片手ポケットの男

物憂げに明滅するネオンに照らされた雪が散りゆく桜のようにひらひら降る夜の街を,少しくたびれた鈍色のコートに右手を突っ込んだ男が歩いている。ふいに冷たさを感じてちろっと空に目を向けると,またすぐに目を下ろし,所在無く腕時計を見る。ところどころ錆びた時計は一分半遅い時間を示している。手の甲は乾燥してかつてのハリがない。薬指の付け根には指輪の痕跡すらも残っていない。そして失ったものを数えるための指は恥じらっているかのように赤く染まっている。手を下ろし,深くついたため息だけがキラキラと輝いていた。


男は理事であった。感傷的な気分を台無しにする,一般財団法人クリぼっち救済財団法人なる組織で重責を負うエリート......ぼっちであった。可笑しくなって,男はくすりと息を吐きだし,通りを歩く人々に目をやった。男と同じ暗い表情の者も,胸を張って歩く者も,みな等しく繁華街の照明に照らされている。


その時彼は,群衆の中に一人,「無償の愛の証」を示している者がいることに気付いた。左手をポケットに突っ込んだ若い男は彼を見つめ返し,会釈をした。


「あなたも,そうですか」




「いやー,事務所の外で同胞に会うのはこれが初めてですよ」


男と青年は近くの居酒屋に入る。青年はつい2日前,新人の理事に選任された新人理事だと言う。


「まあ,でも,昨日解任されてしまったんですけどね」


「解任?いったい何を,いや,違うね。おめでとう」


めでたいことがあるものだ,と男は若者を祝った。若者は事務所で出会った女性と事務所から「かけおち」したのだと冗談めかして語った。


「ということは君はもう私たちの同胞ではないんだろ,なんで無償の愛の証...つまり片手ポケットを?」


ディッシャーで掬ったアイスクリームのようなポテトサラダを丁寧に箸で切り分けながら男は問うた。


「同胞の証だって聞いて,この証を見ると同胞は元気づけられると,会計監査人から聞いていたものだから。...実は昔,俺,法人の理事に励ましてもらったことがあるんです。高校の時の教師なんですけど。その教師がいつもポケットに片手だけ突っ込んでて。最初はなんというか,醸そうとしてる感じがして良く思ってなかったんですけど」


「まあ,実際ちょっとダサいわな。それで?」


男は,理事に選任された当日,当時の理事長に「無償の愛の証」を教えられたとき思わず胸倉をつかんで怒鳴り散らしてしまった過去を思い出す。



――俺は,...俺はっ,昨日っ,妻の不貞を知ったんだ!。それを,それを蒸し返すようなマネしやがってッ... 俺に愛を語るんじゃねぇよ!



「それで,...同じ部活の割と仲のいい女子に,俺はいい感じじゃないかと思って,告白して,バッサリいかれて,その娘は知らない男子と付き合って,俺は部活内で腫れもの扱いされて...。みんなに気ぃ使われて。そんな時に,その教師が俺に言ったんですよ」



――よかったな


――はあ?


――あいつはな,答案に,"エリスにした" って書いてた奴だ おまえとあいつじゃ釣り合わん


――は?


「なんだよそれ......最低な教師だな」


「ははは,そうでしょう。でも,嬉しかった。なんか元気が出た」


「そんなもんなのか」


糸のように細くなった若者の目には涙が留まりきらきらとしていて,男にはまぶしかった。


ふと男は,恋山形駅本部で出会った国語教師の理事を思い出した。ふてぶてしい表情をした国語教師とは数度言葉を交わした程度であり,数年前の冬に話したきり見ていない。ヘンアイマスターを自称した国語教師はなるほど理事の職務を全うしていたのである。


「だから決めたんですよ。今度は俺が励ますんだっ,て」


「なら俺に熱い激励を送ってくれよ。寂しい俺に」


「失ったものばかり数えるな!お前にまだあるものはなんじゃ,ゆうてみい!」


「おいなんでまじめにやらないんだよ」


「親友ポジは意味深なこと言って主人公を導くもんですよ」


「なんだよそれ」




居酒屋を出ると雪は止んでいた。煌々と光るネオンにくらくらした男はまた目線を落として来た道を戻る。間もなく来る聖夜に対する武者震いか,あるいは単に寒さによってか,男は体を震わせると,コートのポケットから右手だけを出してぶらぶらと垂らした。

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