炎昼の怪

「ええと……ああ、これかな」

 卯月神社の物置。古い本が収められた本棚や、普段使わない雑貨類が置かれた部屋で、樂は卯月に頼まれた探しものをしていた。

 手にしたメモを見ながら、本棚に並ぶ本と見比べる。

 ここに並ぶ本は、そのほとんどが卯月の覚書である。それゆえか古いものが多く、そもそも本と呼べるか怪しいもの――ただ紙を束ねただけのもの――も多い。

 本や雑貨の劣化を抑えるためか、部屋の光量は乏しい。夜目がきき、この部屋に慣れている樂でも探しものには苦労する。

 メモを睨みつつ、棚からひっぱりだしたのは、明らかに手製と思しい本。表紙は黒い和紙、綴じられている糸も黒い。

 さらに、二、三冊、それらしい本を取り、いったん戻ろうとしたとき。

 とん、と。

 背中に触れる手があった。

「……っ!?」

 息が詰まる。血の気が引いたのが自分でもわかった。

(早く、出ないと――)

 気は焦るが、足が動かない。

 そのとき、くい、と、誰かが腕を引いた。こっち、と幼い声。

 ふ、と身体の縛りが解ける。

 物置を出ると、騒がしい蝉の声が耳に入った。さっきまで、聞こえていなかった声。

 気が緩んだのか、足から力が抜けた。そのまま、壁にもたれかかるようにして座りこむ。

 誰か呼んでくる、と、同じ声。引き止めるより前に、足音が遠ざかる。

 せめて呼吸だけでも落ち着けておこうと深呼吸をする。

 その間に、浮かぶ疑問。

「さっきの、誰だ……?」

 腕にはまだ、あの手の感触が残っている。声音も覚えている。

 だが、男か女か、身長は、服装は。そうしたものが思い出せない。

 それに、背を叩いた誰か。自分以外に、物置にはいないはずだったのに。

(……いや)

 軽く頭をふる。この暑さだ、少し熱気に当てられたのだろう。落ち着いて考えれば、すぐに思い出す。

 そもそも本殿にある物置に参詣者が来ることはありえない。それなら神使の誰かだろう。本を探すのに集中していたのだし、引き戸が滑る音を自分が聞き落としたことも考えられる。

「樂、どないしたん、そんなとこで」

「シャ」

 のろのろと顔をあげる。八塩を片腕に抱いた烏間美咲が立っていた。もう片方の手には袋を携えている。

「ああ、探し物があったから。さっき、物置に来なかったか?」

「自分はさっき八塩と山から戻ってきたばっかりやで。今日は大猟やったわあ」

 なあ、と同意を求められた八塩が、シャー、と答える。

「調理はいいが、血の始末はちゃんとしておいてくれよ」

 過去の惨状を思い出したのか、あはは、と美咲が笑う。

「うん、調理は八塩に任せるわ」

「シャー」

 任せて、と言いたげに、八塩がこくこくと首をふる。

「……まあ、八塩に任せておくなら大丈夫か」

「大丈夫やって。そういう樂こそ大丈夫なんか? 顔色悪いで」

「ああ、大したことはない」

「樂もたまには休みや。あんまり根つめても身体がもたんで」

「シャー」

 二人の言葉に苦笑する。

 その後、厨房のほうに向かう二人を見送って、樂はゆっくりと立ち上がった。

 卯月の部屋に本を届け、境内の掃除でもしようかと本殿を出た樂の前を、腕のない少女――ラベンダー畑の鴉が横切る。

 さっき物置に来なかったかと訊ねてみると、少女は首を横にふって否定した。物置に誰か入らなかったかと聞くと、腕のない袖が樂を指す。

 要は知らない、と言うことなのだろう。

 用が済んだとみた少女はまた走り出し――瞬きを一度したその瞬間に視界から消える。

 どこへ行ったのかと見回すと、本殿の屋根にその姿がちらりと見えた。

 その後出会ったほむらにも同じことを訊ねたが、彼女もまた、しらない、と首を横にふった。

「あ、でもね。あのものおき、たまにへんなことがおきるってきいたことあるよ」

 樂自身も、そんな噂はいつともなく聞いたことがあった。

 四時四十四分に物置に入ると出られなくなる、だとか、逢魔時に入ると恐ろしい目にあう、だとか、そういった話である。

 樂自身はこれまで何事もなかったこともあり、ただの噂だろうと信じてはいなかったのだが。とはいえ、ありがとう、と礼を言うと、少女は嬉しそうにその場を立ち去った。

 その後、竹箒で境内の砂利をならしつつ、出会った八ツ橋にも物置に来なかったか、誰か入ったのを見なかったか、と訊ねてみたが、見てないねぇ、と返ってきた。

「そうか……」

「ああ、でも」

「ん?」

「物置にはいろいろ置いてあるからねぇ」

「……わかってると思うが、食うなよ?」

「うん」

 そののんびりとした様子に、本当に大丈夫だろうかと思ったものの、八ツ橋がいくら大食らいとはいえ、物置に食べ物は置いていないし、彼が無断で食べるようなことをしないのは樂もよく知っている。

 ひととおり掃除を終えて箒を片付け、神社の裏手へ回る。

 ちょうど今の時間帯に影になるその場所では、何人かの神使がわいわいと何やら楽しんでいる。酒瓶も見えるあたり、何をしていたかは想像に難くない。

「昼間からずいぶんと楽しそうだな」

 若干声音が低くなったのは無理もない、と思う。

「これは樂殿、何か御用でございますか」

 いち早く反応したのは盃を持っていた手だけの妖の神使――正直目有である。

「ああ、さっき誰か物置に来なかったか?」

 樂の問いかけに、目有は他の神使たちと顔(?)を見合わせる。

「いや、我々は朝からずっとここにおりましたぞ?」

「……で、飲んだくれていたと」

 はあ、とため息をつく。

「飲んでいる暇があったら働け! 夏祭りが近いとこの前伝えたばかりだろうが!」

 卯月神社に、もはや日常とも言える雷が落ちたのだった。


(あとは……)

青祢しょうせん

「何だ」

 刀の付喪神であり、神使である青祢にも、物置に来なかったかと訊ねてみる。

「知らぬな」

「……そうか」

 しかし、それではおかしいのだ。誰一人、樂を除いて物置に入っていないという。

 なら、誰の仕業だというのか。

 記憶を辿る。

 耳に残る、柔い声。

 背に触れた感触。

 ぞくり、と。

 不意に悪寒が走った。

 夏の最中、危険なほどの熱気がまだ残っているはずなのに、周囲の温度が下がった気がした。

「――おい、」

「あ、悪い。何だった?」

 面布越しに、青祢が鋭く樂を見る。

「どこか、悪いのか」

「……いや、何でもないよ」

 口に出してはいけないような気がした。

 誰かがいたかもしれない、だとか、声が聞こえた、だとか。

 今言ってしまえば、一線を超えてしまう、そんな気がした。

「今年はやけに暑いし、感覚が狂ったのかもな。今日は早く休むことにするよ」

「具合が悪いなら、そうしたほうがいい」

 ああ、と答えながら、胸のうちによぎった不安を、無理に打ち消す。

 ここは神社の中、神域だ。害意を持つ者が、入りこめる場所ではない。

 そうして打ち消しても、一度よぎった不安はなかなか去らなかった。

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