第5話 眩く、遠く


 出立の日は足早に訪れる。


 ウィリアムへ返事を送って次の日の早朝には、カリュクス医師の元へ白と黒の羽を置き土産に返事が届いていた。そして、これはまた荒い筆致でその手紙には一週間後に迎えに来ると書かれていたのだった。


「これは忙しくなりますよ!さ、皆さんに報告に行きましょう!」


「うん……!」


 一番早い出立可能な日付にやってくるとあって、オラシオンたちは家庭教師への説明、国王への報告等様々な場所へ走り回る一週間となった。報告以外にも買い出しに出かけたりと毎日ヘトヘトになって帰ってくる日々が続いたが、不思議とオラシオンの顔は以前より僅かに上を向いていた。これはニカウレーの一手により刺客は身動きが取れなくなっていたのも大きく関係している。


「この城で嘘の噂は国王様に見抜かれて怒られちゃいますからね。皆裏をとってから噂をします。だから城で流れる噂は良くも悪くも全て真実。ええ、もう本当に、めちゃめちゃ色々なところに話しました!」


 ホホホホホと高らかに笑いながらニカウレーは軽快な包丁さばきで城での最後の晩餐を作っていく。


「これで注目の的である姫様に手を出せばしっぽを出すのと同じな上に、目が節穴な騎士たちも気付くに違いありません!邪魔はさせませんよ!」


 ゼロに近かった手札が何枚も増えたニカウレーの逞しさはそこらの騎士にも引けを取らない。


「あ、そういえば国王様からの書類にメモが貼ってありましたよね?」


「うん」


 キッチンに向かっていたニカウレーが振り向くと、オラシオンは皿を片手に父からの手紙に目を通していた。


『何か、あったのか』


 スケジュールの都合で謁見は叶わなかったが、外泊許可の書類と共に添えてあったメモには国王ではない、父としての娘への憂慮が書かれている。


『父さんはオラシオンが心配だ。君は聡い子だが何事も抱え込みがちだ。何の連絡もなしに行動するには理由があるのだろう?』


————父上は全てを見透かしているようだ


 親子としての少ない交流の中でもオラシオンを見ていた父に縋りたくなる。しかし、それは叶わない。叶えてはいけない。


————失うかもしれないものは自分の命だけではないのだから。


 オラシオンの視線の先には鼻歌を歌いながら鍋を掻き回すニカウレーがいた。


『出立の日に私の都合は合わなかったが————』

メモの最後には、家族からのささやかなプレゼントが記されていた



 翌日、旅立ちに相応しい澄み渡った空の色を竜の角は映している。久方ぶりの陽光を全身に浴びてオラシオンは落ち着きの無い様子で迎えを待っていた。

 もちろん新たな生活への緊張もあったが、今日はそれに加えて特別な人が傍に居たからだ。


「オラシオンは皆の暮らしにそんなに興味があったのか。まぁ、まだ十四歳だし、辛くなったら戻って来るといいよ」


 柔らかい声が少々俯きがちなオラシオンにかけられると同時に、オラシオンと同じ鱗が輝く手が優しくオラシオンの頭を撫でる。

 現王第二子であり、アマルギート第一王子、百二歳離れたオラシオンの兄であるオルコスの手だ。


「僕の予定だけでも空けられてよかったよ。ただえさえ普段から構ってやれてないのに、見送りすら家族の誰もできないなんて寂しいにも程がある」


 父からの贈り物は兄の見送りだったのだ。


「正直驚いたよ。でも行動力があることはいいことさ」


 何も知らないオルコスは上機嫌に歳の離れた妹の成長を心底嬉しそうにしている。


「けど、無理はしないこと。オラシオンは真面目すぎるから。いいね?」


今、言ってしまえば————


「が、んばります」


 少女は閉口を選んだ。ここで兄に縋れば全て解決してくれる。分かっている。理解している。いつでも頭は多くの選択肢を導き出しているのに、選択に伴うリスクへ向き合う強い心が無い。


————兄に縋った瞬間に、ニカウレーが死ぬか、自分が死ぬ。


 刺客がこの場すらも狙っていると殺意の悪寒を過敏な神経が拾っていた。ただでさえここ一週間でようやく村人に危害が加わる心配を飲み込んで胃が破裂しそうなのだ。それでも事情を知っている村に行った方がリスクは低い。彼女の心はこれ以上の負荷に耐えられなかった。


「ニカウレーさんも、いつも妹を見てくださってありがとうございます。

向こうだとみんなの手も借りられますし、休暇を多めに取ってくださいね」


 しかし、オルコスは妹の内心を知らずにニカウレーに顔を向けてしまう。


「お気遣いありがとうございます。けれど、少し大変ですけど姫様との生活は心地がいいのであまりご心配ならず」


 実際は少しどころではないけれど、これからは少しと呼べる生活になるのだと思うとニカウレーの心は解放されるように浮き足立つ。オラシオンは少々ぎこちないが、和気あいあいと世間話をする三人の耳に翼が羽ばたく音が耳に入った。


