第48話 血と涙
晩夏とは思えない清々しいまでに青い空とまっさらな雲。隙間から顔を覗かせる太陽が早くもじりじりと肌を照りつけていた。
普段なら暑さに音を上げて、とっくに足を引き摺っている頃合いだったが、今日は違った。
せっかく固めた覚悟をみすみす逃してなるものかと心做しか早足で歩き、自信満々かのように胸と虚勢を張る。
見れば、周りの生徒も似たように早足で駆けていく者もあれば、悠々とアスファルトを蹴り上げる者もあった。だが、彼らはどこか浮き立っているようで、顔は期待と自信に満ち溢れている。対する景は不安と焦燥に浮き足立っていた。
ついぞ学校の目の前まで来ると、校門には神社の鳥居の如く堂々そびえ立つ『蒼龍祭』の文字を冠した巨大な門が出迎えた。
景の通う高校では文化祭は蒼龍祭と称され、青い竜がその象徴として大々的に推し出される。
巨大な門にも青く塗られた竜のモチーフが巻き付くように設置されていた。
蒼龍祭と呼ばれるようになった由縁をどこかで誰かに聞いたことがあったような気もするが、特に興味も無かったので忘れてしまった。
確か、『青空を龍のように駆けてゆけ』みたいな思いが込められているとか何とか。
いずれにせよ、自分には関係の無いことだ、と景は割り切って門を潜る。
門を抜けた先には、それぞれのクラスが自分たちの渾身の出し物をアピールする為に設置された幟や横断幕が、色とりどりに揺れていた。
ポップな装飾の数々に目を奪われていれば、あっという間に昇降口へと至り、眼前に屹立する下駄箱は巨大な一枚絵と化していた。
初めて見る一年生は、いかにして上履きを取り出すべきかと頭を捻らせるだろうが、三年目にもなると、絵には四角い切れ目が入っていて、下駄箱の扉が一つ一つ開けられる構造になっていることは当たり前の事実であり、一年生の頃のように感動はしなかった。
だが、例え三年目であっても心躍る景色はある。
それが一階から三階まで広がる各学年のフロアだった。
各クラスが文化祭に懸ける情熱の強さを誇示し、競い合うようにそれぞれ気合いの入った装飾を施している。
赤に青に白、果ては金銀銅にエメラルドグリーンが至る所に散りばめられ、廊下に張り出したストライプの屋根や教室と教室の境に築かれたレンガ模様のアーチ、床に敷かれたダンボールの石畳も相まって、何の変哲もない地味なフロアは、異国情緒溢れる路地裏マーケットへと変貌を遂げていた。
高校の文化祭にしてはかなり凝っていることは言うまでもなく、近辺の高校からも参考にと見学に訪れる人があとを絶たなかった。
このクオリティを維持するために、毎年何人もの受験生が涙を呑んで浪人生へとジョブチェンジしたのか、その犠牲を思えば、感動せずにはいられない文化祭なのである。
そんな汗と血涙の結晶たる教室の数々を尻目に景は階段を駆け上がっていく。
その途中の踊り場、予期せぬ人物たちと邂逅を果たす。
目が覚めるようなオレンジのクラスTシャツに身を包んだ結衣と凛だった。
「へいへーい景くーん! 盛り上がってるかーい!」
野外フェスの煽りをできる限り下手くそにしたみたいな調子で結衣が声をかける。その隣で凛は明からさまに不機嫌な様子で顔を背けていた。
「梨花は?」
景は結衣の煽りには乗らず、彼女らの周りをぐるっと見回してから尋ねた。凛の眉が反応する。
「梨花に何の用?」
「ちょっとね」
「まさか浮気? きゃー春日井ちゃんに言いつけちゃおー!」
刺々しい空気を察してか、結衣が茶化しに入る。だが、凛は景を鋭く睨め付けたままだった。
「……けじめをつけるんだ」
景は凛の射るような眼差しを真っ向から受け止め、強い瞳でもって覚悟を示す。
数秒間、無言の空間が踊り場を支配する。
ステンドグラス然として窓ガラスに貼られたカラーフィルムがチラチラと光を反射して眩しい。
終わりが無いように思われたその時間は唐突に終わりを迎える。
「……梨花を呼んであげる」
凛は景から視線を外して歩き始め、すれ違う瞬間、ぶっきらぼうにそう言い放つと、ポニーテールを大きく揺らして階段を下っていった。
