Anh.11『愛の蝶々はもう飛ぶまい』
―2004.11.15 20歳―
紅葉を見に行った時から、
理咲凪と横矢が交際を認めずとも、空気感はもちろんの事、店に籍の無い理咲凪が
「若い頃、マスターとおばちゃんにお世話になったから」と紅葉の下で彼女は笑った。
28歳という年齢は、料亭街では決して若くない。
然れど理咲凪の美貌は衰えを知らない。
たまに鯛焼きやみたらし団子を差し入れに店を訪れる一瞬の隙にも、
「おばちゃん、この子は何時から上がんの?」と声が掛かる。
純麗子も愛ちゃんも当然彼女に憧れ、
愛ちゃんを天下茶屋一丁目のコンビニで、おばちゃんを阿倍野警察署前で降ろした後、純麗子を
送迎車のノアから、会社に停めている愛車のメルセデス・ベンツSL500に乗り換えるためだ。
北新地に着き、深夜のドレスショップで横矢の着せ替え人形となった後、ダイニングバーへ。
ほとんど黒一色のクロスと、間接照明しか無いような暗く妖しい完全個室のソファに、アタッシュケースをドカッと置いた彼は、短い足を組んで思い切り横柄に座る。
明らかに一般的でない人達も加わり、
横矢にしてみれば、壁の花でも花飾りは必要なのだ。
会話はいつも上から目線で、
「これはD&Gとちゃうで。DOLCE&GABBANAや」
「ベンツやのうて、メルセデス
よく分からない会食の後は、純麗子のマンションで、性欲の捌け口として道具のように扱われた。
「ゴムを着けて」と頼めば、
「なんでワイが着けなアカンねん!お前がピル飲めや!萎えたわ!」と怒って帰る始末。
横矢は「子供は絶対にいらんし、結婚もない」と常々言っていた。おばちゃんによれば、彼はバツイチで中学生になる男の子が元妻の所にいるのだそう。
仕方なく吐き気を催しながらも、彼女はピルを飲み続けた。
だが愛されていると勘違いするような時間もあった。
阪神高速5号湾岸線をSL500のルーフをオープンにし、神戸ハーバーランドまでドライブした事。
湾岸線から天保山の大観覧車を見つけた純麗子が「いつか乗りたいな」と呟いた願いを、叶えてくれた事。
ヘリコプターをチャーターし、上空からPLの花火を見た事。
とは言え、純麗子は横矢を愛していた訳ではない――。横矢のような成功者から必要とされる自分に酔っていただけだ。
然れどいつしか独占欲が萌え立ち、BVLGARIの『B-ZERO1』のリングをペアで購入し、横矢に着けさせたりもした。
「ワイは指輪は絶対せえへんけど、これやったらかっこええし着けるわ」と言われた時、理咲凪の影に怯えながらも優越感に浸らずにはいられなかった。
―2006.4.26 21歳―
数ヶ月で新しい女の子が入り、夏の終わりには横矢との関係も途絶えた。季節が一周した二度目の春、理咲凪の名が表示された着信画面に凍りつく。
恐る恐る通話ボタンを押すと、「マスターとはどういう関係?」と涼しい声が耳を刺した。
「昨日、建設会社に税務調査が入ったんやけど、そん時社長室の机の鍵がかかった引き出しから、
確かに
それが今頃になって、税務調査でバレるとは思いもしなかった。
『適正申告?アホか。税務署がなんぼのもんじゃ!』と薄暗いダイニングバーで言い放ち、盛り上がっていた横矢の声が蘇る。
何か上手い言い訳を考えていると、理咲凪が次の一手を繰り出す。
「その写真の上に、『B-ZERO1』のリングがあった。あれは
鉄成が着けてたとこは見たことなかったけど」
なぜ写真も指輪も捨てていなかったのか。彼に愛は無いと思っていたが……。そんな純麗子の思考を読まれたのか、
「大切にしてた訳やないやろけど。捨てるん忘れる人やし」と付け加える彼女の圧に、
「理咲凪さんとマスターは付き合われてたんですか?」と白々しい質問で返すのが関の山だ。
「うん、誰にも言うなって言われてるんやけど。まぁ鉄成がよそに女作るために黙らしてるんは分かってるんよ……。
でもアイツは絶対に私んとこ戻って来るし。私と鉄成の関係はもっと深いとこで繋がっとるから」と言った後、彼女は少し間を置き言葉を繋いだ。
「――私は在日朝鮮人3世なんよ。猪飼野って前は呼ばれとったコリアタウンで、私と鉄成は生まれ育った。鉄成の家は親の代から建設会社と
縁故あって飛田で働かせてもろたんやけど、鉄成の愛人になって、アイツの家庭を壊した。
……今でも元嫁には嫌われとるんよ。当然やけど。
私らが今住んどる寺田町のマンションかて、元は嫁と子供と住んどったとこやし。
私は嫌やったけど、鉄成が勿体無いって言うから……。
外では羽振りいいやろ?せやけど私には『1日500円で暮らせ!』て言うんよ……」
ヘリのチャーターは50万円近くしたと言っていた。一緒に暮らす程ちゃんと愛された先に待っている未来が、500円の生活……。
理咲凪なら他にいくらでも大切にしてくれる男性はいるだろうにと思いながらも、純麗子は逃した魚の小ささに腹の底では安堵した。
誰からも愛される優しさと、クールで芯の通った印象を持つ彼女が、実際は依存体質――。
意外な衝撃と情念の深さに恐ろしくなった純麗子は、罪を認める事にした。
「マスターからは理咲凪さんとは何もないと聞いていたので。知らずにすいませんでした。
誰にも言うなって私も当時言われてて、理咲凪さんにも隠してました。本当にすいません」
「そう……」と彼女は小さく呟く。
「でも、もうとっくに終わってて。
去年の夏に酷く恫喝されてからは一度も。連絡すら取ってません。最近ケータイを紛失して新しくしたので、連絡先も残ってません。
それに正直マスターは私の事、好きではなかったと思います。体だけの関係でした。
私もベンツや社長っていうステータスに恋をしてただけで、マスターを好きやった訳やないんです」
純麗子は嘘と真実を織り交ぜながら訴え掛ける。
ケータイの紛失は本当だが、電話帳はiモードお預かりサービスに残っていた。ステータスと体だけの結び付きというのは、悲しいかな本音だ。
「それはなんか分かるわ。思った通りの事やった。美嶺らしいね。
あんなんアンタのタイプやないやろし」と、理咲凪はいつものように明るく笑った。
これが略奪した女の……、何度も浮気に耐えて来た女の執念かと感服する。
「実は今、妊娠して婚約もしてて。切迫流産で入院中なんです。ケータイ使える場所まで移動してくるのも本当は危険なんで、今後は電話に出れないかもしれませんが、理咲凪さんの声を久しぶりに聞けて嬉しかったです」
“嬉しかった”という言葉に、嘘はなかった。
「カッとなって電話したけど、私も美嶺と話せて良かったわ。元気な赤ちゃん産んでや」
彼女の言葉にも嘘は感じない。
“美嶺”と呼ばれるのはきっとこれが最後だと、純麗子は思う。
サトルがす
「ありがとうございます。理咲凪さんもお元気で」
そう。嘘はない。だが入院なんてしていない。純麗子は想像妊娠を繰り返していた――。
この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。
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