第47話 決起集会
プレーンはその日のうちに遥香の元へと無事に帰っていった。
景は遥香に事情を聞かれたが、曖昧な返事でのらりくらりと躱して事実に関しては何も答えなかった。
遥香は言いたいことがあるような表情をしていたが、景はそれに気づかないふりをして早々に会話を打ち切り、そのまま自宅へと戻った。
その晩、自室のベッドの上で片膝を抱えて考え込んだ。夜が更けて空がほんのり明るくなっても考え続け、学校に行く時間になっても、とうに文化祭準備を始めている時間になってもベッドの上から動かなかった。着信音が煩わしくなって携帯電話の電源も切った。
きっと今頃、自分がいないことに気がついた直輝や涼也に遥香、もしかしたら結衣なんかからも連絡が飛んできているかもしれない。
一応、学校には体調不良で通しているが、メッセージに返信しないことで彼らに無用な心配を抱かせるのは忍びなかった。
だが、文化祭準備の方は滞りなく進むはずだ。特に重要なポストについているわけでもなければ、頼まれた仕事を溜め込んでいるわけでもなかった。自分一人いなくても十分手は回るだろうから、今日のところは許して欲しいと思った。
ベッドの上に投げ出された短冊状に折り畳まれている紙が嫌でも目に入る。何度も捨ててしまおうと考えては思い止まってきた。
昨日の梨花の声が、言葉が、表情が、頭の中をぐるぐると駆け巡って離れない。
景は、自分しかいない静かな部屋で途方もない思考の海へとどこまでも沈んでいく。
彼女は「結婚しましょう」と言った。
なぜか。
「救うためであり、救われるためでもなる」と言った。
本当にそんなことができるのだろうか。
できる。彼女ならできる。
そう思わせる強さがその瞳には宿っていた。
ともすれば、彼女の提案は非常に魅力的なものに思えてくる。四年前のあの日から背負ってきた罪からようやく解放される。苦悩や後悔に苛まれる日々から脱却できるのだ。
他でもない彼女自身が自分を赦すと告げている。彼女もまた赦されたいと願ってきたに違いない。
もし、その手助けをできると言うのなら、喜んでこの身を投げ打とう。それが贖罪となるのならば。
今になって彼女が「貴方は断らない」と言った意味がよくわかる。
彼女と結婚する。
これほどまでに素晴らしい提案が他にあるだろうか。
現時点で彼女に好意を持っているわけではない。だが、過去に想いを寄せていた女性であり、見目麗しく、優美で聡明、気心も知れている。中学生の時のあどけなさは大人っぽさへと昇華し、所作も洗練され、この先大人になるにつれてさらに艶っぽさも増していくのだろう。
同じ時を過ごせば恋が芽生え、愛を育むに至るのに時間はかからないはずだ。
梨花の想像する未来は自らの想像する未来に足り得た。足り得るどころか十二分に溢れ、今までの不幸を補って余りあるほどの幸せがもたらされる予感がした。
過去の過ちすら思い出す頻度もだんだんと減っていき、そのうち忘れてしまうに違いない。
それでいいのか。全部忘れて、幸福を享受し、逃げ切った気になって生きていく。
本当にそれでいいのだろうか。
不意に涼也と直輝の、そして遥香の顔が胸に浮かんでくる。
自分を信じてくれている彼らを、彼女を裏切ることになりはしないか。失望させる未来になりはしないか。
きっと皆優しいから最後には許してくれるだろう。だが、果たして自分は涼也の背中で、直輝の前で、そして遥香の傍でへらへら笑うことができるだろうか。
できない。できるわけがなかった。
辛くて苦しくて、どんなに後悔したとしても彼らと、彼女と生きていきたかった。
心は決まった。後は行動に移すのみだった。
しかし、梨花に立ち向かう勇気があと一歩のところで出ない。油断すればすぐに臆病な自分が鎌首をもたげて、奈落の底へと引き摺り込もうとしてくる。自分の弱さにほとほと嫌気が差す。
カーテンの隙間から差し込む光が傾き始めていることに気づく。
