第46話 罪

「わざわざこんなところに呼び出して何?」


 緑色のフェンスが四方を囲み、その隙間を抜けていく風が、少女の短いスカートと黒髪のポニーテールを揺らす。


 学校の屋上。

 普段は施錠されており、絶対に入れない場所だが、文化祭で使う垂れ幕を下ろすためにこの二日間は解放されていた。

 解放されているとは言え、立ち入るには先生の許可が必要だが、当然、そんなものは取る暇もなく、つもりもなかった。

 許可を求めたところで承認されやしないのはわかりきっていたからだ。


 どんよりと厚い雲に覆われた空の下、ポニーテールの少女と相対する。生温い風が頬に当たって不快だった。


「ここ一ヶ月くらい俺に嫌がらせしてきたのは君だろ、松永凛」


 松永凛。そう呼ばれた少女は、切長の目を鋭く光らせて問う。


「何か証拠でもあんの?」

「証拠はない。でも君しか思い浮かばない」


 フェンスの風を切る高い音が二人の間に流れる一触即発の雰囲気を際立たせる。

やがて、風が止み、世界から音が消えたかと錯覚したその時、凛が観念したように相好を崩し、目を瞑った。


「……そうよ、やったのは私。下駄箱の手紙も、盗撮を吹聴したのも。元々コソコソするつもりもなかったけど、バレちゃったらしょうがないわ。どうする? このまま先生にでも突き出す?」


「……なんでこんなことを」


 挑発するような笑顔を浮かべる凛の掌の上で踊らされないように極めて冷静に装って尋ねる。景の質問に彼女はがらりと態度を変えて冷たく言い放った。


「なぜかって? それはあんたが憎いからよ。あんたを追い詰めてやりたかった」


 景は何も言わない。


「春日井遥香とよろしくやってるあんたが憎くてたまらない。許せない。今この場で殺してやりたいくらいだわ」


 後半に進むにつれて熱がこもっていき、怒髪天を衝くほどの形相をしていた。あまりの迫力に景の額には汗が浮かぶ。

 凛は熱くなった体の熱を逃がすようにふう、と息を吐いた。


「あんたは梨花の気持ち考えたことないの? 

中学の時、あんたがこっぴどく振ったせいで梨花は毎日泣いてた。

相談に乗ろうとしても何があったか教えてくれないし、唯一話してくれたのは『景は悪くない』ってだけ。やっと立ち直って新たに高校生活始められると思ったらあんたがいる。

おまけに他の女とイチャイチャしてんのを間近で見せつけられてさ。ほんっとに梨花が可哀想。

あんたみたいな碌でもないのを好きになったばっかりに人生狂わされて」


「……梨花には本当に最低なことをしたと思ってる」


「はん、口では何とでも言えるわ。でもあんたは微塵もそんなこと思ってないでしょ。もし本当に心から反省してたんなら梨花の前であの女と乳繰り合ったりできないものね?

下駄箱に入ってる手紙を見て自分の行動を省みもせずにただのほほんと生きていることなんてできないだろ!」


「それは……」


「あんたのその曖昧な態度、ほんっと気に入らない。一番辛いのは梨花なのよ? 自分だけ被害者面して、悲劇の主人公演じてるの見ると吐き気がする。そんなに悲劇がお望みならと思って親切心から盗撮野郎に仕立てあげてやったのよ。

