第27話 上もなく下もなく

 愛里えりが意地悪を言う。

 「でも、美治子みちこ、こんどはバトン部に入ってきたらどうする?」

 いや。

 最悪の事態を想定しておく、というのは、災害対策の基本なのだから、意地悪でもないだろう。

 ところが、芳愛よしえは笑顔だ。

 「入ってこないと思うし、入って来てもだいじょうぶだよ」

と言う。

 「どうして?」

 「その美治子のお母さん」

と、芳愛は声をひそめるときのような声で言う。

 「声をひそめるときのような声」なんて回りくどい表現だ。でも、それは、声色はたしかにひそめているようだけど、声量はまったく変わっていなくて、じつはまったくひそめていないからだ。

 こういうところ、うちのお母さんにそっくりだなぁ。

 そんなところ、似ないほうがいいんだけど。

 妹はその「お母さんの噂話モード」で続ける。

 「『上もなく下もなく』って映画に主役で出る、ってみんなに言って回ってたんだけど、交替させられちゃったらしくて、出てないんだよ」

 「ああ」

 『上もなく下もなく』という映画は愛里も見た。SFというか、科学者とかベンチャー企業の経営者とかが集団でマッドなことをやるという、マッドサイエンティストもののコメディー映画だ。

 女の人はあんまり出て来なかったと思う。「主役」というのはたぶん主人公の科学者の恋人役だろう。その役をだれがやっていたか、愛里は覚えていない。

 つまり、その印象の残らない役者さんに役を取られたのだ。

 だいたい、この近所では、この尾谷おだにゆかりというひとは大女優のように振る舞っているけれど、東京に出てから、愛里は一度もその名を聞いたことがない。ドラマのテロップとかでも見たことがない。

 ご近所では大女優でも、全国的には無名の女性俳優なのだ。

 芳愛の説明が続く。

 「それで、それからあのお母さんは家にこもってるらしくて出て来ないし、その美治子もすっかり元気なくなって」

 「それじゃ、さ」

 愛里はきく。どっちでもいいことだけど。

 「その『桜の園』って劇の舞台はどうなったの?」

 「もちろんできなかったよ」

 芳愛は当然のことのように言ってみかんを口に入れる。

 というか。

 愛里はみかんをもう食べてしまったのに、妹のところにはまだ半分以上残っている!

 この何ごとものんびりしていて、もっとはっきり言えばぐずな妹を、あんな活き活き動かすことができるなんて、そのみおみお先生ってほんとすごいんだな、と実感する。

 「学校の文化祭も市民芸術祭も出られなくて。顧問の日暮ひぐれ先生は、もとの部員呼び戻そう、って考えたらしいけど、三年はもう受験だし、ほかの子もだいたい新しい部活でもう何か月もやってるわけだから」

 いちばんの被害者はこの学校劇団だな、と愛里は思った。

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