Anh.8『天使のように清らかな……』

 ―第4場―

『不実と保身の悲愴な家』


 ―2003.9.15 18歳―

「もしもし、今どこおる!?」

電話越しでも分かる程、興奮した声。


「南森町。バイト終わって、地下鉄乗るとこ。

そうちゃんこそどこおるん?めっちゃ周りうるさいやん」


「今すぐひっかけ橋来て!俺、飛び込むから!」

阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝。16歳の宗平にとって、生まれて初めての事だった。


 セレモニー中継が終わった午後8時。戎橋、通称ひっかけ橋周辺は、1000人を超える人だかりで埋め尽くされ、身動きのとれない状態。


 ごった返す地下鉄なんば駅から松竹座裏手にある出口の階段を押し合いへし合い上ると、パトカーと大型輸送車が視野の限界まで列を成し、ギラギラと回転する赤色灯は非日常を演出している。

何百人もの警官による交通整理の警笛は『六甲おろし』の大合唱に掻き消され、歓喜と厳烈の表情が入り乱れた。

ひっかけ橋へは到底近づける訳もなく、道頓堀橋の歩道から宗平に電話をかけるが、輻輳ふくそう状態による電波障害が発生し繋がらない。


 橋梁きょうりょうから道頓堀川へ次々飛び込む人々を、純麗子すみれこは揉みくちゃにされながらも幾人か眺めた後、心斎橋駅に向かって歩き始めた。

ようやく喧騒から離れたLOUIS VUITTONの前。阪神タイガースのトランクスだけを身につけた、ずぶ濡れの男。

宗ちゃん――。彼女には遠目でも分かるのだ。


 友人に服・財布・ケータイを預け、道頓堀ダイブを決行したがはぐれてしまったというので服屋を探すが、何処もかしこも『蛍の光』だか『別れのワルツ』だかが鳴り終わる時刻。

ようやくアメリカ村の黒人から服を買い、トランクス一丁の男を連れて入れるようなホテルに飛び込む。


 シャワーを浴び、二度と着ないような服に袖を通した宗平は、数回嘔吐。

其れもその筈、彼が飛び込んだのは、有害物質や病原菌を含むヘドロが底に溜まり汚染された“よどみの堀”だ。

苦悶する彼に、初対面の日も看病の夜だったと、純麗子は思い返す。


 宗平との出逢いはこれより10日前――。

指名がつかないホストがひしめき合うひっかけ橋の北詰だった。

180cmは優に超える長身痩躯そうくから醸し出される中性的な雰囲気。端正な容姿に反して、スーツに着られているような違和感。

通りすがりに視線がぶつかった彼を、純麗子は少し前から知っていた。


 雑居ビルの裏口で4、5名に取り囲まれ暴行を受けているシャープな顔つきの男の子。助けを乞うような眼と一直線に交わり、逸らした、明け方の宗右衛門町。

逸らす間際の、世間を恨むように光を失った切れ長の眼が、脳裏に焼き付き離れなかった――。


 もちろん彼は純麗子を覚えてはいないだろう。数秒目が離せなくなった彼女に、情けない誘い文句を浴びせる。

「お姉さんお願い……。風邪ひいとって寒いねん。客引き出来んと店に戻れへんし、初回料金で安くしとくから付いて来てくれへん?」


 9月に入ったとはいえ、まだまだ熱帯夜が続いている。寒いなんて事は、有り得ない。

しかし彼は本当に、凍えていた。


 たとえ初回料金だとしても、純麗子がわざわざお金を払ってホストクラブに行く理由は無い。

サクラとして契約している店なら制約の範囲内だが、お金を“貰って”遊べるからだ。

それでも彼に付いて行ったのは、目を背けた路地裏の罪滅ぼしだったのかもしれない。


 宗平からアフターに誘われ、道頓堀のびっくりドンキーで待ち合わせ。

先輩からイッキを強要されぐでんぐでんになった彼は、ハンバーグを食べながら眠ってしまった。

強めの冷房に震える彼を抱え、目と鼻の先にあるネットカフェかカラオケへ連れて行こうとするも、土壇場で16歳だと打ち明けられる。

身分証の提示がネックとなり、仕方なくタクシーで自宅まで連れ帰った。


 そして家を知った彼は来る日も来る日も、誰かに付いて入る事でオートロックを擦り抜け、純麗子の部屋の前で膝を抱え座り込んでいた。

捨て犬のように上目遣いで尻尾を振る彼を、招き入れない訳も無く、仮初かりそめのように始まった関係。


 結局その後も、客が捕まらず泣きつく宗平のため、サクラバイトの後に店へ向かう事もあった。

風営法では規制されている深夜でも営業を続ける店は珍しくなく、彼の店も例にたがわずけていた。


 清掃を終え出てきた宗平の様子が、酔いのせいかおかしい日が増えた。

猿の真似をして電柱によじ登る。

くいだおれ太郎の太鼓を叩く。

コンビニのペットボトルの冷蔵庫目掛けて放尿――。

幸い警察沙汰にはならずに済んだが、悪びれる事なく謝りもしない彼の様子が気に掛かる。


 翌週の日曜日は宗平の実家で過ごし、小学生の妹2人を連れ、自転車で駅前のミスタードーナツへ向かう。

あれもこれもと注文し、お腹いっぱいドーナツを食べた兄妹は、純麗子の想像を上回る程の謝意を見せた。妹達は一気に彼女に懐き、近くの公園で日が暮れるまで遊んで過ごす。

この日の宗平は、普段通りの天真爛漫な少年だった。


 土曜日の朝、いつものように宗平が清掃を終えて出て来るのをコンビニで待っていた純麗子は、此方こちらも見ず、ガラスの向こう側をスッと横切る彼に驚く。

慌てて追いかけると、

「誰やねんお前?!」と不良少年のような態度に生意気な口調。

彼がこの姿を見せるのは初めてでは無かった。

話が噛み合わない事や奇行も増え、彼女は色々な顔を持つ宗平を見失っていった。


 なんばパークスがオープンする10月7日、約束の時間を30分過ぎても宗平は現れず連絡も無い。

1時間半が経過した所で、ようやく電話に出た彼は、

「ごめん、今すぐ行くわ」と言う。

しかし、さらに3時間経っても来ず、何度か電話を掛けると、

「お前誰やねん、しつこいなぁ!」と怒鳴り、電話を切った。

彼の隣からはガハハと笑う女性の下品な声が響いていた……。


 ―2003.10.11 18歳―

 昭和町駅前のミスタードーナツで純麗子は、宗平が妹を連れて来ると言うので待っていた。

しかし、いくら待っても現れない彼らを心配して、彼の実家までヒールで歩く。


 迎え入れてくれた彼の母に、嫌な予感がしたのだろうか……。彼女の意識が遠退き、私の意識が顕在化する。

彼女は彼の母から何を言われるのか予想が付いていたのだ。

だから逃げた――。

私は彼女の記憶を覗き見る中で、そう確信した。






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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