まあ失敗したけどね。あんたみたいな奴と未だに友達やってる奴がいるなんて信じらんない」


 凛は軽蔑した目で景を見下す。身長は彼女の方が若干低いはずだが、スタイルの良さと高圧的な態度も相まって景にはとてもそう思えなかった。

 だが、景は勇ましく攻勢へと転じる。

 許せなかったのだ。彼らは何も悪くないし、遥香にもプレーンにも罪はない。


「俺に対していくら嫌がらせをしようが何しようが特に文句はない。それだけのことをしたからだ。だけど、周りの人にまで迷惑かけるのはやめろ」


「あらあら、逃げ回ってたと思ったら今度はヒーロー気取り? たいそうなご身分ね。わざわざ言われなくても別にあんた以外に興味はないわよ」


「ならどうしてプレーンを誘拐したんだよ!」


「何? プレーン?」


 激昂する景に対して凛は怪訝な顔で尋ね返す。


 名前も知らずに誘拐したのか。

 景の怒りは最高潮に達し、凛に向かって怒鳴る。


「犬だ! 遥香ん家の犬!」


「……犬? なんでここに犬が出てくるわけ? ふざけてんの?」


 景の怒りを正面から受けて尚、凛は理解できない、といった顔で疎ましそうに片眉を上げる。

 とぼけているわけではなく本当にプレーンについて何も知らない彼女の様子に、景は怒りの矛を収め、一度冷静になって考えた。


 もし、彼女が犯人でないとしたら、いったい誰が。

 まさか見ず知らずの不審者がただの柴犬を誘拐したとでもいうのか。悪く言うつもりはないが、プレーンはその名に恥じないごく一般的な普通の柴犬だった。

 確かにまだあどけなさは残るが、拾った頃ならいざ知らず、今のプレーンを売り飛ばすには少々成長しすぎている。そんな柴犬を誘拐するリスクにリターンが見合っているのだろうか。希少な宝石でもあるまいし。


 だとしたら、なぜ。

 景が結論づける間も無く、答えは意外な形で目の前に現れた。


「犬を連れ去ったのは私よ」


 突如、鼓膜を心地よく震わす透き通る氷のような声が屋上に響き渡る。

 景と凛は二人してその声の主がいる方へと振り向く。


 そこには左手は耳元で髪を抑えながら、嫋やかにその長い黒髪を靡かせる少女の姿があった。

 芍薬のような佇まいで、彼女とその周りだけ西洋絵画から切り取ったかような洗練された美しさを感じる。右手には場違いなキャリーケージがぶら下がっており、銀に光るステンレスの隙間からは見知った枯芝色の柴犬が顔を覗かせていた。


「梨花!」

「プレーン!」


 凛と景がそれぞれ名を叫ぶ。

 二人の前に現れたのは、キャリーケージに入れられたプレーンと、そのキャリーケージを手に持つ内田梨花だった。彼女の整った眉がぴくりと反応する。


「こうして話すのも久しぶりなのに、犬の心配とは貴方もつれない人ね、景」


 氷の声が空気を凛として震わす。

 先程まで吹いていた風が嘘のように静まり返り、晩夏の屋上を冷ややかな空気が包み込んだ。どんよりとした灰の曇り空はより一層、重さを増して空のみならず地をも呑み込んでしまいそうだった。

 梨花は重苦しい雰囲気を物ともせず、気品ある佇まいで話を続けた。


「まず、うちの凛が貴方を傷つけたことについて代わりに謝罪するわ。本当にごめんなさい。凛、貴女も彼に謝るのよ」


 凛は困惑した様子で立ち尽くしていたが、梨花にそう促されると懇願するように反発した。


「あれは梨花のためを思って! そもそもこいつが……」

「いいから、謝りなさい」


 無感情の冷たく鋭い声が凛を刺し、押し黙らせる。言葉を失った彼女に梨花は深い溜め息を吐いた。


「もういいわ、凛。貴女は席を外してもらえるかしら?」


 一応、請願の形をとっているが、その声には有無を言わせない強制力があった。

 凛は何か言いたげに口を開いたが、梨花の強い瞳にたじろいで後ずさりするようにして扉の中へと消えていった。

 扉が閉まったのを確認してから梨花が景との話を再開する。


「ごめんなさい。凛は結構直情的なところがあるの。そこが美点でもあるのだけれど」


 困ったように眉を下げて笑う。先程の凛への態度とは裏腹に梨花は彼女に対して好意を抱いているようだった。

 もちろん二人は中学以来の親友であるからして、当たり前と言えばそうなのだが、景にはどうにも一方的な力関係が存在するように思えてならなかった。

 景と直輝や涼也とは全然異なった対等でない歪な信頼関係。それはまるで主人と従者のような様相を呈していた。


「それにしても、こうして二人でゆっくり話すのもいつ以来かしらね」


「……プレーンを誘拐してどうするつもり」


「あら、世間話もしてくれないのね」


 こちらを推し量るような梨花の視線に真っ向から立ち向かう。

 数秒、視線がかち合った後、梨花が表情を和らげて透き通る穏やかな声で言い放った。


「いいわ。……そうね、この子を連れ去ったのは殺そうと思ったから、かしら。今日ここで」


 景の目が見開かれる。


 殺す。

 確かに彼女はそう口にした。

 殺す、コロス、ころす。


 言葉は耳に入ってきたが脳がそれを理解するのを拒んだ。ただの嫌がらせに誘拐したものだと思い込んでいた。

 だが、実際は違った。途端に全身の血が沸き立ち、猛烈な憤りに体を震わせる。


「そんなの、許されるわけないだろ」

「あら怖いこと。でも貴方に私を責める資格なんて果たしてあるのかしら」


 梨花は嫣然と微笑みつつ、一歩一歩踏みしめるようにして景に近づいていく。二人の間に距離が無くなった時、彼女は耳元で囁いた。


「あの日、貴方と私の子を見殺しにした貴方に」


 景が後ずさりしたのと梨花がいたずらっぽく笑いながら跳ねるように数歩後ろへ下がったのはほぼ同時だった。

 再び二人の間には一定の距離が生まれる。


「それとも心配してくれているの? 大丈夫よ。私の手はすでに汚れてしまっているもの。もちろん、貴方の手もね」

「どうしてプレーンを……」


 梨花のペースに呑まれ、すっかり怒気を削がれてしまった景は力無く尋ねた。

 彼女は貼り付けた笑顔を崩さず、そのままの調子で語り始めた。


「少し前、貴方と、春日井さんがこの子を連れて公園を歩いているところを偶然見かけたわ。仲睦まじそうに話していて、その間でこの子は幸せを振りまいていた。とっても素敵な光景だったわ。まさに平和そのもの」


 手に持っているキャリーケージに目を落とす。

 再び景に視線を戻した時には、もはや笑顔は消えていた。心底つまらなそうな表情で、鋭く尖った氷柱のような声色で冷たく言い放った。


「だから、許せなかったの」


 あまりに冷たくも美しい、恐ろしいまでに無感動を湛えた目で真っ直ぐに見つめられて、景は思わず身震いする。


「おかしいじゃない? あの子は殺されたのに貴方は別の女とその子どもと幸せそうに歩いているなんて。本当なら、私が貴方の隣に立っていて、その間には私たちの愛しい愛しい子ども、ちょうど三歳くらいになるかしら? その子が笑っているはずなのに」


 梨花は遠い目をする。

 有り得べかざる未来を思い描いているかのように。

「勘違いしないでほしいのだけれど」と続けて言う。


「嫉妬しているというわけではないの。ただ、不可解で不公平で不条理ねって思っただけ。あの子はもういないのに、この子は楽しそうに原っぱを駆け回っているなんて。それではあの子に顔向けできないわ。私が、貴方が、殺した子どもに」