おもむろにベッドの上に転がっている携帯電話を手にすると、電源をつけてメッセージアプリを開いた。
いろんな人からメッセージが届いており、不在着信の通知もちらほら見られた。心にじんわりと暖かいものが広がり、溢れたものが涙の雫となって頬を濡らしそうになる。
だが、しんみりと泣いている場合ではない。
数あるメッセージ欄から二人の名前を探し出し、一言だけ送信する。それっきり画面を閉じたまま、簡単に身支度を済ませて家を飛び出す。
全くもって彼らにおんぶに抱っこの自身の現状に苦笑いが零れるが、友情に免じて今回は許してほしいと思う。
代わりと言っては何だが、彼らの困難にはいの一番に馳せ参じて、例え微力だろうとも、全霊を以てして力添えすることをここに誓う。あと、ラーメンも奢ろう。一人一杯ずつ。
友情とはかくあるべし、と理想論を語る気などさらさらないが、それでも彼らは最高の親友であると今なら自信を持って宣言できよう。
「それで? どうしたってんだよこんな時間に。あと、今日仮病使って休んだっしょ!」
「お前が休んだ穴を埋めるためにこいつの人使いが荒くなって今日はもうくたくただ」
直輝が開口一番に景の仮病を看破し、涼也がそれに追随する。責め立てているわけではなく、冗談めかして何があったのか遠回しに尋ねてきていた。彼らの心配に申し訳なさとありがたみを感じる。
三人は、景が遥香とプレーンの散歩に訪れている公園の裏手側、普段通りかかることのない、人気のない一角にいた。
周りよりも少し高くなっており、住宅街を望む眺望は悪くはないが、如何せんここまでの道のりが木に覆われ、歩きにくい未舗装の坂を登らなければならないという悪路であるため、敬遠されがちなのであろう。
さらに、辺りが暗くなり始めたこともあって見渡す限り、人っこ一人おらずの貸切状態となっており、密談を交わすにはまさにうってつけの場所と言える。だが、景は別に内緒話をしにきたわけではない。
直輝と涼也に目をやる。
連日の準備に追われて疲れているだろうに文句も言わず、彼らは学校から離れた公園までわざわざ足を運んでくれた。
涼也に至っては家とは全く別の方向にあるにもかかわらず、だ。二人には感謝してもしきれない。
そんな彼らに何と伝えようか迷った挙句、適当な言葉が見つからないまま、とりあえず思い浮かんだ単語から言葉を紡いでいく。
「決起集会でもしようかと思って」
「何の?」
直輝が当然の疑問を口にする。まさか馬鹿正直に明日梨花に立ち向かう勇気をもらうため、とも言えないので、ちょうど頭に浮かんだ明日のもう一つのビッグイベントの名を借りさせていただくことにした。
「明日の文化祭の……?」
直輝と涼也が顔を見合わせる。本意ではない理由であるから疑問符がついてしまったことにはどうにか目を瞑って欲しいと思う。
追及を恐れたが、意外にも彼らはその理由に納得し、乗り気になったようだった。
「景がそんなこと言い出すなんて珍しいじゃん」
「いや、俺はそんなことだろうと思ってたぞ」
涼也はにやっと悪い笑みを浮かべて手に持ったビニール袋の中から何かをガサガサと取り出した。二人の目の前に高々と掲げられたそれを見て直輝は目を丸くし、景は呆れて笑った。
レモンをカットした断面図のイラストが描かれた銀と青のずんぐりした缶。目立つように丸く囲われた『お酒』の文字が妖艶な光を放ち、自らがジュースなどという甘ったれた飲料ではないことを誇示していた。
「わざわざ買ってきたの?」
お酒、の文字に目を奪われたまま景が尋ねる。
「一回家に帰って兄貴の部屋からひったくってきた」
「だから俺より早く学校出たと思ったのにここ着くのが遅かったのかあ」
直輝が得心いったような声を出しつつも目線は缶チューハイに釘付けだった。
二人して物珍しいものを見た幼子のように、瞬きもせずに自分の持つ缶チューハイに魅了されている様子を見て涼也が笑う。
「お前ら、飲んだことないのか」
直輝は「なーい」と、景は「昔、おじいちゃん家で少しだけ」と答えた。
