第3幕『メタバース―自我と憑依の均衡』

Anh.18『La traviata(ラ・トラヴィアータ)』

 ―Preludeプレリュード

Les Confessions告白録


 謬錯びゅうさくの岐路は何処いずこより、

謀略ぼうりゃく霞網かすみあみ何処いずこから――。


 譫妄せんもう腐蝕ふしょくの覇者に、真正の怨敵おんてきに、

他處たしょ嘲弄ちょうろうされているとも知らず……。

私は敗けたのだ。

いや――、



 ―第1場―

『背信と彎曲の新城』


 ―2022.2.16 37歳―

 誰かに抱かれるのは初めてだった。

優しく髪を撫で、腕の中で甘えさせてくれる譲二が想うのは、慈しむのは、私であり私ではない

純麗子すみれこ”だとしても。

彼への愛を、彼からの愛をも……感じずにはいられなかった。


 膨らんでゆく心緒しんちょは、決して混線した記憶のせいではない。たしかなる私の、確固たる情愛と自負する。


 10年前の11月10日、純麗子と譲二は結婚した。彼女は子を宿せない事に酷く引け目を感じていたが、譲二の切言により周囲の反対も無く、すんなり華燭かしょくを灯せた。

彼女は祝宴の折、彼と彼の家族へ生涯に渡り信義を尽くす事を、静やかな心の中で誓った。


 譲二は元より子供が欲しいとは思っておらず、誰と生きたいかに重きを置いている。

どのように歩んでいくかを二人で選択する日々の積み重ねが、幸せに繋がれば良いとの考えだが、結局のところ彼の頭は医学で占有され、他事にあまりこだわりはない。


 彼らが住む新宿のタワーマンションは、譲二の父親が節税対策で購入した物件であり、彼の両親、兄家族、弟も別の階に住んでいる。

大学病院まで2kmの距離にある利便性から、譲二が独身時代に使っていた部屋で、そのまま暮らすこととなった。


 結婚後、純麗子はしばらく専業主婦になるも、現在は、エレクトロニクス技術商社の事業開発部で働いているようだ。


 走馬灯のように、彼女の人生における様々な情景が、ありありと脳裏に蘇っては巡り巡った日から、私は少しずつ意識をコントロールできるようになっていった。

彼女が深い眠りに堕ちると顕在意識の空席を認識し、自己意識を覚醒させるといった具合に。

覚醒した瞬間の脳内へ、彼女の潜在意識に残る印象深い体験がアップデートされる事もしばしば。それはまるで夢を覚えている時のような感覚に近い。


 意識の覚醒により、私はあらゆる疑問を探る事にした。いつも通り手始めにケータイを見ようとするも、初めてのスマートフォンに四苦八苦する。

走馬灯や夢でわざわざ見やしないものの記憶は持ち合わせておらず、パスワードのたぐいなど手に入れるすべが無いのも同然。


 結局スマホは開かず、多くの情報はパソコンから得る事となる。

もちろんパソコンにもロックは掛かっていたが、此方こちらは譲二と共有だからか、記憶にある記念日やイニシャルの組み合わせを数回試せば、割とすぐに開いた。


 様々な事を調べる内に、スマホにはFace IDという機能がある事が分かった。しかし彼女はその機能を使用していない。

やはり彼女は私の存在に気付いているのかもしれない……。そう疑いながら記憶を洗い直すと、引っ掛かる事があった。


 横矢からパスポートを早く持って来るよう叱られ、自宅を隅々まで探したが見つからず、しかし翌週目覚めた時には『預かった』と言われた、あの一件――。

自宅にはパスポートのみならず、学生証や通帳など身分証や貴重品と思しき物は何一つ無かったのにだ。


 どうやらもう、彼女が何処かに隠していたと考えるのが自然ではないか。

ならば何の為に……?

彼女は早くから記憶障害ではなく、自分の中に別人格が居る事を察知していたのかもしれない。


 点でしか存在しない私と、定線として存在している純麗子。もしも彼女が私に警戒心、ひいては敵対心まで持ち合わせているならば、私にとって相当が悪い。


『情報とは麻薬と同じである』と、何処かに書いてあった。新たな情報を得るという興奮性の報酬刺激によりドーパミンが放出し、さらなる情報への渇望に繋がる。

情報中毒となれば、ある種の盲目的状態に陥るというパラドックスもはらんでいるのだが、案の定、私の焦燥が睡眠不足を招き、彼女はとうとう過労で倒れた。


 そして純麗子は深い眠りについたが、私は覚醒する事が出来なかった。

代わりに長い夢を見た。貯蔵記憶の情報処理過程で再生される映像としての夢だ――。

つまりは、彼女の記憶だ。


 ―2022.2.10 37歳―

 純麗子が働く事業開発部では、主力を『仮想Virtual現実Reality』関連機器に移行する為の商品発掘や新規開拓を推進し、事業拡大を図っていた。

彼女は新しい機器の使用感について月曜日までに取り纏めなくてはならず、明日からの三連休に仕事を持ち帰らない為にも、今夜は残業する事に決めた。


門叶とがさん」

一人のはずの室内で突然声を掛けられ、彼女は飛び上がって驚く。

「あっ、ごめんなさい」とデスクの向かいで頭を下げたのは、経理部の永瀬 樹ながせ いつきだった。

「こちらこそ大きな悲鳴を、すみません。残業ですか?」

経理部が年末、年度末、月初以外に残業している所を、彼女は見た事が無い。ましてや金曜日ともなればどの部署も早く帰るのだが、何となく尋ねてみる。


「いえ、今朝のエレベーターで、どうして煙草の銘柄なんて聞かれたのか、一日中気になってて……。何で聞いたんですか?」


 そんなに気にする事か――?

と私は思った。でも、

(そうしてずっと気にしてくれてればいい……)という彼女の屈折した感情もまた、夢に流れ込んでくる。


「別に……」

目力を伴う言葉の破壊力たるや、凄まじくも美しい。彼女が『別に』と言い放つ時は、総じて訳ありだ。

そしてパッチリとした黒目がちな瞳で見つめられたいつきは、石のように固まってしまった。


 ―2022.2.14 37歳―

 三連休明けの月曜日はバレンタインデー。

純麗子は樹にラッピングした“Marlboro IQOS レギュラー”を1箱手渡す。彼は『成る程』という表情と、歓喜のハニカミ顔の両方を見せた。


 実は彼女がバレンタインのプレゼントを用意したのは、樹にだけではない。

マーケティング部主任の森崎 優羽もりさき ゆうにも、“ジャン=ポール・エヴァン”のチョコレートを贈った。


「ありがとう、今夜会える?」

さらりと誘う優羽ゆうを待たせ、彼女はスケジュールを開き、譲二の勤務表を確認する。

「はい、大丈夫です」


「じゃあ、“Virtual六本木”の東京シティービューで待ってる」






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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