Anh.12『彼のそばを離れて歓びはない』

 ―第7場―

『憂心と黄昏の住宅街』


 ―2005.12.26 21歳―

 交際相手である晋作しんさくの父が膵臓癌で亡くなった。彼は高校生の頃にも母を胃癌で亡くしている。

葬儀に出席した純麗子すみれこは、親族席からボソボソと発せられる晋作への批判に心を痛めた。


「姉の亮子も妹の加代も嫁いでしもて、晋作だけで看よったんやろ?男一人では行き届かん事もあったやろな」

「ホンマに看病なんかしとったんか?嫁にも逃げられて、バイクで遊びほうけとるって聞いたで?」

彼の献身的な看護を見て来た純麗子は、心無い言葉に涙が溢れた。ついには嗚咽し、彼の姉妹から下がるように言われる。


 葬儀後、妹の幼子と遊んでいると、

「あんなに泣いといて、今は楽しく遊んでるわ。ちょっとおかしな子やね」と姉妹のあざける声が聞こえた。


「今日、お姉さんらぁに何か言われた?」と助手席から純麗子は尋ねる。


 晋作は34歳バツイチ。10歳下の前妻とは4年前に離婚した。交際期間数ヶ月での妊娠、結婚。前妻のお腹にいる段階で赤ちゃんの病気が発覚し、大金を掻き集め出産するも、里帰りしたまま戻る事なく離婚に至った。


 家族にとって最悪の印象を残した前妻と純麗子が「似ている」と、葬儀後に姉は言ったそうだ。

妹は「お兄ちゃん、女の趣味悪いわ。ロリコンなん?女選び間違えたな。また逃げられるで」と。

想像以上の言葉の威力に、純麗子の視界は一気にやけた。


 青過ぎた純麗子は、とにかく結婚を責っ付いた。自分が胸を張って居場所と言える確証が欲しかった。

「結婚はせえへん。子供はいらん。女は子供を産むと変わるから」

晋作はいつも同じセリフで跳ね除け、

「ずっと可愛くて綺麗な純麗子でいてほしいからやで」と、横矢と同じことを言った。

最終的に、『子供を作らんくていいなら、籍を入れてもいい』との条件を出し、純麗子はそれを呑んだ。


 ―2006.4.24 21歳―

 結婚の挨拶に京都を訪れた。父が予約してくれた料亭で母とも再会し、少しいびつで、温かな空気が流れる。

「結婚式はしやへん。写真だけ」と告げた時の両親の寂しそうな顔が、純麗子の記憶に殊更しっかりと焼き付いていた。


 ゴールデンウィーク明けからは、晋作の実家での暮らしが始まる。姉妹の御宅へ挨拶に伺ったが、その際も「あの後文句言われとったで」と彼はわざわざ言った。


 晋作は純麗子がバイトをしているホテルのシェフで、朝食ビュッフェの卵係の当番に当たると36時間勤務となり、丸一日以上帰って来ない。

暇を持て余した純麗子は、ホームセンターで装飾材や塗料などを購入し、お風呂やトイレなど水回りを改良した。


 帰宅した晋作は、両親との思い出が詰まった家をめちゃくちゃにしたと激昂。

怒ると物に当たる癖があり、この日もカバンを投げつけられ、飛び出したZippoのライターが顔面に直撃した。

壁の穴もまた1つ増え、前妻との喧嘩の際に出来た穴も合わせると片手では収まらない数。

「女を殴れへんからや!」というが、裏を返せば本当は殴りたいと思っているのだ……。


 落ち着いた後、「親のこと思い出にする良い機会やったんかもしれん。ありがとうな」と態度を豹変させる晋作に、反省し切っていた純麗子は大人だなと感謝し、尊敬すらした。

しかし記憶を見る限り、私にはDVの典型な気がした。


 ―2006.5.11 21歳―

 出血に対し純麗子は、生理だとは思えなくなった。流産かもしれないと。今なら助けられるかもしれないと……。

生理が来るたびに産婦人科を受診している。

彼女は完全に精神を病んでいた――。


 良心の呵責に苛まれつつ「今日は安全日やから」と排卵日に言ったり、コンドームに針で穴を開けようとしたりもした。

避妊していても妊娠する事はある――、という僅かな可能性に、とても低い確率に、彼女は賭けていた。

婦人体温計の温度が下がると来る生理のお知らせに、落ち込みながらも……。


 結婚を目前に晋作は、友人とお好み焼き屋を始めるからと、突然ホテルを辞めた。

「粉もんは絶対儲かるらしい」と突っ走り、純麗子が止めるのも聞かなかった。

彼女はどうしても、起業だけは嫌だった。父親の失敗と重なるからだ。

結局、晋作は友人に騙され、お金を全て持ち逃げされる。渋々古巣のホテルに頭を下げ、バイトとして復帰した。


 別れのタイミングは幾らでもあった。しかし、彼との幸せな日々を忘れ、彼以上に愛せる人と巡り会う事などもう無いと、純麗子は思い込んでいた。


 ―2006.7.29 21歳―

 黄昏時の住宅街。ベランダで洗濯物を取り込む純麗子。5時を伝える夕方のメロディ。「バイバイ。また明日!」と声を掛け合う子供達。

『何で望んでも無い子のとこには来て、望んでるもんのとこには来いひんのやろねぇ』と胸をつんざく様にこだまする沙織の言葉。10日後に迫り来る入籍日……。


 時が、止まった――。

(あぁ、私はこの街で子供の声にむしばまれ、子供の姿をうらやみ、年老いていくのか……)

彼女の心の声が、私の走馬灯の中で悲しく響く。


 晋作は朝食ビュッフェの卵係の当番で、今夜は帰って来ない。

純麗子は大急ぎで荷物をまとめ、夜逃げした――。






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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