第2話 自分の部屋

 愛里えりは玄関の戸締まりをすると二階に上がった。

 玄関を入って斜め右の向かいに二階に上がる階段がある。

 電気はつけなかった。

 階段の上には窓がある。愛里の目は暗がりに慣れていたから、その窓から入ってくる外の明かりで階段は見えた。

 それにこの階段の上がりかたは愛里の体が覚えている。

 べつに電気をつけたっていい。安全ということから言えば、やっぱりつけたほうがいいのだろう。

 でも、電気をつけて明るくしたら悪いと思った。

 大みそかだというのにだれもいない、この家に。

 この家という建物に。

 だれもいないまま、この家は、年が変わるという特別な時間を過ごそうとしているのだ。

 階段は途中で一八〇度折れ曲がっている。

 上がってすぐ左の角が愛里の部屋だ。

 戸に鍵がかけてあったら悪夢だな、と思う。

 べつに居間のソファで寝てもいいけど、温度が氷点下に下がるのが確実な家でソファでごろ寝はしたくない。

 まして、それが年越しという特別な日であれば。

 心配はいらなかった。

 愛里の部屋の戸には鍵はかかっていなかった。

 今度は電気のスイッチをつける。

 部屋に踏み入れて戸を閉め、ほっ、と息をついた。

 ぽっ、と浮かび上がったのは、まちがいなく、自分の部屋だ。

 高校のときまで、この部屋から学校に行き、この部屋に帰ってきた。

 いまも、夏に帰省して、ここから出発したときそのままだ。

 右側に本棚と作り付けになった勉強机がある。机の向こうが窓だ。机の手前には本棚よりも奥行きと幅の広い棚があって、昔使っていた遊び道具とか、昔使っていたゲーム機とか、昔使っていたパソコンとかが置いてある。一時期、高校で女子野球をやろうとしたときに買ったバットも、その棚に立てかけてある。

 机と反対側の壁には電子ピアノが置いてある。その手前が二段ベッドで、やっぱり上の段が物置きになっていた。

 窓の下にはタオル干しがある。部屋干しや陰干ししないといけない洗濯物を干すのにずっと使っていた。

 愛里の目線はそのタオル干しに吸い付けられる。

 「うわー……」

 出たときそのままなので、タオル干しには、水着が干したままになっていた。

 夏休みに帰省したとき、帰省の最終日に高校のころの友だちといっしょにプールに泳ぎに行った。帰ってきて洗濯機を回して洗った水着を干し、夕ご飯を食べてそのまま東京に出発した。

 そのときのまま、プールに持って行ったタオルと、ワンピースの水着と、水泳用のゴーグルがぶら下がっているのだ。

 外から見える場所ではないけど。

 なんか、気恥ずかしい。

 お母さんも片づけておいてくれればいいのに、と思う。

 でも、夏に家を出るときには

「部屋の中のものには、ぜったい、ぜったい、ぜったい、手、触れないでよ!」

と、愛里自身がお母さんに言ったのだ。

 じゃあ、しかたがない。

 毛足の長いふかふかの絨毯じゅうたんに荷物を置く。

 まずマフラーをはずし、コートを脱いで、高校のときから使っていた衣装掛けのハンガーに掛ける。

 リモコンでエアコンのスイッチを入れた。

 あ。

 水着がそのまま、ということは、スイッチは「冷房」になっているはず。

 それで、リモコンのボタンを押して「暖房」に切り替える。

 冷房のときに地球に優しい温度に設定していた。二八度とか?

 温度設定そのままで暖房にしたので、地球への優しさとかいうのを考えればあり得ないくらいの温度だ。東京で使っているエアコンのリモコンは、冷房、暖房それぞれで温度が設定できるけど、このエアコンは、古いからか、冷房でも暖房でも同じ温度に設定されてしまう。

 でも、いまだけなら、いいだろう。

 部屋は冷え切っている。

 こういう横着が積もり積もって世界的にコーヒーやお茶の生育環境に影響を与えてるんだな、と、いう思いが頭の隅に生まれる。

 コーヒーやお茶が育たなくなると、うちの商売にも問題が出る。

 そんな思いが生まれるけど、拡がらない。

 それで、愛里は、セーターを着たままベッドに身を伸ばした。

 着替えるのは、部屋が暖まってからにしよう。冬用の寝具もベッドの上の段に乗ったままだ。下ろすのは後にしようと思う。

 枕の上にあお向けになる。

 「ああ……」

と、おでこの上に右手を載せて上を見る。

 続けて出たことばは

「狭い部屋」

というひとりごとだった。

 愛里は、過密都市東京の、それも駅に近いところに部屋を借りて住んでいる。

 その部屋のほうがここより広い。

 なぜ、そこよりも、いなかにあるこの家の自分の部屋のほうが狭いのかというと……。

 たぶん、この家を建てたときに、設計をまちがったからだ。

 お父さんとお母さんと、愛里と諫武いさむ芳愛よしえの三人きょうだい。

 それなのに、二階には五つの部屋がある。

 五つの部屋で面積を分けているので、それだけ一つの部屋は小さいのだ。

 お父さんの部屋とお母さんの部屋は一階にあるので、二階に五部屋も必要はないはずなのに。

 もしかして、お母さんは、妹の芳愛の下にまだ二人も子どもを産むつもりだったのか?

 それとも、本家のおじいちゃんとおばあちゃんがこの春髪はるかみに引っ越してくるということを考えて?

 よくわからない。

 でも、二段ベッドの下の段というこの狭いスペースのほうが、愛里は落ち着く。

 小さいころからそれで育ったのだから、しかたがないと思う。

 たぶん、このまま眠りについて、眠ったまま年を越すんだろうな、と思う。

 年越しの時間に眠っているとしたら、それは小学校五年生以来だ。

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