国語教師

 クリスマスはつつがなく終わり,評議員たちは平穏な――内心はいざ知らず――日常に戻った。しかし,平穏は長続きしない。クリスマスから二月と経たないうちに世のぼっちの,割合にして三分の一の,純情な感情を弄ぶイベントがやってくるのだ。




 クリスマスはキリスト降誕を祝う祭日であるが,かの忌々しき二月十四日もやはり聖人の名(ワレンティアヌス)を冠する,宗教的な祝日である。その日を,何を思ったか日本人はgirlsがchocolateをboysにpresentしてkyakkyauhuhuする日ということにしてしまったのである。破廉恥である。しかしまあ,起源をたどれば結婚と出産を司るローマ神話の女神ユノに関係する祝日であるから,あながち間違っていないのだが。


 御託をいくら並べたところで,いま目の前で交わされる瑞々しい青春のやり取りを否定すべくもない。


「はい,レン。これあげる」


「え,まじで,ありがとうヒナ。もしかしてこれって...」


 私のカビ臭い古典の授業が終わり,試験だ何だと言いつつ他の生徒たちが帰り支度を進める中,教卓の前はリンゴ畑のように爽やか空気に包まれていた。


「市販のやつをラッピングしなおしただけ。めるてぃちっす」


「そーいうのは言わなくてもいいだろ」


「だって勘違いされたくないし」


「勘違いなんかするかよ」


 私の受け持つ生徒の中でもかなり優秀な山田陽菜――クラスに同名の生徒が三人,学年に十人以上いるから,彼女は多くのクラスメイトからナヒーダと呼ばれている――は恐らく分かっているのだろう。


 手作りチョコは基本的に,味だけで評価するならば,市販のチョコの下位互換になる。チョコレートにはココアバターと呼ばれる油脂が含まれており,何も考えずに溶かしてもう一度固めると凝固の際に油脂の結晶構造が崩れ,チョコレートの評価基準の一つである適度な柔らかさとなめらかなくちどけが失われてしまう。

 それを防ぐためにはテンパリングと呼ばれる作業が必要になる。テンパリング,英語では temperingと綴る,この作業は日本語では調温といい,湯せんで温度を適切に変えながらチョコレートを攪拌することが要求される。私は一度この作業をやってみたことがあるのだが,途中で面倒になって溶けたチョコレートに食パンをひたしてそのまま全部食ってしまった。


 というエピソードを授業中にしたところ,大半の生徒は内職しているか,寝ているか,手もとを机の下に隠して何やら操作をしているかだったのだが,ナヒーダ――山田も陽菜もクラスに複数いるから私もこう呼んでいる――は私の話を熱心に聞き,メモを取っていた。どうやら私が挫折したテンパリングのプロセデューアをノートの隅にまとめているようだった。私は彼女には思い人でもいるのだろうとその時察した。

 なるほど,新山蓮がそうだったのである。彼はサッカー部に所属する2年生の男子生徒である。授業中はいつも眠っている服部平治似のこの青年は,レンニューなる,後で確実に恥ずかしくなるあだ名をつけられてはいるが,2年生ながら部のエースストライカーとしてわが校のサッカー部の高総体全国大会出場に貢献した有望な生徒だ。モヒートに練乳,もといナヒーダとレンニューがこういう気の置けない関係にあるのは知らなかったが,思い返してみると,入学式のあとに最初のホームルームをした際に,彼らは同じ中学校の制服を着ていたように思う。なぜそんなことを覚えているかは聞かないでくれたまえ。


「あ,先生。先生はチョコもらいましたか」


「俺を誰だと思っている」


 既婚者だぞ。


「まあもらってないですよね」


'Ja, Natürlichもちろん.'


