身を守りたいとは思わなかった。そんなので守られた方が愚かで汚いと思った。
ダメなことをしたら罰を受けるものだ。その方が人として当たり前な気がする。
自分は当たり前でありたい。
立派なことをしたいわけじゃないけれど自分で方向を選んで失敗して傷ついて、また立ち直って本気で笑えるような自分でありたい。
そして自分が選んだのは目の前の人物だった。
だがその大事な人はタカヒロから小手返しをくらい、草むらの中に叩きつけられた。手を後ろ手に回されて背中を踏みつけられていた。
苦しそうな表情を浮かべているが叫んだりはしていない、歯を食いしばっている。
「やめろっ、その人を離せぇっ!」
かなわないとわかっていても何もしないなんてできない。何も考えずにヒロキは身体が動くままに蹴りを放った。
タカヒロは素早く腕を動かし、手刀を横に切った。先に攻撃したのに、自分の蹴りよりもタカヒロの手が横っ腹に当たってしまった。
容赦のない重い一撃。ヒロキはうなりながら草むらに膝をつく。
「ヒロキ、くんっ」
自分も痛くてつらい思いをしているのに、店長は自分を心配するように見つめていた。
「ヒロキ、いい加減にしろ。俺はこれ以上ダメになるお前を見ていたくはない。お前はここで何がしたいんだ。こんな田舎の小さなスーパーで一生暮らしたいわけではあるまい」
「うるさい! 僕はここにいたいんだ。この町に。この店長のいるスーパーにいたいんだ、楽しいんだよっ」
「愚かなことを言うな。お前は警視総監の息子なんだ。こんな場所にいるなど許されないぞ」
自分の身の上を口にしてしまったタカヒロを、ヒロキは信じ難いものを見るように見つめた。
言って欲しくなかった、それだけは。店長も驚いた顔をしている。
「お前は警察でもトップの父親を持つ選ばれた人間だ。選ばれたものは選ばれた場所にいるのがふさわしいというものだ」
ヒロキは首を横に振った。
「そんなことない! 僕はタカヒロとは違うんだ。父さんの望んだ立場にはなれなかったから。仕方なしにお情けの地位を与えただけで、僕を見ていない。僕を必要としていないんだよ」
「ではこの男はお前を必要としているのか」
その一言にヒロキは言葉をつまらせる。その質問に対する答えは持ち合わせていない。
店長のそばにいるのは自分の希望で。店長にとっては本当に望む人は別にいるのだ。自分じゃない、わかっている。
けれど店長の優しさが、明るさが、笑顔が好きになってしまった。僕に居場所を与えてくれた。
ヒロキが答えないでいるとタカヒロは店長の上から退き、解放した。
タカヒロはゆっくりと立ち上がり、スーツを簡単に手ではたいて整えると冷たく言い捨てた。
「この男には前科がある。お前にはふさわしくない。明日迎えに来るから準備をしておけ、いいな」
タカヒロはそう言うと踵を返し、去っていった。
店長は「いたたた」と言いながら立ち上がると申し訳なさそうな表情で自分を見ていた。
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