第3話 変化を呼ぶ
あの奇襲は功を急いだ会心の一撃だったのか、それとも牙を剥かんとする
「カリュクス先生!オラシオン王女と侍女のニカウレーです!」
ニカウレーが声をかけ、扉をノックすると「はーい」と中からしわがれた声で返事が返ってくる。
「はいはいお待ちしておりまし、た……」
微笑みながら扉を開けた瞬間に絶句したのは、背が二人の腰ほどしかない上に腰も曲がった老年のエルフだ。
「……溶解液、ですね?」
老エルフの悲しげな問いに、オラシオンは無言で頷く。
「事情は後です。ひとまず治療をしましょう。さぁ、中へ」
老エルフは両手の指先で棚の中の薬品を浮かせて引き寄せながら、二人を中へ招き入れる。
「まずは包帯を取らせていただきます」
オラシオンはまた頷く。老エルフはオラシオンたちを柔らかいソファに座らせて、しわが深く刻まれた手で優しく包帯に手をかけた。摩擦を一切感じさせないほど丁寧に、それでいて流れるように素早く血が染み込んだ包帯を解いていく。
「うん、応急処置が丁寧にできているから背中ほど酷いものではないですね、傷跡も残らないでしょう」
アカネはほっと胸を撫で下ろす。
「これで二度目の溶解液での怪我ですか……」
手作業で薬を調合しながら、医師は目の前に浮かせたオラシオンのカルテへ目を通しながらオラシオンの背後へ回り、「失礼します」と一声かけて衣服をたくしあげ細い背中に染み付いた濃い傷跡を診る。
「やはり薄くなっていませんね。痛みの方は?」
オラシオンは無言で首を横に振る。
「もう傷薬を塗っても仕方がないでしょう。成長をすれば一気に無くなるはずですから、あまり気にならさないでください」
オラシオンは俯いた。七年前、王妃、オラシオンの母が謀殺されて三年後。教師の元へ向かうために通りかかった窓口広間で、人混みを抜き去った瞬間に溶解液が今より小さな背中に浴びせかけられた。
初めて鱗、肉が溶かされていく異常な状況に動転していたオラシオンに犯人が囁いたのは「国王たちに告発したらもっと惨い仕打ちをくれてやる」という言葉。
結局犯人は捕えられないまま、応急処置も、声も上げることも出来ずに医務室へ転がり込んだのは苦い思い出だ。
小児科から成り上がった当時の王城医師が「ま、まだ十にも満たない子どもが……こんな目に……」と泡を吹きながら治療していたのは、今でも鮮烈にオラシオンの記憶に残っている。そして、その頃から幼い少女は恐れのままに閉口するようになってしまったのだ。
「よし、できた。では、腕に塗り薬をつけます。傷口に触れる処置ですから、ニカウレーさんは手を握って差し上げてください」
「はい」
ニカウレーがオラシオンの傷がついていない方の手を握るのを確認すると、老エルフは指先で薬を掬い取る。
そして、「行きますよ」と声をかけ、オラシオンが頷くと素早く丁寧に薬を塗り始めた。
「い゛っ!」
「痛いですね、すぐに終わりますから……もう少しです……はい、終わりましたよ」
見事な手つきでさっくりと満遍なく薬が塗られ、素早く包帯が巻かれる。
「ありがとう、ございます……。もう、痛みが……?」
呆気なく終わった治療とすぅと穏やかになる痛みにオラシオンは、大きな赤い目を瞬きさせた。
「前三代の王城医師が研究を重ねながら受け継いでくれた鎮痛薬、解毒薬と回復薬の特別配合。若者は素晴らしいものを作りますね、私は彼らの先達に名を連ねることができて光栄です」
王城医師は、災害救援、新薬開発、難病治療などの実績、更に全二十種近くある国が定める医師免許を全て取得したにエリートが招集される。その医師たち三人分が受け継いで開発した新薬。然るべきところにオラシオンの治験結果を提示して申請すれば、宅配に押す印鑑よりも素早く認可の判が押されて市場に出回るだろう。
「凡人には意味が分からないエリート配合……それも調合はアマルギート医会トップのカリュクス先生……」
そう、この小さな老エルフこそ、その王城医師たちの上に立っていた第三百四代アマルギート医会会長カリュクス・カクタス医師だ。
王城医師たちすら束ねる権限を持つアマルギート医会会長となれば、その実力と実績は推して知るべしである。しかし、カリュクス医師は首を横に振った。
「元を付けてください。私は本来ならば隠居の身です」
カリュクス医師は指先を動かして薬瓶を棚に戻す。
「こんなに素晴らしい薬を作れる若き医師たちが退いて、私がここにいることが異常なんですから」
医師はしわがれた声で呟くと代わりに包帯と湿布を引き寄せる。
「ではニカウレーさんも膝の治療をしましょう」
「うっ、見抜かれておられましたか……」
「ほっほっほっ、現役復帰した以上、不調は隠させませんからね」
ニカウレーが打った膝の治療も手早く済ませ、カリュクス医師は指先をくるりと回して紅茶が注がれた湯気立つティーカップをオラシオンたちに差し出す。
