弐節
私は現在、非正規雇用労働者として都内の中小企業にて事務の仕事に従事している。派遣会社に籍を置いているため所謂派遣社員というやつだ。賃金に関しては派遣元に上前をはねられているため、それなりの期間自身を律し贅沢は敵であると言い聞かせ、質素な生活を送っている。齢は20代も終盤に差し掛かる。場合によってははアラサー男、オジサンと揶揄される年齢だろう。年齢なんぞ気にしたところで何の得もない事は分かっていながら、現在身を置く状況とそれに比例しない年齢を再認識しては恐怖に慄く夜もある。
現在の派遣先に落ち着いておよそ2年が過ぎようとしている。データ入力をするだけの楽で退屈な仕事だ。収入の低さも、しぶしぶではあるが納得いかない事も無い。一つ良い点を挙げるのだとすれば、それは他者との胃の痛むようなコミュニケーションが他の仕事に比べて大幅に削ぎ落とされている点だろうか。それ以前は派遣会社に騙されてテレアポのコールセンターで無理やり働かされたこともある。もし死後の世界に地獄があるのだとすれば、きっとこのような場所なのだろう。現世における地獄のジオラマだ。あれほど他人に怒鳴られる仕事がこの世に存在して良いのだろうか。この職場で私の精神が正常に作動したのはたったの3日であった。限界を迎えた3日目の終業時には、まるで二日酔いに敗北した愚者の末路のように青い顔でえずきながら、派遣会社の担当である冷酷な女、通称「鉄仮面」に泣きついていた。この血の通わない女はその後計3回に渡り、対外交渉に不向きな私に営業職の仕事を回しては、憮然とした態度で「ろくに仕事も出来ない社会不適合者めが」とでも言いたげな顔で私をいたぶり続けた。残虐非道、悪鬼羅刹の所業である。そして4回目にしてやっと現在の退屈かつ安全な仕事を寄越してきたのである。
「この案件でしたら流石に続くと思いますが、如何です?まあ、給与は大幅に下がりますが」
「はい、もう是非…」
この時の私は一体どれほど情けない顔をしていたのだろうか。あの冷酷無比で表情筋を一切動かすことのない鉄仮面が侮蔑の笑みを一瞬浮かべたように思えたのは決して私の被害妄想などでは無いはずだ。よほど哀れで滑稽であったに違いない。何よりそのような情けない自身の姿を想像するのは余りに惨めである。しかし、これは千載一遇のチャンスであった。もし逃せばまた営業や販売などといった他者に媚へつらい、精一杯の引きつった笑顔を気色悪がられる苦行と屈辱の日々が待っているのだ。どんなに情けなかろうとここで引く訳には行かない。より好条件を打診した所で無駄な事は火を見るより明らかだ。私は飢えた野犬の如く、目の前に放り出された薄くスライスされた1切れのケチ臭い豚バラ肉に食らいついたのだった。
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