 既婚者だからな。


「いいことありますよ。イッヒリーベミッヒ好きです,アタシのことが。あ,こらレン,これから勉強するんでしょ。逃げるな」


「ちがうってヒナ,お茶買ってくるだけだよ。このナルシスト」


「うるさい練乳!あ,先生さようならぁ」


「さようなら。おまえら明日の試験がんばれよ」 


 成績評価の一環として私は授業ノートを試験前に集めることにしている。生徒たちのノートは試験と同じくらい多くを伝える。新山蓮のノートは汚かった。恋の病という質の悪い熱に浮かされた書記の記したくさび形文字で埋め尽くされたノートの可読性は極めて低かった。だがしかし,よくできたノートだった。私がテストに出すと強調した部分,口頭で補足した内容,休講になった英語の授業を埋める一日限りのドイツ語講義,そして雑談の内容まで,細かい内容が記されていた。

 面白いことに,彼のノートの構成は山田陽菜のそれとほとんど完全に一致しているのだが,私の恋愛談義に関するもの――それとチョコレートの話――だけは彼のノートから抜け落ちていたのだった。






「どうした。辛気臭い顔して。」


 七,八年前だっただろうか。まだ私がクリぼっち救済財団の理事だった頃,顧問をしていた放送部の部員である男子生徒が,部室の隅で膝を抱えて泣いていたものだから声をかけた。




「玉砕しました。」


 なるほど。


「いや,なんか,仲はそんなに悪くなかったと思うんですけど,『そういうのはちょっと』って。」


 振られたか。如月に。たまにしか来ない俺でもわかるぞ。


「そうか。」


 こういうとき,何といえばいいのだろう。学年末試験にともなう部活停止期間初日,すなわちバレンタインデー当日に,惨めにも夕日に慰められるこの生徒に,何と言ってやればよいのだろう。


「よかったな。」


「はあ?」


「お前はあれだったな,確か国語の試験,小説読解唯一の満点だったな。」


「そうですけどぉ。」


「あいつはな,答案に,"エリスに変した" って書いてた奴だ おまえとあいつじゃ釣り合わん。」


「は?」


 しまった。選択を間違えた。


「あれ?幼女趣味ロリコンせんせい,なにしてんのー。うわ,まさか体罰ぅ。」


 ああ,俺の苦手とする生徒も来た。もうだめだ。


「俺がいつロリコンだと言った。」


「だってさ,教科書の挿絵のエリス見てかわいいって言ってたじゃん。」


「それは,いや,そ,別に幼い,いやあの絵が良く描けていたという話で。」


「うわ...。」


 明日一時限目に授業あるのに,しかもエリスと主人公の豊太郎が結ばれる場面...。


「ところでせんせぇ,今年はチョコもらったのぉ。」


「俺を誰だと思っている。」


「へんたい。」


 失礼な。ヘンアイマスターと言ってもらいたい。俺は眼鏡っ娘が好きだ。


「ああ,それで,チョコはもらったぞ。」


「え!だれだれ!」


「俺からだ。」


「きも。ナルシストだ。ばいばい。」


「ああそうさ。Ich liebe mich. 結局自分が一番かわいいんだよ。」


 去ってゆく女子生徒に,もう聞いていないと分かっていながら言い掛けた。

 誰だって結局一番かわいいのは自分なのだ。終末の時に考えるのは家族のことでも友人のことでも神のことでもない。最後の晩餐に何を食うかなのだ。だから許せ。君との相談よりも苦手とする生徒の処理を優先したことを。

 俺にだって,慰めが欲しいときはある。


「いいか,誰を好きになってもいいがな,一番好きな人の座は自分自身のためにある。他の奴に渡すんじゃないぞ。」






 暖房のきいた教室の中で,今が冬であることを思い出すかのように私は身震いした。体を縮こめた拍子に西日が差して私の手元を照らす。私の頼りない手には不相応な指輪も,この時ばかりは私を励ますかのようにまぶしく光っている。


「こんな俺が,よくもまあ。」


「あれ。せんせー,ヒナもう図書館いった?」


「行った。図書館かは知らん。待たせてるんだろ,早く行け。」


「ざっす。ったく。」


 まったく。俺はいい教師だ。







参考

みみずくのお菓子研究所, 22/25/1最終更新https://mimizukusan.com/article/chocolate-hard-why.html

私はバレンタインデーにオランジェット作ったことありますよ。自分用に。イッヒリーベミッヒ!

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