「よし、なら今日は決起集会と前夜祭を兼ねて盃を交わそうじゃないか」
涼也が高らかに宣言する。
「でもいいのかよ? 俺ら高校生だぜ? 酒とか飲んだらやばいんじゃねーの」
こういう時、見た目に反して直輝はまともなことを言う場合が多い。日和っているというか及び腰になるというか、割と堅実的な思考の持ち主であった。
対して涼也はかなり豪快な生き方をしている。校則違反のバイクを乗り回し、口ぶりから察して飲酒も一度や二度ではないのだろう。その割にテストの成績は涼也の方遥かにいいのだから世の中とは不思議なものである。
二人の視線が景へと向けられる。どうやらジャッジを任されているらしかった。
基本的に景の生き方は直輝寄りである。だが、もう既に涼也に連れられてバイクで海まで駆けてしまっている。というよりも、中学時代に恋人を妊娠させている時点で堅実な生き方とは別れを告げているのかもしれない。
ならば、もう迷うことはない。
景は涼也の手から缶チューハイを引ったくると、強引にプルタブを開け、缶の底が天を仰ぐほど豪快に傾けた。二、三回喉を鳴らし、中身を半分ほど減らした後、持っている缶を夕闇へと掲げて「遥香に」と声高々に音頭をとった。
直輝は信じられないものを見たような目を景に向け、涼也は楽しそうにがははと笑った。
涼也はビニール袋から缶を二つ取ると一つを直輝に押し付け、もう一つは景がやったようにプルタブを引いて口をつける。二、三回喉を鳴らすと「ゆりなに!」と景の缶の隣に掲げた。
ゆりな、という名を聞いて景はいつかのプール掃除の時にいた後輩女子の顔を思い浮かべる。併せて何故か大崎少年の顔も浮かび、それが面白くて口元に笑みを浮かべてしまう。早くも酔いが回ってきたのか、なかなか笑いが収まらず、バレないように必死に噛み殺した。
景と涼也が一連の儀式を終え、残るは直輝のみとなった。二人の無言の圧に曝された直輝は「わーったよ」と渋々プルタブに手をかけた。
二人と同じように缶を傾けた後、天に掲げる。そして気づいたのだろう。彼ら二人は自身の恋人の名を口にしていたが、自分にはそういった存在がいないということに。
「……友情に」
苦し紛れに出した言葉に涼也が噴き出して豪快に笑った。
景もつられて笑いそうになるが、直輝とは一人の少女を巡って争った過去があり、その勝者である立場上、笑うわけにもいかず、再び緩みそうになる頬を必死に歯を食いしばって抑えた。
そんな二人の様子を見て直輝はみるみる不機嫌になっていったが、涼也が「悪い悪い。やり直そう」と仕切り直しを提案したことで、一旦は矛を収める。
気を取り直して咳払いを一つし、涼也が「友情に」と天に掲げる。
「友情に」
「……友情に」
三つの缶が空の下、かこん、と小気味いい音を立てて打ち鳴らされた。三人は同時に飲み口に口をつけ、缶を下ろす。
「いやこれは金谷が悪いだろ。なあ奥平?」
「乗ったりょーやも悪い」
「そうだよ涼也がお酒なんか持ってくるから」
「はあ? お前一番に飲んどいてよく言えるな。それを言い出したら奥平が彼女いないのが悪い」
「あんだとー? しょーがねーだろ! できないんだから!」
「金谷に春日井取られちゃったからか?」
「涼也! それデリケートな話題だから!」
「おい景! お前春日井さんを悲しませたら許さねえからな!」
「勢い余って妊娠させちまうとかな」
「涼也! それもデリケートなやつだから!」
酒が入っているせいか、三人ともいつもより饒舌になり、くだらない話で盛り上がった。
文化祭の名を借りた決起集会は気が付けば酒盛りになり、その意味を成していないようにも思えたが、景は、結局のところただ二人と話して笑い合いたかっただけなのかもしれないな、とすっかり暗くなった紺色の夜空の天頂に浮かぶ夏の大三角を見上げて独りごつのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます