Anh.3『恋は野の鳥』

 ―第7場―

『天罰と逃竄とうざん旅寓りょぐう


 ―2006.9.16 21歳―

「あっ、気が付いた?」

ベッドの脇からジャージ姿の男性が、此方こちらを覗きこんでいる。

(誰?えっ……!また病院?)


「あのー。私の持ち物とかって……」

「ああ、これ」と床から拾い上げられたバッグを受け取ると、礼を言うが早いか、直ぐにケータイを確認した。

(また機種が変わっとる……。)


 4ヶ月も経過しており、例の産婦人科に支払いへ行ったのかが心配になった。


「ところで、俺の事何で知っとん?」と、パイプ椅子からジャージ男が、期待の眼差しで聞いてくる。

(ん?……、全く知らんけど。)


「さっき目ぇ覚ました時、『和泉いずみ先輩!?』って驚いとったやん」

何かを答えるまでジーッと見て来るような、気持ちの悪い目だ。


(何か面倒くさいのんに絡まれてもた……)

「えーっと。……私は何でここに?」


「野球の練習グラウンドの横で急に倒れて、俺と救急車に乗ってここに搬送された。CT検査とかしたみたいやけど、異常は無いって。

ていうかー、さっきも言うたやん。ホンマに大丈夫か?」


「あぁ……、気分が優れないので休みます。付き添って頂いてありがとうございました。もうお帰り頂いて大丈夫なんで」

気まずさに堪え兼ねて、淡々と帰りを促したが、

「いや、心配やしおるわ」の一言で返されてしまう。

仕方なく眠るフリをしていたら、本当に深い眠りに堕ちた。


 ―2008.12.24 24歳―

「だから口でしろって!」

綺麗な顔の男性が仁王立ちで嗤笑ししょうする。

私は冷たいカーペットに座り込んで、彼を見上げていた。

(何でこんな事に――!?)

残存する記憶史上、最低最悪の目覚めだ。


「それくらいしてくれても良いっしょ」

彼のイントネーションが関西圏のものではないとか、どうでもいい事が引っかかる程には、妙な落ち着きを保てていた。


 しかし、そんな余裕はすぐに消える。

力強く髪を鷲掴み引き寄せられ、彼のベルトのバックルが、勢いよく弾む鞭のように額を飛び打つ。

「痛っ!」


「ごめん、ごめん。いいから早くして」

一層いっそのこと噛み千切ってやろうかと思ったが、面倒なのでやめた。



 ―第8場―

『喪失と零落れいらくの魔都』


 ―2010.11.30 26歳―

樫坂かしさかさん。今から、手術前処置の浣腸をしますね。左側を下にして横になって下さい」


(手術……?)

混濁した意識の中へ、ナースの説明が朧げに聞こえてくる。


「何の手術ですか?」と思わず口を衝いた。


「え……?」

彼女はぽかんとして手袋を履く手を止める。

「あっ、いえ……、どんな手術でしたっけ?」


「あぁ、そうですよね。申し訳ございません。

手術説明の際に気が動転して、後から不安になられる患者様も、少なからずいらっしゃいます。

もし宜しければ、主治医か担当医からもう一度ご説明に上がらせて頂きましょうか?」


「いえいえ、そんな……。浣腸の後の簡単な流れだけ聞かせて頂ければ」


「分かりました。まず浣腸をして、排便が落ち着かれましたら、手術着に着替えて頂き、点滴を始めます。

13時になりましたら、ストレッチャーで手術室へ向かう流れです」


 結局何の手術かは分からなかった。

そして状況を掴めぬまま、浣腸による激しい腹痛に耐える。

「すぐにお手洗いに行かずにギリギリまで我慢して下さいね」と言われたからだ。


 病室はトイレ・バスルーム付きの個室で、やけに重厚感のある室内。果たして自分に支払い能力があるのか、不安でしかない。

料金を示すものがないか辺りを見回すとベッドネームが目に入った。

(婦人腫瘍科?樫坂カシサカ純麗子スミレコ様!?平成22年……?)


 聞いた事のない診療科名、自分の名前は蔵埜くらの美嶺みれではなかったのか、

記憶を失くした2年もの間に何が……と、ベッドネームは私を余計に混乱へと陥れた。


 ふと目をやったベッドの脇に、『子宮摘出術を受けられる患者様へ』と書かれたリーフレットを見つける。

痛みも何もかも消し飛ぶ程の衝撃に、とにかく病院から逃げ出そうと思ったが、またグルグルと鳴りはじめたお腹と、額に滲む冷や汗に、まずはトイレへと駆け込んだ。


 ―2022.2.1 37歳―

 狭縮した意識の中、最初に視界に飛び込んで来たのは、鏡に映る自分の姿だった。

加齢に伴う外見の変化があまりに著しく、しばらく思考が停止した。


(あの後、手術はどうなったんやろ……)

少しずつ意識がはっきりとし、最後の記憶から10年以上も経過している事、先程までドレッサーに突っ伏して寝ていたであろう事は把握できた。


 不思議な事に、 蕪雑ぶざつ頭顱とうろへ“幾筋もの記憶”が流れ込んでくる。

流入し巡る走馬灯は、明らかに別人格のものだった――。






 この物語は、実在の人物や団体などとは一切関係ありません。作者の人生とも全く交差しない、詮索謝絶の完全なるフィクションです。

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