第33話 おやすみ

 二個めのみかんを食べてしまって、妹はこたつテーブルの上に頬杖をついた。

 眠そうに目を細めている。

 愛里えりが食器を片づけようとしていると、妹は、ふわふわした声で

「か…た… づ…ける…の? てつ…だ…う…よ」

と言う。手伝うつもりらしいけど、もう三分の二くらい眠りの国だ。

 「いまはお湯につけるだけにしといて、明日、洗うことにしよう」

 愛里が言うと

「うん」

と妹は小さくうなずいた。

 愛里が食器を持って部屋を出ても妹は無反応だった。台所でお湯を出してつけておくことにした。もっとも、この気温だから、お湯はすぐに冷めるだろうけど。

 それよりも。

 湯沸かし器をつけたついでに、愛里はお風呂を沸かして入ることにした。

 今日は、起きて、帰省の準備をして、大学に行って、ラットの様子を見て、それからバスに乗って帰ってきた。お風呂は昨日の夜から入っていない。

 やっぱり寝る前にお風呂には入っておきたい。

 納戸に移してあったたんすからパジャマを出し、自分の部屋に戻る。

 東京から着て来た服やさっき着た水着は洗濯かごに入っているので、洗濯かごごと風呂場に持って行く。タオルとバスタオルも準備する。

 お風呂に入る準備を整えて、妹の部屋に戻る。

 妹は寝ていた。

 さっきより完全に寝ていた。

 姉がやっていたのと同じように、こたつのなかに脚を入れて、上半身を座布団の上に横たえていた。

 電気も消さず、ストーブもつけたままだ。

 仰向けになって、手を斜め上に投げ出して、大の字というより、Yの字、いや、あいだに頭があるので、ギリシャ文字のΨプサイみたいになって寝ている。

 前の紐を結んでいなかったのか、その仰向けの体の上で半纏はんてんが中途半端にはだけている。

 色っぽくもなんともない。

 ……と言いたいところだが。

 たしかに、自分がそのかっこうで寝ているところを想像しても、色っぽくもなんともない。自分で自分に「ちゃんと寝ろよ」と言いたくなるだけだ。

 しかし、妹のその姿からは、なんとはない純真さ、ピュアさ、幼さと健やかさが伝わって来る。

 幼いだけだと思っていた妹。

 いや。いまでも、水着撮影で年を越そうなどと言い出すし、おそばを茹でるのにそばつゆはいらないなんて言うし、それで高校生かと思うくらいの幼さを発揮している妹。

 でも、バトントワリング部の演技では、集団演技のなかで役割を果たし、りっぱに先輩たちの演技を支えていた妹。

 今年は、人数が少ない部で先輩たちの高度な演技を支える役割だろうけど、来年になったら、こんどは芳愛よしえが先輩になって後輩を迎える。

 いや。もう来年ではない。今年の四月になったら、だ。

 新しい演技も覚えて、上達して行かなければいけない。

 でも、そうやって妹が成長すれば。

 成長して幼さをなくしていくならば。

 もう、来年、今年と同じようにこの妹と年越しすることになっても、もうこんな妹を見ることはできない。

 もし、大晦日おおみそかの夜、姉が水着姿でいるのに出会っても、事情を聴いて

「じゃあ、服、そこにあるから、さっさと着替えてきなよ」

とだけ言う。そんな妹になるかも知れない。

 幼さはなくしても、純真でピュアで健やかでいてくれるか?

 わからない。

 わからなくても、姉にはどうにもしようがない。

 だから、幼さも失ってほしくない。

 でも、そんな願望は姉のわがままだ。

 とりあえず、ストーブをつけたまま眠るのは危ないと思った。

 でも、このストーブは揺れたり傾いたりすると火が消える仕組みになっているので、たとえ妹が無意識のままにストーブをなぎ倒しても火事にはならない。

 一抹の不安はあるけど……。

 ……たぶん、だいじょうぶだろう。

 いまは、愛里が同じ家にいるのだ。何かあっても妹を助けるくらいはできる。

 それに、いまストーブの火を消したら、上半身をこたつの外に出している妹は風邪を引く。

 さっき半纏の袖に火を移しかけていたことも考えると、この妹は火に対する警戒が不足しているようだ。だから、ストーブをつけたまま寝るのは危ないと言っておかなければいけないけど……。

 それはもう夜が明けてからでいい。

 せめて、姉の部屋のように暑くなりすぎないように、と思って、愛里はストーブの火を小さくする。

 目を横に向けると、こたつの向こうで、芳愛は口を半開きにして寝息を立てていた。

 いま、妹は、寝息のひと息ごとに幼さを吐いて、そのひと息ごとに成長している。

 愛里は身をかがめたままその横まで行った。

 このまま手をついて、その勢いで、その半開きの唇にこっちの唇をくっつけてやろうか?

 やめた。

 理性が勝ったから、というより。

 妹は腕を斜め上に投げ出しているので、それを超えてそういうことをやろうとすると、唇だけくっつけるのでは止まらず、妹の顔の上に倒れ込んでしまいそうだから。

 だから、その腕の横に両手をついて、倒れないところまで体を伸ばす。

 妹の寝息が愛里の頬を通り過ぎる。

 頬から耳のところへ。

 一回……。

 やわらかく。

 二回……。

 部屋が暖かいので、妹の息が通り過ぎると、涼しく感じる。

 三回まで感じて、愛里は身を起こす。

 ここまで姉に近寄られても、妹は完全に無防備だった。

 その無防備な唇は、将来のためにとっておいてあげよう。

 もっと幼さをなくした、将来の妹のために。

 愛里は立ち上がった。

 電灯をいちばん暗い電球だけにする。

 その暗い橙色の光のなかでも、妹はさっきとまるっきり同じ様子で寝息を立てていた。

 「お、や、す、み」

 そう、唇だけを動かしてから。

 愛里は、妹のいる部屋の扉をそっと閉めた。


 (おわり)

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