Anh.17『ああ、そは彼の人か』
―2011.2.16 26歳―
水曜日は
そしていつも通り、13時半頃に診療終了。
扉口まで見送る為に、彼女は立ち上がった。
「今日は18時過ぎには上がれます。ご迷惑でなければ、お食事にお誘いしても……?」と、門叶
耳を疑うような問い掛けに、今夜は槍が降るかと目を丸くしつつも、彼女は喜び即応で頷いた。
陽が落ちた外苑東通りをタクシーに乗り、二人で向かった先は、赤坂にある5つ星ホテルの日本料理店。
彼が予約していたのは、200年前の茶室
『
珠玉の味わいも然る事ながら、繊細な御料理を華やかに彩る和食器も見事であり、至福のひとときを過ごした。
口下手な彼は準備してきたのか、まるで会席料理の献立に沿うかのように、先付けでは幼少期、止め椀の頃には現在についてと順序よく質問を繰り返す。
パナマで生まれた事、4歳の頃に父の仕事の都合でメキシコシティへ移り、8歳から10年間は京都で過ごした事、祖父はピノキオのゼペットじいさんに、祖母はシンデレラのフェアリー・ゴッドマザーに似ていた事……、彼女は次々と聞かれるままに話した。
譲二から学生時代の事を聞かれ、彼女は胸の棘の在処を感じる。
「学生の頃ですか……、うーん、今も然して変わりないですが、子供の頃から一人行動が割と好きで。
一人で大丈夫ってほど強い訳でもないですけど、一人でも平気って友人と一緒に居るのが楽でしたね」
「何となく分かります。男性看護師が増えてきたとは言え、看護師はまだまだ女性社会。
失礼ですが、恋愛観も同様ではないですか?」
彼はおそらく自立や依存に関する恋愛観を尋ねているのだろう。
しかし恋愛話が膨らめば、彼に聞かせられるような話は絶無。
純麗子は「そうですね」とだけ答えた。
一瞬の沈黙が
「京都での父との想い出なんですが……」と、彼女が左の頬、右の頬を順に掌で触れ、指を揃えたまま懐紙へ差し出すとパタッと倒れた。
「あぁ、紙が倒れるマジックですね!」
「そうなんです、その時父の指先の前に私の掌をかざしてみると、本当に風が出てる感じがして。父は魔法が使えるんだぁってずっと思ってました」
懐かしそうに語る彼女を、譲二は微笑みを浮かべ見つめる。
穏やかな雰囲気漂う空間に、梅の絵柄のお茶碗に点てられた薄茶と、黄緑が美しい鶯餅という初春の景色が届けられた。
同時に譲二は扉へ歩み寄り、くるりと純麗子に向かい振り返る。すると彼は魔法のように一瞬にして、色とりどりのチューリップと可愛いミモザの花束を抱えていた。
「復帰おめでとう。これからも宜しくお願いします」
彼の優しさが随所に散りばめられたもてなしの数々に、彼女の瞼は幾度も熱を帯びたが、メイクの崩れた顔を見られたくない一心で、グッと力を込めて涙を堪えた。
しかし畳み掛けるように、あまりに唐突な
「春が
もし宜しければ、結婚を前提にお付き合いして頂けないでしょうか?」
純麗子は思いも寄らない申し出に、しばらく
「……私の事、何もご存知ないからです。私なんかが先生と、お付き合いできるはずもない……」
「私なんか、なんて言わないで……。あなたは素敵な方です。自分を大事に想ってほしい。
僕は何も知らない訳じゃないですよ。
例えば、樫坂さんの好きな作家は、東野圭吾と原田マハですよね?分かってて、違う作者の本を贈りました。
好きな作曲家はショパンだ。
でも、
好きな画家はルノワール。あなたと展覧会に行きたいけれど、急患を優先し悲しい思いをさせてしまうかもしれません。
それでも僕の愛を、どうか疑わないで下さい。
本当に、あなたを愛しているんです」
譲二は彼女が休憩中に読む本を、彼女のデスクトップ画像を、彼女と交わした雑談を、大切に覚えてくれていたのだ。
何も見ていないようで、いつも気に掛けてくれていた。その事実が、純麗子の胸を震わす。
決して美しくない過去と、子供の産めない身体……。彼から滲む純粋な愛に手を伸ばしかけて、彼女は“結婚”の二文字に思い留まった。
「ごめんなさい。先生のお気持ちにはお応えできません……」
彼の目が悲しみの色に曇るのを見ていられず、彼女はスッと視線を落とす。
銘々皿の横に添えられた一輪の椿の花が目に入ると、突如として悲歎の心に、あらゆる葛藤を凌駕するオペラが浮かんだ。
椿の花を手に取り、譲二に差し出すと、彼は憂いを帯びた瞳のまま受け取る。
そして純麗子は静かに歌い出した。
「♪
「『椿姫』ですね!」と、掌にのせた椿の花を大事そうに見つめる彼は、
「この花が
「『では、明日……、僕は幸せだ』でしたね?
実際の明日は当直ですが。
チャンスをありがとう。僕はアルフレードのように離れたりはしません。大丈夫。
ましてやヴィオレッタのように、あなたを死なせたりしない――」
―2022.2.1 37歳―
純麗子の半生の記憶と自分の記憶が混ざり合い、頭も心も収拾がつかない。
しかし、ただ一つ確かなのは、私は『記憶障害』なんかではなかったという事――。
鏡に映る姿に、失った十数年を嘆いていた寸分前の自分が滑稽で堪らない。私は何も失ってなどない……、私の物だと思っていた全ては純麗子の物だったのだから。
私は彼女を守る為だけに生まれ、彼女に利用され続けたのか?
彼女は、何をどこまで知っているのだろう……。私の事を認識しているのだろうか。
次から次へと生まれ続ける疑問に、混濁の
「ただいま」
絶好の好機と捉えるべきか、譲二が帰宅した。
彼女の記憶と融合したせいだろうか、会った事もないはずの彼に、懐かしさが充満する。
心の何処からか愛しさが溢れゆき、私は空虚な身体を埋めるように、強く強く彼を抱き締めた。
「おかえりなさい」
私には何もない――。
一つくらい、私のものがあったっていい。
私は彼女の一番大切なものを奪う事で、束の間の幸せを歓楽するのだ。
この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。
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