針の筵に座るようにおろおろしていた結衣は、慌ててその後を追い、自分も何か言わなくてはと焦ったのか「覚えとけよー!」と小物っぽい台詞を吐き捨てて階段を駆け降りていった。
景は彼女たちに感謝する。
そして願わくは彼女を救ってほしいと思う。
自分には担えなかった役割を押し付けるようで申し訳ないが、彼女と笑い合ってほしい。
最後の踊り場を回り、残りわずかの階段を駆け上がる。
昇り切った先は埃っぽくて狭い物置スペースとなっており、古びた机や椅子などが重ねられていたが、今はそれらに用はない。
目の前に立ち塞がる扉の取っ手に手をかける。捻る。しかし、扉は開かない。
手元を見ると、取っ手の上に掛け金が取り付けられており、さらに厳つい南京錠でしっかりと施錠がなされていた。
迷いはなかった。
景は側のスペースに重ねられていた椅子を手にして肩の高さまで持ち上げた。
鉄でできたパイプの部分が掛け金に当たるように思いっきり振り下ろす。
ガキン。金属同士がぶつかる鋭い音が響く。
だが、掛け金は歪んだだけで外れない。
もう一度振り下ろす。
そしてもう一度。
三度、鋭い音が響いた後、四度目でひときわ大きく音が鳴り、掛け金が外れた。リノリウムの床に南京錠が落ちた音が鈍く響く。
椅子を置き、びりびりと痺れる手のひらを扉へと伸ばす。
ひやりとした取っ手をゆっくり回すと壁と扉の隙間から光が漏れ出す。そのまま扉を押すと世界が開けた。
晩夏の空は先程よりも青を鮮やかにし、雲とのコントラストに目がちかちかして慣れない。蝉はいまだ健在のようでその短い命を燃やさんと懸命に声を上げ、青臭い生命の香りと湿気をたっぷり含んだ熱風が頬を撫でる。
秋にはまだ主導権を渡さない。夏が全力でそう叫んでいるような気がした。
屋上の中心へと出る。不思議と暑さを不快に感じない。流れる汗と荒い呼吸が、自分の生を強烈に実感させるのだった。
「景」
背中に澄み切った呼び声を聞いて振り向く。
開け放たれた扉の前、梨花が微笑んでいた。
「ああ、待ち焦がれたわ。やっと準備ができたのね」
優しい瞳で梨花が問いかける。
景はその答えを出すべく、スラックスのポケットから短冊上に折り畳まれた紙を取り出した。
大雑把に広げると、『婚姻届』と書かれた印字面を彼女の方に向けて片手で突き出す。
梨花は恍惚とした表情を浮かべ、嬉しそうに息を漏らす。だが、直後に顔から笑みが失せる。
何故か。
破ったからだ。景が手にしていた婚姻届を破ったのだ。
婚姻届は梨花の喜悦の情もろとも音を立てて引き裂かれ、ついぞちり紙とも言い難い粗末な紙屑へと形を変えていった。
細かく千切られたそれはもはや婚姻届としての役割を果たすこともかなわず、皮肉にも目出度い紙吹雪となって空へと舞い上がった。
「……どういうつもり?」
凍えるほど冷ややかに梨花が尋ねる。細められた目は笑ってなどいなかった。
蛇に睨まれた蛙の如く、立ち竦み、締め付られる喉を必死にこじ開けてはっきりと決意を口にする。
「ごめん、君とは結婚できない」
「そんなことが許されると思っているの」
許さないわ、と言外に述べていた。
彼女は容赦無く景の全身を締め上げていく。呼吸すら危うく思われたところで、ふっ、と空気が弛緩する。
「悪いことは言わないわ。私と一緒に罪を償って幸せな未来をつくりましょう?」
慈悲深く優しさを湛えた表情で柔らかに言う。
まるで全てを許し、救済を与えて下さる女神様のように神々しく光り輝いて見えた。少し前までの弱くて臆病な自分であれば、容易に縋り付き、泣いて許しを請いただろう。
しかし、今は違う。自分自身で決めたのだ。拳を強く握りしめる。
「それはできない」
景の答えを聞いた瞬間、梨花の顔は失望の色へと変化した。
「私とは生きていけないって、そう言うのかしら?」
「そうだ」
はっきりと口にした。梨花は俯いて表情を隠す。
「貴方はまた私の前からいなくなるのね。私を捨てて、逃げて」