「来たようだね」


 ふと、オルコスが西の空を見上げる。つられてオラシオンも視線を空に移した。


「あれは……」


 オラシオンの目に入ったのは、馬車を引き連れ大空を疾走する翼を持つ白と黒の立派な二頭の馬。


「ペガサス族だよ。とても早く飛べるんだ」


 柔らかい風を大きな翼で受け止め、それは城と街を繋ぐ石橋の上に音を軽快なひづめの音に変えて降り立った。


「綺麗……」


 初めて見るペガサスにオラシオンは目を奪われる。馬車はなめらかに減速、天馬たちが三人の目の前へ静かに歩みを進めると、蹄の付いた前足は地面を離れて柔らかい五本指の手になり、二本の脚だけが地面を掴んでいた。


「お久しぶりですアーサー王子。そしてお初にお目にかかります、オラシオン王女」


 三人の目の前にたどり着く頃には二体の天馬は二人の青年へ姿を変え、アーサーとオラシオンの前に膝をついた。


「この度、馬車を引かせていただくルシウス・ホワイトと」


「ヘンリー・ホワイトです」


 それぞれ真っ白な髪と、真っ黒な長い髪を結え、粛々と頭を垂れる青年二人の頭頂部には髪の色と同じ馬の耳と、尾てい骨からは艶やかな尾が流れるように垂れていた。しかし、下げた二人の頭はよく見るとふるふると震えているようだ。


「からかわないでくれよ!!急にそんな仰々しくして!」


 何やらオルコスは耐えかねた様子で顔を真っ赤にして声を上げ、思わずオラシオンの尾がピンと天を向く。


「ごめんごめん、いやー、だってここ城でしょ?

あんま気軽すぎると怒られるかなって、一応取り繕ってみたんだよ」


 ルシウスと名乗った白い髪の青年は、軽い調子で立ち上がると白い馬の耳をピコピコと動かしてケラケラと人懐こく笑う。ヘンリーと呼ばれた青年はしれっとした顔で何事も無かったかのように膝に着いた汚れをはたきだした。


「そういうのいいから!ヘンリーもそんなまじまじと見るな!」


「本当に王子様なんだな、お前。ウチにいた頃はぬかるみを爆走する泥んこ小僧だったのに……」


「妹の前でその話はやめてくれよ!」


「ふ~ん?妹ちゃんの前だとカッコつけなんだ~?」


「もうやめろって‼︎」


 どうやらこのペガサスたちとオルコスは旧知の仲らしいということをオラシオンは察した。しかし、いつも冷静沈着で温厚な兄が、同年代らしきルシウスたちに弄られ倒されていることには目をまん丸にして驚きを隠せない。


「アカネも久しぶり!いろいろ大変みたいだけど病気とかにはなってない?」


「うん、大丈夫。お兄ちゃんたちが元気そうで良かった」


 「お兄ちゃん」と呼ぶあたりどうやらアカネも親交が深いらしい。いや故郷が一緒なら顔見知りかもしれないとオラシオンが声も出さずに合点していると、不意に泳がせていたオラシオンの赤い目とルシウス、ヘンリーの青紫色の目がバチッと合う。


「はじめまして、君がオラシオンかな?」


 にっこりと愛想良く笑うルシウスの問いにオラシオンは錆びたブリキのおもちゃのようにギギギ……とぎこちなく頭を下げることしかできなかった。


「んー?きょうだいたちとは顔はそっくりだけど、なーんか違う気がする」


「あまり派手じゃないな」


「……」


「ありゃ、おーい大丈夫ー?」


「固まったな」


 まじまじと見つめられてオラシオンは声もなく完全に硬直してしまった。ルシウスたち目の前で手を振っても反応がない。


「おい、そこら辺にしておいてやれ」


 布製の屋根が着いた馬車から一人の麦わら帽子を被った農夫が顔を出す。その朗らかな弧を描く眉は、オラシオンとオルコスによく似ていた。


「お久しぶりですウィリアムさん」


 ウィリアムと呼ばれたガタイの良い男は、特にかしこまる様子もなく、馬車から降りニカッと笑う。


「よう、オルコス。元気そうで何よりだ。忙しいのに待たせてすまんな、思ったより風の流れが弱かった」


「いえ、お気になさらなくての大丈夫です。オラシオン、この方が母上のご兄弟、叔父のウィリアム・テルースさんだよ」


 父や王城の官吏などとも違うウィリアムの豪快そうな風貌に怯んで、心の準備ができていなかったオラシオンは、またしても不自然に頭を下げるので精一杯だった。


「オラシオンか!大きくなったなぁ!と言ってもまぁ、お前は覚えていないか。お前が生まれてすぐ以来会えてないからな。手紙を書いたお前の母ちゃんの弟のウィリアムだ。よろしく」


