或夜、花のもとにて

 月の明るい夜であった。

 その日、一日を神社の中ですごした卯月は、ふと思い立って卯月神社からほど近い荒神山の見回りに行くことにした。

 特に何か不安があったというわけではないが、〔百鬼夜行〕のあとから山中の様子を見ていなかったこともあり、町に何も起こっていない今のうちに、山の様子を見に行くつもりになったのである。

 荒神山は広く深く、妖も住んでいる。〔百鬼夜行〕では町中が大いに荒れた。その余波が、山にも及んでいないとは言えない。

「それならば、自分も……」

 と、言い出た樂へ、

「すぐに戻りますから、大丈夫ですよ」

 と返して、卯月は得物である薙刀を手に、ひとり山中へと入っていった。

 山中は静かなもので怪しいものはなく、安心した卯月が戻ろうとしたときだった。

 木々の奥に、ちらちらと飛ぶ青い鬼火が見えた。

(あら……?)

 卯月はそのほうへそろりと近付いた。

 鬼火は妖として珍しいものではない。真夜中になると山中に鬼火が飛んでいるとかいないとか、そうした噂が町でされているのも耳に入っている。

 誰か、いるのだろうか。

 そう思い、様子をうかがう。

 今が盛りと咲きほこる山桜の下で、のんびりと手酌で酒を飲んでいる男がいた。

 卯月が見た鬼火は、その男――磯崎の周りを飛び交っていた。

 昨年の〔百鬼夜行〕のときに、卯月は磯崎と会っており、その顔を知っている。彼が普段はこの山に住む妖であることも、〔百鬼夜行〕の一件にけりがついてのち、樂から聞いていた。

「や、これは……」

 卯月に気付いた磯崎が、慌てて立ち上がろうとするのを止め、卯月は笑んで会釈をした。

「お一人ですか?」

「ええ。知人が酒を届けてくれたので、がらにもなく夜桜見物と洒落こんでいたんですよ」

 見れば磯崎のそばには漆塗りの岡持があり、白鳥徳利が二本と盃が入れられている。

「がらにもなく、ですか」

 そうとも見えぬが、と言いたげな卯月に、磯崎が苦笑を浮かべる。

「昔はこれでも剣術一筋の野暮な男でね、桜が咲こうが藤が咲こうが毎日道場で木太刀を振っていたもので。おっと、神酒でもないものを勧めるのは気が引けるが、一杯、いかがです?」

「それでは、いただきましょうか」

 磯崎が岡持からもうひとつ盃を取って酒を注ぐ。微笑した卯月がそれを受けとり、盃の満を引いた。

「美味しいですね」

「それはよかった。生前ならともかく、こんな成れの果てにまでなってはいくら外見なりをつくろって、酒を飲んだところで酔えるものでも、酒の味がわかるものでもないのでね」

「わからないのですか、味が?」

「ええ。わかりもしないというのに、こうして風流を気取っているわけです。今は時間だけは余っているのでね。それはそうと、あの坊主はどうしています?」

「ああ、樂ですか。おかげさまで、最近では落ち着いてきたようです。夜にうなされることも、近ごろではなくなってきていますから」

「何よりです。それを聞いて安心しましたよ」

「貴方は、これからもここで過ごすつもりですか?」

 盃を干した卯月が、つかの間、じっと磯崎を見る。

 彼女が何を言いたいのか悟ったらしい磯崎が、盃を置き、その場で居住まいを正した。

「宮仕えには向かぬ性格ゆえ、このとおり、成れの果てにまで堕ちた身ではありますが、今更どこかに仕えようとは考えておりません。一度死んだ身ゆえ、こうなっては腹を切るわけにもいかないが……万一のことがあれば、この首、切り落としてもらっても構いませぬ」

 鬼火の青白い光が、磯崎の顔を照らしだす。

 その顔は、彼の言葉で言う“外見なりをつくろった”ものではない。彼本来の、肉が焼けただれ、骨が見えた顔。面に残る右の目に、真剣な光が宿っている。

「そうですか。私としても、強いるつもりはありません」

 ご馳走様でした、と卯月が立ち上がる。

 山を降りる卯月の肩口へ、ひらり、と山桜の花弁が一枚、風に吹き飛ばされてきた。

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