怒りか、悲しみか、それとも失意か。判断はつかなかったが声を震わせていた。
あの日の彼女も同じ思いだったのだろうか。だとすればもう二度と、そんな思いはさせたくない。彼女を傷つけることがあってはならない。
「……違うよ」
景の否定に梨花がゆっくりと顔を上げる。景は彼女の瞳をしっかりと捉えながら、言葉を続ける。
「お寺に供養に行こう。あの子の」
梨花の眼差しがゆっくりと地面へと落ちる。彼女は諦めたようにぞんざいに吐き捨てる。
「そんなことをして何の意味があるの。どんなに悔い改めたって罪は消えないわ」
「そうだ。罪は消えないし、過去も無かったことにはできない。でも。でも、前には進むことができるようになるはずだよ。俺も、君も」
「……そうかしら」
梨花の視線は硬いコンクリートに転がったままだった。景は一歩、二歩と彼女に近づいていった。ついに彼女の目の前に立つところまで来る。
「正しいかどうかなんてわからない。けれど、確かに間違った過去と、自分と向き合おう」
彼女の名を口にする。おもむろに梨花が視線を上げる。
「あの時、独りにさせてしまって本当にごめん」
梨花がどんなに心細くて、不安で、怖くて、責任に押しつぶされそうだったか。その苦しみを理解した気になるなど、できるわけがなかった。
けれど、せめて。せめて今からでも。彼女に押し付けてしまった苦痛の一端でも担えたら。
「本当に、ごめん」
真っ直ぐに梨花を見て、謝る。
悲しげに彼女の瞳が揺れ、懇願するように弱々しく呟いた。
「なら、私と一緒に、生きてよ」
「それは、できない」
彼女と人生を共にすることはできない。彼女のためにも、自分のためにも。一生過去に囚われ続ける人生に意味は無いのだから。
「供養を終えたら、俺たち別れよう。別々の道を歩んで、それぞれ幸せになろう」
前に進むためにも。
「……貴方には幸せがきっと待っているわ。でも私には無い。何にも無いのよ」
梨花は寂しさを湛えた表情で、諦めたように言う。
「……俺は君の良いところたくさん知ってるつもりだよ」
気休め程度にしかならないかもしれない。
でも、ほんの少し前まで想いを寄せていて、恋人の関係にもなったこともあるのだ。
彼女のことなら何でもわかるとまでは言わない。けれど、長所や美点に良いところはいくつか挙げられる。
もちろん欠点だって。欠点がない人間なんて人間味が無くて恐ろしさを感じる。だから、彼女には何にも無いなんて絶対に有り得ない。
それに、と。
「君の隣にはいつも気にかけてくれる友達がいるだろ。二人も。あいつらは君のことで一喜一憂したりしてるんだよ。好かれている証拠だ」
梨花が目を瞑る。結衣と凛、あるいは他にも大切な人がいて、その人たちの姿を瞼の裏に思い浮かべているのかもしれない。
「そう、かしら」
「そうだ」
強く頷く。梨花にはまだ迷いがあるようだった。おずおずと口を開く。
「私、幸せになっていいのかしら」
「……いいに決まってる」
自分の立場で言うのはあまりに傲慢で烏滸がましいと自覚していたが、それでも彼女は充分に悩み、苦しんだはずだ。彼女の未来を制限する資格など誰にも無い。
「……わかった。でもその代わり貴方は」
梨花がそう言いかけたところで、唐突に景の方に向かって倒れ込むように前傾する。
銀色が太陽を反射して閃く。
かと思えば、今度はずん、と腹に鈍い衝撃が走る。
初めは彼女が胸に飛び込んできたのかと思い、どうしたものやらと困惑したが、程なくして彼女が離れると様子がおかしいことに気づいた。
梨花は真っ赤な飛沫を頬に散らせていた。
彼女の手には掌大のナイフが握られ、元は銀色だったであろうそれが赤い液体を滴らせて怪しく光っていたのである。
景は自分の腹へと視線を落とす。
白いワイシャツが鮮やかな赤の染みを描き出していた。
血。血だ。
下半身から力が抜け、硬いコンクリートに膝をつく。
不思議と痛みは感じなかった。痛みどころか暑さも寒さも熱も冷も感じない。しかし、額から汗が怒涛の如く流れ出す。
死?
死ぬ?
死ぬ。
死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
死。
死が間近に迫っている。
足音が耳元まで来ている。
頭が真っ白になる。
走馬灯の如く、今までの記憶がなだれ込んでくる、なんてことはまるで無い。
ただ、直輝に涼也、遥香、プレーン。両親に妹。
色んな人の笑った顔が映画館のスクリーンみたいに脳裏に映し出されていく。
死ねない。
死にたくない。
生存本能が刺激されたのか、生きる気力が無限に湧き出でてくる。
まだ間に合うかもしれない。
一縷の希望を胸に刺された箇所を止血しようと試みる。
だが、どこにも見当たらない。見当たらないのだ。
気が動転しているせいで見つからないのかと思ったが、違った。
無いのだ。傷が──
血に染まるワイシャツにもナイフで刺された穴が空いているはずだが、それも無い。
それどころか先程から血の染みの大きさが全く変わっていないようだった。
まさか、とワイシャツの裾を引っ張り出し、勢いよく捲るとどこにも傷跡のないまっさらで綺麗な腹が顔を見せた。
梨花に目をやる。
彼女は嬌笑を浮かべて手にしていたナイフを落とした。
くるくるとゆっくりと回転ながら刃先が下に向く。
そのまま地面に突き立つ。かと思いきや、刃先が地に着いた瞬間、銀色の刃は硬いコンクリートへと呑み込まれていったのである。
否、呑み込んだのはナイフの柄の方だった。
バネのように縮んたナイフは軽やかな音ともに二、三跳ねて止まる。
ナイフは既に元の形へと戻っていた。
景が呆然と地面に転がるナイフを見尽くしていると、その近くに赤い液体が少量残ったビニールのパックが落ちてきた。
ジョークグッズのナイフと血糊。
梨花に騙されたことを知る。
「あの時、私を置いていなくなったことはこれでチャラにしてあげる」
口元を笑みで歪ませたまま、機嫌良さそうに言った。
景はあまりに衝撃的な出来事から未だ立ち直れずにいた。
呆気に取られている景を余所に梨花は嘆く。
「はあ、私振られちゃったのね。これでも結構貴方のこと好ましく思っていたのよ」
いじらしい目付きで景に視線を送るが、反応を示さない。構わず、梨花は続けた。
「でも、少し前まで、貴方と同じクラスになるまでかしら、私は貴方のこと殺したい程憎んでいたわ。その時だったらそれ、本物だったかもしれないわね?」
足元に転がっている偽者のナイフを指して冗談ぽく言う。だが、冗談とも言い切れないところに恐怖を感じた。
「でも、変わったわ」
「……どうして?」
景からの反応が返ってきたのが余程嬉しかったのか、ふふっと口の中で笑いを転がす。
「貴方が犬を拾っていたから」
梨花の回答に景は解せない、といった顔をする。
「中学一年生の時も同じように捨て犬を拾っていたでしょう?
河川敷を歩いていたら愛おしそうに犬を抱える貴方を見かけたの。心が綺麗で優しい人なんだと感じたわ。
それが好きになったきっかけ。そして高三になって学校に犬を連れてきた時、今でも貴方は変わらないって気づいちゃったのよ。あの時のままだって」
彼女は懐かしそうに目を細めて、空を流れる雲を眺める。
その横顔は憑き物が落ちたように澄んでいて、綺麗だと素直に感じた。
「供養は遠慮しておくわ。今この時から前に進めると思うから。形に拘らなくても胸には刻まれているもの。貴方もそうでしょう?」
無言で深く頷く。
「じゃあね。またいつか」
彼女は景を一瞥すると満足そうに笑顔を見せ、背中を向けて去っていく。振り返らずに。
目が覚めるようなオレンジが網膜に焼き付いて、彼女が姿を消した後も夕日が光を残しているように思えた。
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