Anh.26『この心の愛のすべてがあなたにはわからない』

 ―第9場―

御伽おとぎ泥濘でいねいの象牙の塔』


 ―2022.9.16 37歳―

「ねぇ、一度でいいから、美嶺ミレって呼んで?」と、どうして譲二に言ってしまったのか……。

サトルがくれた名――。

私はいつからか、“美嶺ミレ”として生きたいと願うようになった。


 雪花せつかの産んだ子を抱いた辺りから、純麗子すみれこは顕在意識の定席じょうせきを明け渡す事が増えた。

長く意識を保てるようになると、私は彼女の人生を奪い取れるのではないかと考え始める。

 

 雛が最初に見た動くものを親鳥だと覚え込んでしまうインプリンティングのように、私は譲二を愛した。


 けれど……。私の切なる願いに、彼は。


「……?もしかして……、キミが――?

ずっと怪訝おかしいと思ってたんだ。

やっぱり統合は失敗してたんだね……。

お願い!病院でも出てきて欲しい!

ミレ、キミにもカウンセリングが必要なんだ」


 私の憧憬どうけいは、一瞬にして泡と消えた。彼にとって大切なのは純麗子。

分かっていたのに……。

そして彼の側に居る為に、純麗子のフリをする日々が始まった。


 譲二は私の人格が出現した2月辺りからの事を、怪訝おかしいと感じているのだろうか。

しかし近頃の純麗子だって、随分と怪訝おかしい。そんな彼女の不可解な行動も引っくるめて、私の人格だと思われたくはない。


 様子の変化に気が付いたのは、短い梅雨が明け、夏の暑さが厳しくなる頃。

雰囲気が変わったというのか、上手く男を転がすようなタイプではなかった彼女が、少し大胆に振る舞い、翻弄しているようにさえ感じたのだ。


 初めのうちは、髪を切った樹の帽子に手を伸ばし上目遣いで見つめ、彼が静かに頷くとスッと帽子を取り「かっこいい……」と呟く程度だった。


 しかしいつきとエレベーターで二人きりになる度に彼女の行動は勢いを増し、剃り残した髭をさすって不敵な笑みを浮かべてみたり、唇が頬に触れそうな距離で耳打ちしたりもした。

果ては、二人の関係を怪しむ同僚に、

「内緒ですよ。実は学生時代に付き合ってたんです。今は何も無いですが、距離感に気をつけないと」などと、よく分からない嘘までく始末。


 “Virtual-Earth”では樹の自転車に2人乗りし、彼の背中にギュッとしがみ付く等、スキンシップに対し、明らかに抵抗が無くなっている。

樹のアバターは実物と何ら変わりないのだから、以前の純麗子ならもう少し気を付けたはず……。


 暑さの盛りも落ち着き始めた頃、純麗子は会社の扉で左手を挟んだ。血が滲む薬指は、指輪が押し付けられた所が少し切れ、赤紫のあざがくっきりと浮かび上がる。

腫れる恐れもあり、傷口に当たると痛い事から指輪を外した彼女は、内側に刻まれた結婚記念日を見つめ、怨念めいたものを怪我に感じていた。


 たまたま左手を挟み、指輪の形に傷を負った。それだけの事に“怨念”という言葉を使うとは、いささか行き過ぎている。

純麗子らしくない考え方に思えた。


 彼女は優羽ゆうや樹を本当に好きだったわけではなく、恋のはじまりのような、甘く淡いときめきに酔いしれていたかっただけのはず。でも、何かが違う――。

そんな得体の知れない違和感の正体に気付いた時にはもう、遅過ぎた……。


 ―2022.11.10 37歳―

 深夜、私は純麗子の部屋で一人、目を覚ます。

彼女は『Snow Crash』で小説を書きながら、珍しく寝落ちしたようだ。

スマホは開いたまま、それどころか『Snow Crash』はログイン状態。

彼女の事を調べる又と無いチャンスに、私は酷く興奮した。


 すぐに彼女の『BCIデバイス』をこめかみに貼り、“Virtual-Earth”へと急ぐ。

最初に脳内に広がったのは、重厚なガラスケースだけが鎮座する薄暗い部屋。

ライトアップされたガラスケースには、瞳を閉じたサイバネティック・アバターがうやうやしく格納されている。


 表示されているラベルは3つ。なぜかRayレイ のだけは『Currently in Use現在使用中』と赤く光っていて、苺のフレームの中に蛇のキャラクターがデザインされたNFTバッジが付いていた。


 ――!!“フォルスストロベリー”……!?

敬三と純麗子が話していた記憶が蘇る。

苺のバッジが示すのは、おそらくRayが純麗子の脳情報を引き継いだアバターであるという事――?


 残るアバターはビジネス用の“Sumireko Toga”か、プライベート用の……“MIRE”。

私は悩む事なく後者を選びながらも、プライベート用アバターの名が“MIRE”だった事に驚いていた。

彼女にとっては、美嶺ミレとして過ごした時間など消し去りたい物だろうと思っていたからだ。

サトルがくれた名を、彼女も大切に想っていたのだろうか……。


 MIREとなった私は、Rayの行方を探す事にした。それが純麗子を知る近道だと感じたからだ。

東京シティービュー、ダイバーシティ、豊洲のカフェ、東京ソラマチ、吉乃桜、本能寺、安土城跡……。

思い付く所は全て回った。

しかし、Rayは見つからない。


「MIRE」

背後から、“私の声”に呼び掛けられる。

そして声の方へ振り向く間もなく、荒波が打ち寄せる断崖絶壁に立たされていた。


「えっ……?!」

今度こそ振り返ると、

「ここは“Virtual福井”の東尋坊。サスペンスドラマの定番スポットよ」とRayが真顔で言った。


 状況が掴めない私を無視し、

「ねぇ、MIREミレってネーミングセンスどうなの?単純にSumirekoの真ん中を抜いたんだろうけど、英語だとmireマイアー……泥沼・窮地・苦境。あなたそのものね。

れーちゃんってニックネームから安易に付けた名でも、“光線”の意味を持つRayレイとは似て非なるものよ」と続ける彼女は誰?


 純麗子は眠っている。今、私の目の前で話しているRayは純麗子と繋がっている訳では無い。でも、純麗子の脳を引き継いでいるなら、純麗子の考えも同じなのだろう。


 やはり彼女は全部気付いていた。分かっていて入れ替わり、艱難辛苦かんなんしんくの限りを押しつけていたのだ。

それなのに、人格統合で私を消そうとするなんて――。

許せない……、何もかも壊れてしまえばいい!

彼女をとがめ、おとしめようとする気持ちが止め処なく溢れ出てくる。


「それは違うわ。あら、驚くのね。あなたが今考えてる事はただの電気信号。私には全部筒抜けなの。

純麗子をコピーしただけのアバターだと思ってるみたいだけど、私は知能指数IQが5000程度ある自己認識型の『汎用人工知能AGI、『超知能AIスーパーインテリジェンス』。

純麗子なんてもう居ないも同然よ」






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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