「ロマンナイトの茶葉ですね。いい香り……。ありがとうございます」
「ありがとう、ございます」
温かく甘めの紅茶を喉に通しながらも、オラシオンの顔は晴れることはない。
カリュクス医師は、笑いジワが深く刻まれた目を伏せる。
「……ひとを傷付けて得た力でひとを束ねようなど、許されてはいけません。権力というものの本質を見誤っているのです。本当は即刻ヴェ、ゴホン。陛下に通告したいのですが……」
カリュクス医師は歯切れ悪く語尾が途切れる。悲しげに目線を落とす老エルフの表情にオラシオンは見覚えがある。悪い予感に彼女の呼吸が浅くなる。
「申し訳ありません。まんまと策謀に嵌ってしまいました……」
そう言ってカリュクス医師が事務机から引き寄せたのは、退職通知と書かれた一枚の紙。
「ぁ……」
オラシオンの予感は的中し、情けない声が口の端から漏れる。
「退職理由は次期王城医師が決定したため、老いた私と交代。もともと次代への中継ぎという体で無理矢理ねじ込んできたので長くは持たないと思っていましたが……」
「そ、そんな……」
言葉を漏らすニカウレーの横で絶句するオラシオンのきめ細かい肌には、鱗が次々と浮かび上がる。パキン、パキンとオラシオンの力の入った拳がガラスが割れるような音を立て、血で汚れた鱗にヒビが入る。
「ごめんなさ、い。また、わ、たしが……」
また、誰かの人生を、貴重な時間を使ってしまった。少女の細い喉の奥が詰まる。強くてはならない、このひとたちを守らなくてはいけない、守りたい。けれど、現実は助けられ、守られ、恐怖に震えるばかりで助けようとしてくれたひとは消えていく。現実は変わらない。そんな自分の不甲斐なさが、彼女の呼吸を浅くする。
「それは違います。
私たちは私たちのやりたいこと、正しいと思ったことをやっただけです。あなたが罪悪感を背負う必要は無いんですよ」
カリュクス医師は、痛いでしょうとそっと小鳥に振れるようにオラシオンの固く握られた手を解していく。
「本来誰もこのような目に遭うべきではないのです。それは、もちろんあなたも。言葉だけであなたを助けられずに申し訳ありません」
自虐的なカリュクス医師にオラシオンは首を横に振る。
「先生たちや、アカネがいなければ、私は、生きてすらいない。
だから、そんなことを……言わないで、下さい」
悲しげなオラシオンの赤い瞳が、真っ直ぐにカリュクス医師に向けられる。
「……あなたはお強い。ご自身が思っているよりもずっと」
自己評価と真逆なカリュクス医師の言葉に呆然とするオラシオンの横で、アカネが首を縦に振った。
「あなたは、もっと広い世界にいるべきです」
幼い竜の血が着いた鱗を、老いたエルフの節が張った小さな指が拭う。
「ひとつ、ご提案があります」
カリュクス医師は、指先で退職通知を机の引き出しに戻し、別の引き出しから一枚の手紙を引き寄せた。
「城を、出てはいかがでしょう」
「ぇっ……?」
オラシオンは、僅かに声を漏らす。
「忘れてるやもしれませんが、王族にも自由に外へ出かける権利はあります」
「城の、外……」
オラシオンにとっては、城の外は本の中の物語のようなものだ。自分とは関係のない、触れることは叶わない窓の向こうの景色。
息苦しいほど整った城の床ではなく、土と草に覆われた大地を踏みしめられたのなら————
そんな希望を抱いたことは一度ではない。しかし、その望みは幾度も踏みにじられてきた。
「私もそれは考えました。しかし、魔法が使えない私では城外に連れ出すことも……。出した手紙も郵便局にすら届いていないようですし……」
ニカウレーはこれまで何通も手紙を出してきている。父親である国王宛に、オラシオンの姉姫や兄王子たち、自分の故郷などあらゆる人伝に向けて救難信号を送り続けた。
しかし、どの手紙も全て宛先へ届いていないのだ。ニカウレーは鱗も無ければ魔法も使えない。それでいながら姫を一番身近で支えているため、ある意味オラシオンより危険な立場だ。城の外に出ることは容易ではない。故に城内の郵便受付に出すことになるが、そこは無人受付のため、難なく手紙が隠せてしまえる。
「そこで私です。現役復帰した以上、定期的に医会に顔を出さねばなりませんから、郵便局に寄るなど造作ありません」
カリュクス医師は手紙の封筒から一枚の少々煤のような汚れがついた一枚の便箋を取り出す。
「それは!」
見覚えのあるその煤汚れに、アカネは思わず声を大きくする。
「オラシオン姫、これはここからずっと東にある小さな村からの手紙です。
差出人は、ウィリアム・テルース。お母上の弟、あなたの叔父です」
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