 自分とは似ても似つかないが、先すぼみした耳と頭上に浮かぶ宝石にオラシオンは母の面影を見る。


「アカネも、久しぶりだな。今回はよく連絡をとってくれた。

またじゃんじゃん頼ってくれよ」


「ありがとうございます、よろしくお願い致します」


 アカネはオラシオンが見た事がないほど安心した表情で口元を緩ませ頭を下げた。なんとも陽気な雰囲気であるが、オラシオンは慣れない状況に身を固くさせるばかりだ。


「そんな身構えなくていいよ。姉上や兄たちは全員この人たちにお世話になってるからね」


 オラシオンも何となく兄姉たち全員が関わっているのではないかと予想はできていたが、母の故郷とあって王族にとってその村は特段信用できるものらしい。オラシオンの脹れていた不安は、空気が抜けていくように少しずつ楽になっていく。


「ああ、親戚、家族だからな。気軽に接してくれ」


ウィリアムは力強く太陽のように笑う。


「よ、ろしくお願いします」


「おう、任せな」


 ウィリアムは、絞り出すような声ばかりを出すオラシオンの頭を撫でようと手を伸ばしかけるが、オラシオンが身構えたことで寸でその手は止まった。


「さぁ、詳しいことは中で話そう。二人とも旅立ちの準備はいいか?」


「……は、い」


「大丈夫です」


 オルコスは叔父の不自然な行動に首を傾げていたが、それに気付かないふりをして二人は返事を返す。再び俯いた妹を見て兄は何かを思いつたように両腕を広げる。


「オラシオン、おいで」


 それはかつてよく行っていた抱擁だった。オラシオンが兄達に会えなくなってきて数年、久しぶりの事にオラシオンは戸惑う。甘えることを忘れてしまっているように手が空中をかいた。


「うーん、だいぶ会えなかったけれど、相変わらず甘え下手だなぁ……」


 右往左往しているオラシオンをふわりとオルコスは包む。

オラシオンの手は、言いたいことも言えない弱さ故に空気を掴んだ。


「僕たちはお前と一緒には行けないが、ここにいない姉上もヴァイゼも、もちろん僕もお前を応援しているよ。良い旅を、オラシオン」


オルコスのその言葉でオラシオンはようやくその暖かい背中に手を置く。


「行ってきます、オルコス兄上……!」


 俯きがちだったオラシオンの目線が上がる。その目は兄が知り得ない闇からの脱却の意志が宿っていた。優しく微笑む兄の存在が、へっぴり腰になっているオラシオンを支える。


「ああ、行ってらっしゃい」


 オルコスは妹が少しづつ成長していることを感じ、笑みがこぼれる。

兄妹は別れを告げ、オラシオンは久しぶりの兄の体温を名残惜しく思いながら馬車に乗り込んだ。


「オルコス王子、これを」


 最後の最後、アカネは馬車に乗り込む寸前にオルコスに小さく畳まれた紙を密かに手渡す。


「これは……」


「姫様、そしてあなた方にとって非常に重要なものです。本来は正式な書類として提出するべき案件ですが、申し訳ありません。どうしても手渡しであなた方に渡さなければならなかったのです。

 それでは失礼いたします」


 アカネは極めて真面目に、それでいて早口でまくし立てるようにそう言い残し、唖然とするオルコスをよそに足早で馬車へ乗り込んだ。

頭上に疑問符を大量に並べつつも、オルコスの目にはアカネ、そして、妹が何かに追われているかのように写った。


「準備OKだ。

ルシウス、ヘンリー出発してくれ」


「了解です、走り出しと離陸は大きく揺れますのでしっかりと掴まってね。

じゃあね、オルコス。元気そうで安心したよ」


「その白っぽい格好でぬかるみを走るなよ」


「は!?一体僕をいくつだと思ってるんだ!」


 いつの間にか天馬へ姿を戻していたルシウスとヘンリーは、大きな翼を揺らして朗らかに嘶く。


「全く。……ウィリアムさん、妹をよろしく頼みます」


「任せておけ。お前も体調には気をつけろよ」


「肝に銘じておきます」


 笑みで挨拶を交し、軽快な蹄の音を皮切りに馬車は動き出す。

数十メートルある大きな門をくぐり抜け、石畳の橋を段々と速度を上げ駆け抜ける。


「離陸するぞ、捕まっておけ」


 大きな揺れと共に重力に逆らう浮遊感がオラシオン達を包んだ。


「お、門のところでオルコスが手を振っているぞ。オラシオン、振り返してやれ」


「っ、オルコス兄上……!!」


 オラシオンは馬車から身を乗り出し、兄に分かるよう腕を振る。

どんどん城から遠ざかっていく馬車の中、兄妹達はお互いが見えなくなるまで手を振りあっていた。

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