「だから、殺すの」と、それが当然の責務だと言わんばかりに彼女は淡々と言葉を紡ぐ。


「…………そんなの、間違ってる」


 景の覇気のない静かな抗議に梨花はピクリと眉を反応させた。


「私よりもこの犬っころの方が大切だって言うのね」


 景は答えない。

 張り詰めた緊張が風切り音となって沈黙を際立たせる。糸を切ったのは梨花だった。ふう、と小さく息をつく。


「いいわ。貴方は臆病な人だもの。許されないと知りながらそれでも何もできずにいる。そうでしょう? 景」


 優しい瞳が景を映し出す。


「でも、決して逃れられないわ。罪からもあの子からも、そして私からも」



「景」


「私たち結婚しましょう」



 頭を鈍器で殴られたかと錯覚するほどの衝撃が襲う。

 景の理解も肯定も全て飛び越して彼女は恍惚とした表情を浮かべて盛り上がっていく。


「ああ、どれだけ、どれだけこの日を待ち侘びたことか! 貴方が十八歳を迎える今日の日を! 景、お誕生日おめでとう。私たち今日から晴れて夫婦になるわ!」


 思考が止まった景はかろうじて息を呑んだ。


「もう私を見て恐る必要も気を揉む必要もないのよ。だって私たち夫婦だもの。夫の失敗や不始末も広い心で受け止められなければ妻として失格じゃない」


 嫣然として言う。

 景はいまだに理解が追いつかず呆然と立ち尽くしていた。


 彼女は相変わらず微笑んでいたが、突然、「そうだったわ」と何かを思い出したように真っ白なシャツの胸ポケットから短冊状に折り畳まれた紙を取り出す。それを丁寧に開くと、景に差し出した。


  有無を言わせない彼女の目に屈し、景は受け取る。

 『婚姻届』と銘打たれたその紙はずっしりと重く、吐き気を催すような色をしていた。妻の記載欄には既に内田梨花の名が記されている。


「本当は今日中に、と言いたいところだけれど文化祭の準備もあるものね。いつでもいいから書けたら持ってきてくれるかしら? そしたら一緒に役所に提出しに行きましょう」


「……もし、断ったら」


 全身全霊の勇気を以てして景が一言振り絞る。


「断らないわ。貴方は。そうでしょう?」

「……みんなに中絶のことをバラすのか」


「そんなことするわけないでしょう! その秘密は私と貴方の愛の形で二人を繋ぐ大切な証なのよ? 言わば赤い糸。本物の赤くて黒い糸。二人だけの思い出をみすみす他人なんかに汚されるなんて我慢ならないもの」


 景は何も返すことができなかった。梨花は慈悲深く寛大な愛だと言わんばかりに優しく諭す。


「私は貴方を脅しているわけではないのよ? むしろ救おうとしているの。そして私も救ってほしいの。二人でならきっとどんな困難も乗り越えられるわ!」


 景から視線を外して遠くの空を見やる。空を覆い尽くす鉛色の曇天。そこに群青は無かったが、目の前の彼女には確かにどこまでも広がる澄んだ青空が見えているような気がした。


「楽しみね。私たちまた一から始めましょう。そうだわ! 卒業したらどこか遠い静かなところに引っ越すのはどうかしら? もちろん初めは大変だと思うけれど、私も頑張って働くわ。そのうち余裕が出てきたら今度こそ私たち二人の子どもを家族に迎えましょう。その子が大きくなっていくのを側でずっと見守っていくの。大人になって結婚して孫を見せてくれたら嬉しい。ふふっ、その頃には私たちもうおじいちゃんとおばあちゃんね。そうなってもたまにはデートしましょう? ああ、なんて素敵な未来なのかしら。きっと私たち、幸せになれるわ」


 うっとりとした顔でまだ見ぬ未来に思いを馳せる梨花の姿に、景は思わず見惚れてしまった。

 自分をも巻き込んだ梨花の滅茶苦茶な未来設計が不思議と成就する気がしてくるところに恐怖を感じる。

 彼女の声には、言葉には、本気で実現可能だと思わせる説得力があった。その力は例え彼女と一緒に堕ちていこうとも、別に構わないとさえ思わせるほどに強く絡みついてくる。


「じゃあ、必要な項目を埋めてきてくれるかしら」


 梨花はそう告げると、気分良く踵を返して屋上のコンクリートの上を颯爽と歩いていく。景と階段へと続く扉のちょうど真ん中あたりに差し掛かった頃、「言い忘れていたわ」と横顔だけ見せるように振り向いて言う。


「愛しているわ。景」


 そう残した彼女の表情は風の悪戯によって靡いた長い黒髪に隠されてわからなかった。ただ、屋上を去っていく背中は思っていたよりも小さくて、何かを諦めたような物悲しさが漂っているような気がした。


 視線を落とした先、いつの間にか地面に置かれていたキャリーケージの中で、プレーンがわん、と吠える。鉛色の空の下、虚しい残響となって消えていった。

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